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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



阪急京都線水無瀬駅から北西方向に真っ直ぐ伸びる道を暫く歩くと、こんもりとした森が見えてくる。



ここが、旧西国街道に面した史蹟桜井駅址で、森の樹は当然「楠木」である。

周囲は公園整備の工事中で雑然としていたが、ネットフェンスの切れ間から1921年(大正10年)に内務大臣から国の史蹟指定を受けていた桜井駅址に入ることができた。



中には巨大な石碑が3基あり、最も古いものは1876年に建立された「楠公訣児之處」と彫られたもので、題書は大阪府権知事「渡辺昇」である。



渡辺昇(1836~1913年)は、元肥前大村藩士で江戸に出て、安井息軒に漢学を学んだというが、さすがに江戸末期の漢学教育を受けた素養が筆跡に出ていると思った。

渡辺昇は、肥前に帰藩してから坂本龍馬と国政に奔走し、維新後は新政府に仕え、この石碑建立の翌年(1877年)に大阪府知事となっている。

石碑の裏側には、当事の英国公使ハリー・パークスの文章でTO THE ROYALTY OF The Faithful Retainer KUSUNOKI MASASIGE who Parted from his Son MASATURA At this spot before the battle of MINATOGAWA AD 1336(大意は、西暦1336年湊川の戦いの前における忠臣楠木正成と正行の別れの場所)とあった。



恐らくパークス公使は、楠木正成の逸話を聞いて感動し、この文章を残したのではと思うが、明治初期の英文石碑とは珍しい。

又、MASASIGE KUSUNOKIと、現在のように名前を姓の前に書かいていないのが興味深い。

ハリー・パークス(1828~1885年)は、少年期に父母が死去したために二人の姉を頼って清国に赴き、1843年15歳という若さで広東(広州)のイギリス領事館に勤務したという。

現在も広州に残る沙面租界地区の風景



1856年、広東代理領事に出世していた28歳のパークスは、アロー号事件に介入して清国に因縁をつけ第二次アヘン戦争開戦のきっかけをつくっているが、血気盛んな若者の暴走行為に当事の英国は乗ったのである。

パークスの要請で派遣された英仏連合軍は、1857年12月に広州を攻撃略奪し、3年間に渡って広州は英仏の占領下に置かれたのである。

沙面のコロニアル風街路



パークスは29~32歳までの3年間、人口100万人の大都市である広州の支配者であったと英語版のウイキペディアに出ていた。

フランス地区の教会



この間にパークスの指示で沙面租界が作られたのであるが、かつて広州に1年半滞在していた私には懐かしい場所で、沙面のことは1年前のこのブログに書いている

パークスは第二次アヘン戦争のきっかけを作った功績が認められ、上海領事を経て1865年には日本駐在公使となっている。

沙面の建築群は、現在中国の重要文化財に指定されている



第二次アヘン戦争を引き起こし、中国人の虐殺を何とも思わなかったパークスが、48歳になって日本人の楠木正成をFaithful Retainerとして顕彰しているのが面白い。

パークスは、明治維新前後の日本に18年間も続けて勤務しており、その間西洋文明の導入を推進するなど日本の近代化に貢献し、日本アジア協会の会長を長く務めていたという。

沙面の街路樹の中には樹齢300年を超える楠木がある(楠木正成と因縁がある)



1883年になって任を解かれたパークスは、少年期から青年期までの24年間を過ごした清国(北京)に渡り、2年後に58歳で亡くなっている。


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