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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



柳沢文庫のある毘沙門郭と本丸の間の内堀には、江戸期に架けられていた橋のための石垣の切り欠きが見え、極楽橋跡と書かれてあったが、当時としては相当巨大な橋があったようである。



毘沙門郭の南端から本丸に渡る狭い通路を通ると、二の丸から本丸に渡る竹林門があった。

狭い通路



郡山城の本丸には、天守台は作られたが天守閣は最初から建築されなかったようで、1585年豊臣秀長が築城したときにも、天守閣は無く本丸御殿だけがあったようである。

本丸の外にある内堀



徳川時代になってからの1619年に入城した松平忠明は、大阪夏の陣の戦場となり荒れた郡山城本丸御殿を捨て、広い二の丸の敷地に御殿を移している。

さらに1671年に転封してきた松平信之は、本丸御殿を取り払い敷地を更地にしてしまったようで、以降本丸は櫓と城壁が残り中央部は更地のまま明治を迎えたようである。 

竹林門跡



明治維新後まで残った郡山城の櫓は、廃城令によって1873年(明治6年)に競売にかけられ解体されたという。

再建された櫓



その本丸には1880年(明治13年)創建された柳沢神社が鎮座していたが、これは当然江戸期にはなかった神社である。



柳沢神社の裏から本丸東側の高い石垣の端まで歩き、堀越に東側を見ると江戸期に馬場のあった厩郭は郡山高校となっていた。



さらに本丸天守台の石垣をぐるっと一周すると、北側に有名な「さかさ地蔵」の看板が掲示されている。



1585年、豊臣秀長が郡山城を築城したとき石垣が不足したために、近郊から色々な石をかき集めたと謂われているが、それを証明するかのように石垣の隙間から覗くと、石地蔵が下向きに石垣の中に突っ込まれている。



この石地蔵には、1523年の刻銘があることが判っているので、野辺に置かれていれば風雨にさらされて消滅したかも知れない石地蔵が、郡山城の石垣として使われたために500年を経た今も貴重な歴史遺産として残っているのである。



天守閣が建築されなかった天守台の上までの石段は、段差が大きく登り難いが天守台頂上にたどり着いてみると、360度を見晴らせる絶景の場所であった。



そこには後の大正天皇の結婚を祝って明治33年に郡山城跡に松と桜を植えたことを記した石碑が残されていた。



天守を降りて、竹林橋門まで戻り、堀にかかった橋を渡ると1619年以降に郡山城御殿のあった二の丸で、そこは現在郡山高校となっていた。


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