ワクチンの接種をめぐる政府の動きは、何処となく不審者のように国民の目には映ります。何故ならば、ここ数日、政府は、ワクチン接種に向けて慌ただしい動きを見せており、突如としてワクチン相なるポストまで新設しているのですから。突然の暴走は菅政権の特徴なのですが、その先には、‘デジタル・ディストピア’が待っているようにも思えます。
ジョージ・オーウェルのディストピア小説、『1984年』には、テレスクリーンと呼ばれるテレビ型の監視カメラが主たる国民監視の手段として登場します。その一方で、同小説が執筆された時代よりも遥かにテクノロジーが発達し、個人の個体識別や位置情報までも収集し得る今日のITのレベルは、同小説を遥かに凌ぐディストピアを現実のものとする力を既に十分すぎるぐらいに備えています。‘デジタル・ディストピア’とは、デジタル化が非民主的な支配と不可分に結びつき、高度に発達したIT、あるいは、AIを自らの道具として私的に独占する、隠れた‘権力者’によって全人類が支配される世界であり、一党独裁体制を敷く中国にあっては既にその姿を現わしています。そして、自由主義国もまた、‘デジタル・ディストピア’の脅威に直面していると言えましょう。
新型コロナウイルスのパンデミック化と共に、治療薬や治療方法、そして、ワクチンの開発は緊急を要する課題とされてきましたが、これと同時に人々の関心を集めたのが、‘免疫パスポート’とも称されたワクチン接種履歴の管理システムです。そして、同システムが‘デジタル・ディストピア’への道を開くとして警戒論が提起されたのも、それが、個人管理に留まらず、国民統制の手段として使用されるリスクを秘めていたからに他なりません。同警戒論とは、デジタル記録としてワクチンの接種履歴を持たない人は、金融機関に口座を開設できないどころか、あらゆる商店からも締め出され、社会的に排除されるというのです。
新型コロナウィルス・ワクチンの安全性が100%保障されているならば、‘デジタル・ディストピア論’はかくも警戒されはしなかったかもしれません。しかしながら、医科学的な見地からしても同ワクチンの安全性は保障されておらず、専門家でさえ、ウィルスの出現からわずか1年足らずで実用化されたワクチンの安全性を疑っております。このため、先進国を中心に根強いワクチン懐疑論があり、その接種も任意とされてきました。日本国内にあっても、オープン型の世論調査によれば、安全性が確保されてから、あるいは、そもそもワクチンは接種しないとする人が多数を占めています。全国民が揃ってワクチンの登場を待望しているわけではなく、強制接種など‘もっての他’と考えている国民も少なくないのです。ワクチン接種のイメージとしては、希望者だけが病院に出向いて接種を受ける、毎年のインフルエンザ・ワクチンと同様の光景を思い浮かべていたことでしょう。
ところが、今般の政府方針は、このイメージを一転させています。ワクチン相の強力な指導の下で全国レベルの大規模なワクチン接種プロジェクトを推進しようというのですから(‘プロジェクトX’に喩えているとも…)。新設のワクチン担当相には、行政のデジタル化の旗振り役を任されてきた河野太郎行政改革相が、突破力を評価されて抜擢されたそうですが、同人事には、‘デジタル’と‘ワクチン’との一体化を見出すことができます。また、同人事は親中派として悪名高き二階幹事長のお墨付きとも報じられており、懸念は増すばかりです。
さらに国民に恐怖心を抱かせるのが、平井卓也デジタル改革相が公表したマイナンバーとの紐づけ案です(同改革相は中国のファウェイと懇意…)。ワクチンの接種履歴をデジタル・データとしてマイナンバー・カードで読み出せるとすれば、国民は、マイナンバー・カードの携帯を義務付けられ、接種履歴のない人は、民間にあって入店やサービスの利用を拒否されたり、公共交通機関も利用できなくなるかもしれません。まさしく、上述した懸念が現実のものとなるのです。つまり、感染症の拡大措置を口実に、‘デジタル・ディストピア’へと、また一歩近づいてしまうのです。
菅政権が掲げるキャッチフレーズは、「国民のために働く内閣」です。『1984年』に描かれたビッグ・ブラザーが支配する独裁国家オセアニアの政府では、あらゆる物事があべこべでした。過去に遡って行政文書を改竄し、フェイクニュースばかりを垂れ流す官庁は「真実省」と命名されおり、「平和省」は戦争を管掌しています。デジタルは人々の生活を豊かにし、社会全体の効率性を高めるためのテクノロジーとして期待されていますが、それが支配欲に駆られた人、あるいは、組織に悪用されますと、表看板とは真逆の方向に強力に作用してしまいます。日本国政府、否、全世界の政府の多くが‘デジタル・ディストピア’への入り口へと国民を追い込んでいるとしますと(EUでも渡航条件としてコロナワクチン接種証明書の発行が議論されている…)、国民は注意深くと現状を観察し、危険性を感知した場合には拒絶や反対の意思をしっかりと示すべきではないかと思うのです。