大坂城の玉造口から入って本丸の入り口、桜門に向かってしばらく歩くと、蓮如上人袈裟懸の松という碑がある。

実際に今でも枯れた松の根が残っていて、江戸期を通じて本願寺の聖なる場所とされていたようである。

蓮如は、本願寺7世門主「存如」の子として1415年に生まれ、1457年存如の逝去に伴って本願寺8世に就任しているが、就任前に兄弟との激しい相続争いがあったようである。
大手門

兄弟による相続争いは、蓮如相続から135年後にも再発し、その際に本願寺が東西に分裂することとなる。
蓮如は生涯5人の妻を娶り、13男、14女をもうけているので、公私ともにかなりエネルギッシュな人物であったようである。
京橋口

70歳を過ぎてから5番目の妻との間に7人の子供を作っていて、最後に生まれた実従という13男は、驚くことに蓮如が82歳のときの子供であるという。
蓮如は、1496年(明応5年)81歳で大坂坊舎を建立し1499年まで、大坂に居住したという記録があり、そこに大坂の地名が歴史にはじめて登場するのである。
極楽橋

蓮如上人袈裟懸の松の西側には、1929年(昭和4年)5月に建立された石山本願寺の由緒が書かれた蓮如上人碑と、南無阿弥陀仏と彫られた円柱の石碑が建っている。

1929年の10月には、世界大恐慌の引き金となったニューヨーク株式市場での株の大暴落がおきているが、石碑はその直前に建立されたものである。

1532年(天文元年)本願寺第10代門主の証如上人は、六角定頼によって焼かれた京都山科本願寺を退去してこの地に移り、ここに本願寺教団の本拠地となる石山(大坂)本願寺が誕生している。
青屋門

証如(1516~1554年)は、父親が早世したために9代門主であった祖父「実如」の跡を継いで第10代門主になったが、当時10歳と若かったために母方の祖父、「蓮淳」(1464~1550)の後見を受けている。
乾櫓と外堀西の石垣

蓮如の6男であった「蓮淳」は、父親の「蓮如」と良く似たエネルギッシュな人物であったようで、孫の証如が33才となるまで本願寺を切り盛りし、父親をしのぐ85歳という長寿を全うしている。
蓮淳は、各地の戦国大名に対抗して教団の統率力を高め、1532年には、管領細川晴元の要請を受けて門徒を動員し、細川家中における随一の勢力にまでなった三好元長(三好長慶の父)を敗死に追いやっている。
外堀の西側

六角定頼によって山科本願寺が焼かれ、京都を追われたのも管領細川晴元が蓮淳の指導する教団の力を恐れたことが原因らしい。
6番櫓

1554年、証如は37歳という若さで亡くなり、11歳の顕如が11世門主を継いでいる。
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