第46代アメリカ大統領の就任式は異例尽くしであったようです。首都ワシントンD.C.には兵士等によって厳重な警備体制が敷かれ、紅潮した面持ちの観衆で埋め尽くされるはずの国会議事堂前の広場には、国旗や各州の州旗のみが並んでいます。恒例のパレードも10分ほどで終えたと報じられており、まるで現実味のないバーチャルな世界の出来事のようです。
今般の大統領就任式がかくも異様な様相を呈した理由としては、新型コロナウイルスの感染拡大の阻止と並んで、直前に発生した国会議事堂占拠事件が挙げられています。トランプ派の過激派による襲撃を恐れたというのですが、こうした異常事態の背景に選挙不正問題があることは否定し得ない事実です。仮に、軍事力を以ってしか鎮圧し得ないほどの大規模な暴動や攻撃を想定しているとすれば、歴史上の一揆や反乱が常々そうあるように、そこには、国民の多くが共感し、支持するような正当、あるいは、合理的な‘怒り’や‘不満’が認められるからです。米民主党が最も恐れたのは、不正選挙に対する一般米国民の‘義憤’であったのでしょう。
こうしたアメリカ国内の空気を読んでか、バイデン大統領は、大統領就任演説では、「真実(truth)もあれば、嘘(lies)もある。権力と利益のために嘘がつかれた」と述べています。さすがに自分自身を糾弾しているとは思えませんので、おそらく、トランプ前大統領の主張を全て権力維持のための嘘であったと主張したかったのでしょう。そして、この言葉が発せられた以上、アメリカ国民は、一つの難題を抱え込むことになりました。それは、トランプ前大統領とバイデン大統領のうち、‘嘘吐きはどちらか?’という大問題です。両者ともに大統領としてアメリカ史にその名が刻まれますので、どちらが嘘つきであってもアメリカ国民にとりましては不名誉この上ないのですが(もちろん、歴代大統領の中にも嘘吐きは存在してはいましたが…)、これ程はっきりと現職と前任者との間で二者択一の問題として示されたのは、前代未聞のことかもしれません。
そして上述した言葉の後に、‘我々は、真実(truth)を護り、嘘(lies)を打ち破る義務と責任を負っている’とも語られています。ここで言う‘我々’とは、同部文の中には‘指導者として(as leaders)’という言葉も見えることから、バイデン政権を支える民主党、並びに、その配下にあるマスメディア等のリベラル勢力全体を意味しているのでしょう。同政権が、自らの責任としてトランプ陣営の主張がフェイクであることを証明する決意表明にも聞こえ、この方針通りにバイデン大統領が行動すれば、米国民は、‘どちらが嘘つきか’の問題は新政権の下で厳正に事実関係が検証され、解決されるとする期待を抱くこともできそうです。
しかしながら、バイデン政権下における同問題の解決が期待薄であることは、誰もが感じるところです。容疑者・被告人が裁判官を兼ねるようなものですし、政権発足後に独立的な調査権を付与された中立・公平な機関が設置され、徹底した調査がなされたとしても、その結果、同政権を‘嘘吐き’であったことが判明すれば、その時点で、バイデン大統領、並びに、議員を含め、不正選挙に加担した全ての民主党系の公務員は、通常の裁判であれ、弾劾裁判であれ、職を追われることとなるからです。つまり、バイデン大統領は、就任演説にあって自らに課した義務を果たそうとはしないかもしれないのです。
しかも、さらに疑わしいのは、同演説では、真実(truth)という言葉が選ばれており、決して事実(facts)ではない点です。真実(truth)と事実(facts)は同義語のように思われながら、いささかニュアンスが異なっており、昨今、前者には主観性を帯びる傾向があります。そして、かのオーウェルの問題作『1984年』にあって、虚偽情報の発信源となり、また、事実の改竄を任務とする省庁の名称が‘真理省(ministry of truth)’であったことを思い起こしますと、戦慄さえ覚えます。もしかますと、バイデン大統領は、今日の中国や『1984年』の世界のように、自らを‘真実(truth)’の絶対的な決定者とし、強権を以って実際に起きた出来事としての‘事実(facts)’を抹殺してしまうかもしれないのですから。
‘どちらが嘘つきなのか’という問題は、アメリカ国民にとりましては、全体主義体制への移行の危機を意味するのですから、誰もが無関心ではいられないはずです。この点、退任を前にして弾劾裁判が決定されていたことは、不幸中の幸いであったと言えましょう。トランプ陣営にも、公の場で自らの主張を証明するチャンスが保障されていることを意味するからです。日本国民を含む全人類が知りたいのは、‘真実(truth)’ではなく、‘事実(facts)’なのです。