今日、途上国から先進国まで、地球上のあらゆる国家は、デジタル化、地球温暖化、並びに新型コロナウィルス禍による急速な経済・社会の変化に直面しております。これらの三つの問題は同時進行しているのですが、それは、時間的な同時性のみならず、ある一つの共通点が見出せるように思えます。これら三者に共通する特徴とは、その何れもが、非人類主導型である上に、強制力を秘めている点です。
まずデジタル化を挙げてみますと、この現象は、テクノロジー主導型です。近年、急速に発展したITを牽引力とするものであり、必ずしも一般の人々が心から望んだ結果ではありません。この側面は、AIによって近い将来、知的職種までもが奪われるとする失業懸念によって端的に表されています。また、デジタル化は、人々の言動の自動的、かつ、全面的なデータ化をも意味しますので、人々は、管理される側として位置づけられてしまうのです。ITの普及は、経済活動やコミュニケーションにおいて利便性を高めたとはいえ、どちらかと申しますと、多数の人々のデータをシステマティックに収集して管理する管理ツールとしての側面が強いのです。ITが普及し、社会の隅々にまで浸透するにつれ、人々が、外部から監視されているような感覚を覚えるのは、同テクノロジーのこうした特性に因るのでしょう。
第2番目に挙げた地球温暖化は、地球主導型です。気候観測の結果、地球の表面気温の上昇が観測され、その主要な原因が二酸化炭素を含む温暖化ガスと認識されたことから、地球規模の課題として位置づけられることとなりました。二酸化炭素の排出規制は人類に対する生産活動規制をも意味するため、‘地球を救うために人類は犠牲になるべし’という見解もあり得ます。地球が滅びれば、同時に人類も滅びます。このことから、同見解は、二酸化炭素犯人説に従えば正しいのですが、同説の真偽のみならず、排出量を‘ゼロ’にする必然性や必要性については科学的な検証を経ているわけでもありません。従いまして、急激、かつ、過激な対策を主張する地球温暖化原理主義には、人々の経済活動や生活を一変さえかねないある種の強制力が認められるのです。
そして第3番目の新型コロナウィルス禍は、前二者とは発生の突発性においては異なっていますが、ウィルス主導型という点で人類主導型ではありません。疫病とは、古来、災害の一つに数えられてきましたので、人々が望んだ結果ではないことは明白です。しかしながら、人々は、感染拡大を防ぎ、自らの健康と命を守るために、自由に対する制限を受け入れざるを得ない状況に置かれてしまいます。移動の制限のみならず、マスクの着用や手洗いや消毒の習慣化も強いられます。その内、‘黙食’という言葉も登場してきているように、対面での会話さえ自粛が迫られるかもしれません。民間にあっても‘○○警察’が現れており、ここにも強制力が強く働く余地が見られるのです。
以上に今日の人類に降りかかってきた三つの問題の共通点について述べてきましたが、どれ一つをとりましても、民主主義の観点からしますと、人類の危機と言わざるを得ません。そして、今般、これらは三点セットとなって同時進行し、相乗効果によりますます強制力を強めているようにも見えます。コロナ対策はデジタル化の起爆剤と見なされ、システマティックな一体化が模索されていますし、地球温暖化対策も、あらゆる機器の電化を伴うことでデジタル化を促進させることでしょう。人々は、自らの望まぬ方向、つまり、データを握る外部から徹底的に監視・管理される側の立場に追い込まれてしまうかもしれません。
昨日、1月29日にオンラインで開催された「ダボス・アジェンダ」に出席した菅首相の演説では、これらの三点セットが漏れなく語られていたそうです。ダボス会議は、常々、かの‘ディープ・ステート’のフロント会議と見なされてきました各国の政治の優先的なアジェンダがこれらの問題に集中しますと、それぞれの国が抱える政治問題は後回しにされると共に、反対論や異論を含め、同問題に対する国民の声も政治の場には届かなくなりましょう。民主主義は、‘先端的なデジタル未来を築こう’、‘地球を温暖化から救おう’、そして、‘コロナに立ち向かおうといった’誰もが簡単には否定できないようなスローガンの許に静かに侵食されてゆくのです。
人類は、美辞麗句で飾られたこれらの問題の表面のみを見るのではなく、その裏側にある問題に対してもよく観察し、民主主義、そして、自由を護るための対処方法を考案すべきではないかと思うのです。これらの3点セットは、あるいは‘ディープ・ステート’とも称される超国家権力体が支配する世界への誘導装置かもしれないのですから。