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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



明石城は徳川家康の長男、徳川信康の娘である登久姫と小笠原秀政との間にできた次男、小笠原忠真(家康の外孫)が1619年に築城した城である。

城の正門入り口から見た坤(ひつじさる)櫓



1615年、大阪夏の陣で小笠原秀政と長男小笠原忠脩が戦死したために、小笠原の家督は次男小笠原忠真が継ぐことになり、父と兄の戦功によって信州松本8万石から10万石に加増されて1617年に明石に移ってきている。

小笠原忠真は、当初明石城の西方、明石川河口西岸にあった船上城に入城したが、将軍徳川秀忠から10万石の譜代大名としてふさわしい城郭を建設するようとの築城命令があったらしい。

明石城の二の丸への石段



築城に当たって坤(ひつじさる)櫓は伏見城、巽(たつみ)櫓は船上城の遺材が使用されたと伝えられていて着工から3年後の1619年に完成したという。

明石城天守台から見た坤(ひつじさる)櫓



このとき天守閣は、台石まで積まれたが、譜代とはいえ幕府に遠慮したせいか建てられなかったようである。

城主の小笠原忠真に請われた剣豪宮本武蔵が、明石城の南側一帯の沼地を埋め立て都市計画をしたといわれており、その場所は現在明石市の中心地となっている。

本丸と二の丸との間にある石垣(門の跡か)



明石城築城から13年後の1632年、小笠原忠真は豊前国小倉に転封となり、小笠原氏は小倉藩15万石の大名として、明治維新までの235年間、10代に渡って連綿と続いたのである。

小笠原氏の後、1633年松平(戸田)康直が入城、その後1639年大久保季任、1649年松平(藤井)忠国、1679年本多政利と譜代大名の居城となっている。

本丸と二の丸との谷を渡る狭い通路



1682年、本多氏に代わって越前大野から徳川親藩の松平直明が6万石で入城、以後明治維新まで松平氏の居城となっている。

松平直明の父親である松平直良は、徳川家康の次男、結城秀康の6男であったので、明石城主松平直明は徳川家康のひ孫に当たることになる。

二の丸庭園



明石城の櫓は解体した城の遺材を集めて築城したせいか、老朽化が早く1739年には大修築が行われている。

明石松平家は、1840年に将軍徳川家斉の26男!!斉宣を養子として迎えたお陰で2万石加増されて8万石となっている。

坤(ひつじさる)櫓と城壁



11代将軍の徳川家斉は、40人以上の妻妾を持ち、男子28人・女子27人の子をもうけ、息子たちは諸国の大名に養子に出されている。

これら53人の子供たちの養育費や、養子に出す時に付ける養子先への加増や持参金などで、逼迫していた幕府の財政は更に圧迫され、やがて幕府財政は破綻へ向かうこととなったという。

明石城東口



徳川家の滅亡した原因は、11代将軍が精力絶倫であったせいという説があるくらいである。

徳川親藩の明石藩は、鳥羽伏見の戦いで、幕府方として出兵したせいで、明治になってすぐの1874年に廃城となり、1881年艮(うしとら)櫓が、1901年には北西の乾(いぬい)櫓が無残にも解体されている。

東の丸から見た明石市内



明治初期まであった2つの櫓の写真は、探せばどこかに現存していると思われるので、それを参考にして是非再建して貰いたいものである。


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コメント
 
 
 
リクエスト (ファンより)
2007-02-06 17:38:42
毎日ブログを書くのも大変な労力、知力だとおもいます。最近は携帯から楽しみに覗いています。が、あえてワガママ言わせて下さい。歴史上の人物史を書いて下さい
 
 
 
歴史上の人物 (ROSS)
2007-02-06 20:26:25
このブログでも、木村長門守、安井道頓、小川又次、児玉源太郎、山内容堂など何人かを取り上げています。
ご期待に沿うようこれからも機会があれば紹介したいと思います。

 
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