長い運転の途中休憩、暑い日差しが照りつける8月の後半。コーヒーを持って野外を少し歩いてみた。雑草が茂った野原から虫達の大合唱が途切れる事無く沸いてくる。雑草が茂った野原というのはエネルギーに満ちているようだ。
ベンチに横になって、しばらく目を閉じて虚ろな状態でいると太陽と風と虫達と自分との境界線があいまいになり、僕は雑草の一部になったようだ。目がはっきりと覚めたのは木陰に隠れていた頭上の太陽が頭上の小枝を避けて姿を現し、強烈に僕を照らすからだ。
野の花がどうして育っているのか考えて見るがよい。
マタイによる福音書6-28
栄華を極めた時のソロモンでさえ、この花の一つ程にも着飾ってはいなかった。
マタイによる福音書6-29
今日は生えていて、明日は炉に投げ入れられる野の草...
マタイによる福音書6-30
目の前の光景を眺めながら、キリストが野に咲く花について語った言葉を思い出した。
キリストはそれ程野に咲く花については語らなかったようだが...
ただ、 キリストはこう言いたかったのだろう、
それは、
生活に少し疲れたな、と感じたら、
野に咲く花を眺めるのがいいよ。
花屋の店先にある花ではなくて、
野に咲く花だよ。
人々からは価値(コマーシャライズ)を付けられていない。
雑草です。
その辺に生えている草、
そしてその草が付ける花。
それを見ろ!とさりげなく伝えています。
我々の周りに、野に咲く花を眺めて心を囚われる人がどれ程存在しますか。
キリストがそう言うのは、多くの人々が野に咲く花に無関心だからです。
キリストは聖書を読んでその解釈の為に討論しろなどとは言っていません。
野の花とお話が出来るぞ!などとも言えませんでした。
僕は野に咲く花が、囚われない自由を伝えていると、
この時感じました。
ミツバチの喝采が花をゆらし、風が吹けばいっせいになびく野の花の群れ。
もし生きながらにして別世界に触れたいと思ったならば、
道端にクルマを停めて、
腰をかがめて、
野に咲く花の世界に浸ってみるのが好い。
おおーい、
そろそろ行くぞっー!
Let's Go! Come on...
後ろから声がかかった。
コーヒーは口を付けるによい程に冷めていたが、まだ一口もすすっていない。
ちょっと待って、今からコーヒー飲むからな。(汗)
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