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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



四天王寺は、593年聖徳太子が、難波の荒陵(大阪市天王寺区)に創建したとされているが、発掘調査によると実際の創建は7世紀前半(推古朝の末年)らしい。



日本書紀によれば、物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り、蘇我氏についた聖徳太子が四天王像を彫り 「この戦いに勝てば、四天王を安置する寺院を建立する」 と誓願し、その誓いを果すために建立されたという。

四天王寺の「四天王」とは、古代インドの神で「持国天」「増長天」「広目天」「多聞天」のことで、それぞれ「東」「南」「西」「北」の四方を守る守り神である。

金堂



それにしても、1400年前からこの地にあった寺院が、幾度も焼失しては再建され、歴史に翻弄された大阪の中心部に今もしっかりと存在していることは奇跡的である。

聖徳太子が四天王寺を建てるにあたって、仏法修行の敬田院、 病者に薬を施す施薬院、病気の者を収容する療病院、恵まれない者を収容する悲田院の四院が中心伽藍の北に建てられたというが、現在の本坊や、墓地となっている辺りであろうか。



四天王寺の伽藍配置は「四天王寺式伽藍配置」 といわれ、南から北へ向かって中門、五重塔、金堂、講堂を一直線に並べ、それを回廊が囲む形式で、日本では最も古い建築様式の一つであるという。

回廊



787年に空海は四天王寺に借住し、西門で西の海に沈む夕陽を拝して、西方極楽浄土を観想する修行をしている。

空海に密教の教えを請うたこともある最澄は、816年に四天王寺に借住し、六時堂や椎寺薬師院を創建したと伝えられている。

六時堂



この六時堂は、1623年に再建されたものが重要文化財として中心伽藍の北に現存し、今も参拝者が絶えることが無いという。

六時堂の扁額には「六時礼讃堂」と書かれ、天台座主大僧正源応の署名があった。



愛知県春日井市出身の吉田源応(1849~1927年)は、12歳で出家し41歳で四天王寺住職、55歳で天台座主に就任、四天王寺中学高校を創設し、天台宗中興の祖といわれている。

明治時代の四天王寺住職であった吉田源応のように、四天王寺には天台僧の補任が多くみられ、かなり早い時期から天台化されていたようである。


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