世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。
多くの人々は、地球上を国境という名の障壁なく自由に往来できる状況こそ、人類が進歩した先の未来ではないかと信じ切っているかもしれません。国家や国境などは不要な上に迷惑な障害物に過ぎず、人類は、気の赴くままにどこにでも行けるべきと…。しかしながら、このグローバリズムが行き着く先の国境なき人類の未来像は、人類史を振り返ってみますと思いのほかに危ういように思えるのです。
人の自由移動や移民政策に対して反対を唱えれば、‘差別主義者’、‘時代遅れ’、‘愚かなポピュリスト’といった批判を浴びます。僅かに許される批判の根拠は、移民に職を奪われることによる失業や賃金の低下といった経済的な理由であり、イギリスのEU離脱もアメリカのトランプ政権誕生も、どちらかと言えば、グローバル化に伴う国民の不利益を以って説明されてきました。しかしながら、人の自由移動が引き起こす問題は、経済的な側面に限らないことは誰もが気が付いています。そこで本記事では、人の自由移動が人類の文化にもたらす決定的なマイナス影響について論じて見たいと思います。
人の移動の自由化を支持する人々がしばしばその論拠として主張するのは、古代における人の自由移動です。例えば、日本国であれば、‘古代には、中国大陸や朝鮮半島、さらには、その先の西域から様々な民族や部族の人々が流れ込んできたのだから、現代にあっても、日本国が多民族化しても構わない’と主張されています。確かに、『日本書紀』や『古事記』さらには『新選姓氏録』などを見ますと、秦や漢、百済や新羅の皇室・王室の末裔や西域の秦氏等が渡来していますので(ただし、朝鮮半島の南部には倭人が居住…)、歴史的な事実ではあります。もっとも、公文書に記録されているように、これらの渡来人の人々は、勝手に来訪して日本列島に住み着いたのではなく、日本国の朝廷から許可を得たり、その管理の下で定住を許されていますので、全く自由であったのかと申しますと、そうではないようです。世界史に名高いゲルマン民族の大移動も、最初にゲルマン人が西ローマ帝国に居住し得たのは、‘夷を以って夷を制す’の発想から、ローマ側が帝国辺境での定住を認めたことに依ります(結局、ゲルマン人はローマ帝国内で内部化され、最終的には、ローマ帝国の防衛に奮闘した最後の将軍はゲルマン人と云うことに…)。
国家が建設されますと人の自由移動に制約がかかりますので、過去にあって人類が自由に移動し得た時期とは、文字も発明されていない先史時代と云うことになりましょう。もっとも、原始時代にあっても、自動車といった移動手段を持たない人類の移動範囲は限られていたことは、気候適応によってDNAレベルで人種の違いが生じたことからも分かります。
何れにしましても、ここで問題となるのは、上述した主張は、数千年に及ぶ国民統合や、文化と云うものが長い年月をかけなくては醸成し得ない点を無視していることです。この側面は日本国のみならず他の諸国も同様ですが、ここで確認すべきは、定住という居住形態こそが文化や文明を誕生させたという点です(遊牧民等の移動民族にも固有の文化はありますが、特定の土地に密着てはいない…)。何故ならば、分岐した人類集団が数世代を越えて特定の地に住み続けたからこそ、人々の間で感覚や意識が共有されるに至り、その共有された感覚がその土地にあって具体的な文化として表現されているからです。集団で共有された固有の感覚や意識は、民族衣装、建築様式、儀式、さらには、人の心の在り方にも及ぶかもしれません。今日、人々が外国を訪れ、伝統的な街並みにあって異国情緒を楽しめるのも、諸民族の定住あってのことなのです。
このことは、常に人々が流動的に移動する空間では、固有の文化は育ち得ないことを示しています。しかも、原始の時代とは異なり、今日では、それぞれが既に文化的な要素を属性として備えていますので、人の移動が自由化されますと、地球上に豊かに花開いた多様な文化は全てミックスされ、各国ともに相互的な文化破壊に晒されます。時間の不可逆性、そして、直線的な経過を考慮すれば、過去における人の移動を以って今日の人の自由移動を正当化することは困難です。こうした点を無視しての移民政策は、時間軸を捻じ曲げて未来を過去に戻してしまう‘メビウスの輪戦略’の一種であるかもしれないのです。未来に向けて歩んだつもりが、いつのまにか原始時代に立ち戻っており、しかも同時に文化の多様性まで破壊してしまうのですから。人類の未来を、文化なき無味乾燥としたモノトーンの世界にしないためにも、人の自由移動がもたらす破壊効果についても深く認識すべきではないかと思うのです。
よろしければ、クリックをお願い申し上げます。
にほんブログ村
今日の国際社会では、一先ずは、一民族一国家を基本原則とする国民国家体系が成立しています。とは申しますものの、民族別の国家モデルは標準モデルであって、所謂‘新大陸’に建国された国家群は多人種・多民族国家ですし、‘旧大陸’にあっても、中国やロシアは標準モデルとは違っています。後者の二国は多民族国家であることに加えて、統治形態においても‘帝国’的な色彩が極めて強いのです。あるいは、今日、根強く囁かれるユダヤ系金融財閥による影の世界支配も、それが金融帝国と称されるように、帝国の一種に数えることができるかもしれません。現代という時代にあっても‘帝国’は、巨大恐竜のように完全に絶滅したわけではなさそうです。そこで、今日直面する‘帝国主義’の問題を考えるに先立って、帝国の性格の違いについてローマ帝国とモンゴル帝国を比較してみたいと思います。
帝国を称賛する人々がその根拠として挙げるのが、ローマ帝国の事例です。今日でも、ヨーロッパ各国を旅すれば、北はブリテン島から南はイベリア半島に至るまでローマの遺跡に出会うことができます。ローマの支配は中東地域や北アフリカにも及んでおり、ローマ帝国の版図に入った地域には、ローマ様式の壮大な建築物や水道橋等の高度なインフラ設備を見ることができるのです。カエサルによる征服以前のガリアの地はケルト系部族が素朴な生活を営む森林地帯でしたので、ローマによる征服は、同地を一気に文明化したとも言えましょう。帝国=文明化の図式は、古代ローマ帝国の事例を以って語られるのです。
それでは、何故、ローマ帝国は、文明をもたらすことができたのでしょうか。その理由は、イタリア半島に位置するローマが、隣接するギリシャのポリスの流れを引く定住型の都市文明を有していた点に求められるかもしれません。文明の誕生は農業の始まりと軌を一としていますが、国家の最初の形態は、多くの人々が集住するゆえに統治機能を必要とするに至った都市国家です。特に古代ギリシャのポリスは、アテネに代表されるように市民が政治に参加する民主主義をも編み出しました。当時にあって周辺の後進国であったローマは、統治の先進国であったアテネに学び、共和政時代には複雑な民主主義システムを独自に構築しましたし、ローマ法の名で知られるように法に基づく統治をも実現しています。特に、国家に対する権利者を意味する市民権の概念も重要です。加えて、快適な都市生活を実現するための土木建築技術をも発展させました。かくして、ローマの征服地には、ローマで培われた物心両面における高度な文明が伝播することとなり、今日でも、ヨーロッパ文明の源流は、古典古代、即ち、ギリシャ・ローマ文明にあるとされているのです。
その一方で、版図の広さにおいてローマ帝国を凌ぐモンゴル帝国はどうでしょうか。モンゴルの支配下に入った地域を訪れましても、モンゴル様式と称されるほどの明確な建築様式をもつ遺跡を見出すことはできません。その理由は、遊牧民族であったモンゴルには、遊牧民としての文化はあっても、ローマ帝国のような核となる文明を有していなかったからなのではないでしょうか。建築様式にしても、都市国家では定住を前提とした堅固な建築技術のみならず、インフラ整備を含む総合的な都市設計のノウハウも有しています。一方、遊牧民族は定住民ではありませんので、パオといった組み立て式の移動に便利な住居はあっても、都市生活に必要な技術を必要とはしませんでした。そして特に注目すべきローマとモンゴルの違いは、統治の側面における市民権概念の有無です。掠奪を生業ともしてきた後者には市民権概念が欠如しており、征服地の住民は支配や搾取の対象でしかありませんでした。劣位の市民権であれ、ローマが曲がりなりにも征服地の住民に市民権を与えたのとは対照的であり、モンゴルの支配が今なおも過酷な支配として記憶されているのも、このモンゴルの非文明性にあるのです。
同じく帝国と呼ばれつつも、定住型の都市文明を基礎とするローマ帝国と遊牧型のモンゴル帝国とでは雲泥の差が見られます。そして今日、ユダヤ系金融財閥による目に見えない‘世界帝国’が出現しつつあるとしますと、それは、一体、どのような‘帝国’なのでしょうか。ユダヤ人は、ディアスポラ以来、祖国を離れた流浪の民であり、この点は、モンゴルと類似しています。それでは、ローマのように都市国家のノウハウを吸収した上で拡張させた形態なのかと申しますと、そうでもないように思えます。全世界に拡散したユダヤ人は、都市に居住する場合でも、ゲットーに象徴されるように閉鎖的なコミュニティーを形成していました。そして、この閉鎖的な空間には、金融や商業活動を介した世界大に拡がったネットワークを伝って、世界各地から来訪したユダヤ系の人々が混住していたことでしょう。中には、離散先で現地住民と混血したユダヤ人や祖国を追放された非ユダヤ系人も逃げ込んできたかもしれません。こうした空間では、定住を前提とした安定した国家統治や市民権の概念が培われたとは考えられず、今日の世界的な不安定化や文明の消滅危機が生じているのは、ユダヤ系金融帝国のカオス的な性格が現れた結果かも知れないのです。
人類の未来が、SF小説に描かれるように、科学技術は発展していても伝統や文化の薫がなく、むしろ、オーウェルの『1984年』の世界が想起されてしまうのは、それが、ユダヤ系金融財閥がその実現を熱望している‘理想’であるからなのかもしれません。また、モンゴルの支配を受けた中国もロシアも、モンゴル系の帝国形態をも強く引き継いでいますので、より過酷な支配体制が成立することでしょう。こうした未来像が、人類の大多数となる非ユダヤ系の人々にとりまして望ましいのかと申しますと、否と言わざるを得ません。文化・文明の危機にあるからこそ、日本国を含め、全世界の人々は、自由、民主主義、法の支配、基本的権利の尊重、平等・公平といった普遍的価値を擁護すべく、‘現代の帝国’の出現を阻止すべきなのではないでしょうか。
よろしければ、クリックをお願い申し上げます。
にほんブログ村
報道に依りますと、韓国政府は、東京オリンピック・パラリンピックの開催を来年に控え、IOCのバッハ会長に対して旭日旗の禁止を要請する書簡を送ったそうです。禁止を求める理由は、「旭日旗は日本の侵略を受けた韓国や中国、東南アジアなどに歴史の傷を想起させる明白な政治的象徴」とのことですが、この要請に対して、IOCは、ケースバイケースで検討すると返答しています。
IOCの回答を読みますと韓国への配慮が滲んでおり、どちらかと言えば、その同国の言い分を認めているように感じられます。何故ならば、ケースバイケースと云う曖昧な表現をしつつも、場合によっては、旭日旗を応援席に持ち込んだ日本側の応援団やファンが、IOCから何らかの処分を受ける可能性を示唆しているからです。韓国側がスタジアムや競技会場で、日本国の旭日旗を振るはずはないのですから。つまり、IOCは、処分の可能性を示すことで、暗に旭日旗の持ち込みを控えるよう、日本国側に圧力をかけているとも解されるのです。
しかしながら、IOCは、こうした韓国の一方的、かつ、自己中心的な政治的主張を認めてもよいのでしょうか。上述したように、禁止要請事由は、旭日旗は日本国によるアジア諸国に対する侵略の象徴であるから、というものです。そこで、‘侵略の想起’を基準にして各国の軍旗を検証してみますと、旭日旗と同様にアウトになってしまう軍旗は少なくありません。大航海時代以降、アジア・アフリカ諸国の大半は西欧列強によって植民地化されています。世界を2分しようとしたスペインやポルトガル、インドをはじめ世界大に大英帝国を拡げたイギリスが典型例ですし、フランス、オランダ、ドイツなどの諸国も植民地を保有しておりましたし、アメリカもまたフィリピンを植民地化しています。また、ロシアのように周辺諸国を侵略し続けたり、あるいは、相互に領土を取り合う関係にあった諸国も少なくありませんので、‘侵略の想起’の基準を適用すれば、相当数の国が自国の軍旗を自国チームの応援には使えないこととなりましょう。況してや、日本国の場合、朝鮮半島の併合は条約に基づくものですので、当時の国際法では合法的な行為でもありました。武力による併合ではありませんので、少なくとも日本軍は関与しておらず、軍旗である旭日旗は韓国併合とは無関係なのです(併合に対する不快感であれば、国旗の日の丸となるはず…)。
もちろん、国旗と軍旗は違うとする反論もあるかもしれません。とは申しますものの、禁止基準を帝国主義的な‘侵略の想起’という感情に定めるならば、国旗と国旗を区別することは不可能です。むしろ、国旗の方が、より強く不快な感情を引き起こすのではないでしょうか。感情とはあくまでも主観ですので、ある国の政府が一方的に他の国の標章に対して不快の感情を表明すれば、その対象となった国、あるいは、その国民の行動を規制し得ることを、それが軍旗であれ、国旗であれ、何であれ、IOCは、認めてしまったことになるのです。今後、韓国以外の諸国から、他国に対する‘いやがらせ’を目的とした、同様の要請が寄せられた場合、IOCは、日本国に対する対応と同様に、暗黙の圧力をかけるという方法で同要請に応えざるを得なくなりましょう。
また、コラムニストの小田嶋隆氏が日経ビジネスの9月13日付のオンライン版の記事で、上記の見解への反論として、「そっちこそどうなんだ主義(Whataboutism)」に基づいた議論には乗らない。あまりにもばかげている。」と述べておられます。どちらかと申しますと、議論から逃げているようにも見受けられるのですが、この問題は、‘Whataboutism’とは本質的に異なるように思えます。その理由は、旭日旗問題は、禁止という他者の行為を拘束する行為の正当性が問われているからです。
例えば、ある人が盗みを働いた場合、被害者が返還を要求した際に、加害者側が、被害者が泥棒であった過去を持ち出して‘そっちこそどうなんだ’という場合に、相手の悪行を以って自己の悪行を正当化しようとする手法として‘Whataboutism’の論法が使われます。しかしながら、旭日旗禁止に関して問題となるのは、特定の国の他国に対する主観的な不快感情を以ってある行為を禁止するという、ルール設定の是非です(‘私が不快なのだから、あなたなはしてはいけない’のルール化…)。窃盗は、加害者も被害者も共に認める禁止されるべき犯罪であり(この点、‘Whataboutism’であっても両者の窃盗=悪に対する認識を共有している…)、誰もが納得する普遍性がありますが、一方的な感情を以って軍旗や国旗といった標章の使用禁止のルールとしますと、上述したように、これを全ての諸国に適応される一般ルールとして定めますと、多くの諸国が自国の国旗や軍旗の使用ができなくなるのです(相互に相手国に禁止を求める泥沼と化すし、果ては、国歌や国花などの禁止にもエスカレートする…)。となりますと、こうした主観性を認めるルール設定に対して批判が生じるのは当然のことではないかと思うのです。
このように考えますと、韓国政府による旭日旗禁止の要請に対し、IOCは、この種の禁止要請自体が大会運営の混乱要因となることを説明した上で、拒否すべきであったのではないでしょうか。個人的な主観が他者に対して絶対的な拘束力を有する世界とは‘人の支配’となりますので、今日の国際社会の一般原則である法の支配には相応しくもありません。また、禁止をするならば、オリンピックの平和主義に鑑みて、応援における全ての国の軍旗使用の禁止を一般ルールとした方が、遥かに筋が通っているのではないかと思うのです。
よろしければ、クリックをお願い申し上げます。
にほんブログ村
昨日9月11日、第4次安倍再改造内閣が発足しました。‘安定と挑戦の内閣’と銘打ち、憲法改正を成し遂げる長期政権の総仕上げとして位置付けられているようですが、その一方で、同内閣は、‘ポスト安倍’の試験期間ともされています。新たに任命された閣僚達のうち、誰が最も首相の座に相応しいのか、その政治手腕や実績が審査されると言うのです。
これまで安倍首相の下で自民・公明両党による長期政権が続いてきたのですが、同首相については健康不安説がありながらも、‘安倍一強時代’とも称されましたように、代わりになる人物が見当たらない状況にありました。そこで、第4次内閣では、憲法改正を実現する傍ら、‘ポスト安倍’となる人材を準備しておこうと言うことなのかもしれません。しかしながら、ここで不自然に感じることは、閣僚の人選を恰も‘ポスト安倍’の候補者選びとして扱いしながら、マスメディアは、誰がそれを評価するのか、敢えて触れていない点です。
通常であれば、日本国は民主主義国家ですので、評価者は参政権を有する国民のはずです。ところが、今般、ポスト安倍の候補として名が挙がっている閣僚達の就任に際しての談を聴きますと、見ている方角が国民ではないように思えるのです。例えば、再改造の‘目玉’ともされた小泉進次郎環境相に至っては、そのスタンスは明瞭です。何故ならば、環境問題は解決すべき国際的な課題であることを真っ先に述べつつ、最後の方で、取ってつけたかのように日本企業にもビジネスチャンスとなると語っています。しかも、本来の環境相の管轄は環境政策の分野なのですが、福島原発事故における放射能汚染問題に言及し(福島を訪問する予定…)、エネルギー政策にまで足を踏み入れようとしています。純一郎元首相共々、持論である脱原発政策への足掛かりとしたいのかもしれません。さらには、‘社会改革相’と名乗り、育休のみならず、夫婦別姓と言ったリベラルな政策にまで関与しようとしているように見えるのです。
それでは、一体、こうした改革志向の政策は、誰のために行おうとしているのでしょうか。安倍首相も、何故か、新内閣発足に際して社会保障制度改革を訴えておりましたが(全世代型の社会保障は共産主義の発想では…)、リベラルな方向‘社会改革’に対し、その破壊的な効果故に警戒心を抱く国民も少なくありません。仮に、‘ポスト安倍’の候補者たちが、それぞれこうした破壊的な政策方針を以って政策運営に当たり、それが、‘ポスト安倍’に選出される実績となるならば、評価者は、有権者である一般の日本国民ではない、ということになりましょう。つまり、‘ポスト安倍’に選ばれるのは、日本国民の抵抗や反対を上手にかわし、日本国、並びに、国民に不利となる政策を実行した悪賢い政治家、ということになるのです。
仮に、上記の推測が正しく、今後、候補者たちの間で激しい‘売国合戦’が繰り広げられるのであれば、日本国民は、忌々しき事態に直面していると言わざるを得ません。日本国民の評価と‘ポスト安倍’を選任する者の評価とが、全く以って正反対なのですから。‘改革’や‘前進’という言葉に聞き飽き、政治家の怪しさが表面化している今日、日本は独立国家と言えるのかどうか(得てして国民はより悪い状況に追いやられる…)、真剣に問うてみる必要がありましょうし、国民は、形骸化してしまった民主主義を取り戻す手立てを講じるべきなのではないかと思うのです。
よろしければ、クリックをお願い申し上げます。
にほんブログ村
昨日の内閣改造により、安倍内閣の新たな閣僚の顔ぶれが揃うこととなりました。中でも注目を集めているのは、小泉進次郎氏での入閣です。本来であれば、組閣に際しての‘サプライズ’情報となるはずなのですが、このニュースを耳にした国民の多くは、‘やっぱり!’と感じたのではないでしょうか。それでは、何故、国民の間でこうした既知感が生じているのでしょうか。
進次郎氏の父である純一郎氏が総理大臣を務めた際には、同氏の政治手法は劇場型と評されていました。ドラマチックな展開で国民を‘サプライズ’させ、不可能とされてきた分野においてドラスティックな改革を実行するスタイルであり、観客として小泉劇場に酔いしれる国民も少なくなかったのです。もっとも、幕が閉じた後で我に返って考えてみますと、その破壊効果にこそ驚かされるのですが…。言い換えますと、劇場型の政治スタイルとは、国民が感動するようなシナリオを入念に描き、たとえ日本国の国益や国民の利益に反するような政策であっても、それと気が付かれないような心理操作を伴う政治手法なのです(公演中にあっては国民は思考停止に…)。
今般の進次郎氏の入閣に際しても、既にお膳立てともいうべきシナリオが準備されていたように思えます。おそらくシナリオライターは、年若くして唐突に入閣したのではあまりにも不自然となりますし、大臣の椅子を順番待ちにしている古参の議員からも反発を買うかもしれません。そこで、まずは序幕として、入閣に先立ち、首相官邸で華々しく婚約発表を行い、進次郎氏が首相の座に近い特別な政治家であることを国民に印象付けたのでしょう。演劇効果としては、まずは、主役の登場シーンこそ重要です。アメリカ民主党のオバマ前大統領も、フランスのマクロン大統領も、若さを前面に打ち出して颯爽と舞台に登場してきました。主役は、他の登場人物よりも一段と目立つスポットライトを浴びる存在でなければならないからです。
主役が登場したところで、次に、シナリオでは政策面において政界に新風を吹き込む斬新な改革者のイメージを観客に与える場面が描かれているはずです。そこで、第一幕として、自らが育休を取得すると言ったリベラルな方針を打ち出し、従来の自民党の‘古いタイプ’の政治家と一線を画す姿を演じさせたのでしょう。そして、今般の入閣こそが、第三幕であるのかもしれません。
しかしながら、進次郎氏の入閣を描く第三幕を以って今般の小泉劇場が幕を降ろすのではないように思えます。国民の多くもうすうす感じ取っているように、その最終幕とは、日本国の総理大臣の座に就き、長期小泉政権を誕生させることなのではないでしょうか。あるいは、進次郎政権の誕生こそが第一幕であり、それまでの道のりは序幕に過ぎないかもしれません。何れにしましも、今日の政界は、全てではないにせよ、小泉劇場の舞台でもあるのです。
日本国において劇場型の政治を始めて実践したのが父純一郎氏であったため、その効果は絶大でした。背後にシナリオが存在することに国民は気が付かなかったから。しかしながら、今日、劇場型の政治手法の効果は薄れつつあります。シナリオの存在が国民の知るところとなると、もはや‘サプライズ’ではなくなるからです。つまり、国民の多くは、予め用意されたシナリオに踊らされることがなくなるのです。冒頭で述べた既知感とは、まさに、国民がシナリオの筋書きを見越してしまった結果なのではないかと思うのです。
このシナリオライターは、小泉改革の方向性が海外への利益誘導であったように、外部者である可能性も否定はできません。シナリオの結末が容易に想像できてしまう今、小泉劇場の『進次郎物語』は日本国民にとりましては悲劇となるかもしれず、国民の関心は、ストーリー展開そのものよりも、自らが予測したシナリオと現実との一致に移っているようにも思えます。そしてそれ故に、国民にとりましての小泉劇場の終幕とは、シナリオの成就ではなく、小泉劇場そのものが消え、日本国の政治が国民本位の民主主義を取り戻す時を意味するのではないかと思うのです。
よろしければ、クリックをお願い申し上げます。
にほんブログ村
皇族が何らかの公式行事に臨席する際には、参列者の人々はみな深々と頭を垂れてお辞儀をし、緊張した面持ちで敬意を表します。この光景は、これまで違和感なく国民に受け入れられてきました。しかしながら、皇室や宮内庁への特定勢力の侵食が進むにつれ、当然とされてきたこの構図は、その存立基盤を失いつつあるように思えます。
権威は、それが人々の間で自然に成立している間は、物理的な強制力を用いたり、多大なコストを払うことなく、あらゆる抵抗を廃する威力を発揮します。権威を備えた人や団体は、心からの崇敬と厚い信頼を寄せられているため、人々の言動をも方向づけることができるのです。権威者の一声で、長らく紛糾してきた物事が瞬時に決まってしまうケースも少なくありません。軍事力を持たないローマ法王の仲介活動なども、国際社会にあって権威の力を存分に発揮してきた事例でもあります。また、‘不敬’の一言も伝家の宝刀であり、如何なる批判や反対もこの一言で封じることができるのです。
このため、権威が権威であるためには、その持続性が必要不可欠と云うことになるのですが、それは決して簡単な事ではありません。何故ならば、権威であろうとしても、他の人々が権威として認めない限りは、権威者とはなれないからです。このため、権威には、持続性を可能とする何らかの‘裏付け’があるものです。大抵は、統治権力であったり、抜きんでた実績であったり、能力や才能、血脈、さらには神聖性やカリスマなど、誰もが否定できないようなものです。しかしながら、時間の経過による変化は、これらの‘裏付け’を失わせることがあります。
権威喪失の原因は一つではないのですが、一つだけはっきりしていることは、‘裏付け’を失った途端、権威もまた同時に消滅の危機を迎える点です。例えば、ローマ法王は、近年、明るみになったカトリック聖職者たちの不良行為によってその権威が大きく揺らいでいます。かつて無誤謬が宣言されたように、ローマ法王が語る言葉は絶対的な権威とされてきましたが、今では、ローマ・カトリックの頂点にあっても各方面からの批判に晒されています。あまりの腐敗ぶりに教会組織に愛想を尽かすカトリック信者も少なくないことでしょう(宗教改革もカトリックの腐敗が原因…)。そして、永続性のある組織よりもさらに権威の維持が難しいのが世襲制です。世襲とは、権威の‘裏付け’となる個人的な実績や資質をそのまま子孫の継承者に引き継ぐことができないからです。
それでは、今日の皇室はと申しますと、組織と個人の両面において、急激な権威喪失が起きているように思えます。日本国の天皇の権威は、古代が引き継がれてきた神道の祭祀者としての神聖性にその源がありますが、創価学会や統一教会といった全体主義を志向する新興宗教団体の影響下に置かれたのでは、その権威を保ち続けることはもはやできなくなります。国民の多くは、伝統が断ち切られ、皇室は‘乗っ取られた’と感じることでしょう。時を同じくして、神武天皇以来の皇統の継続性についても強い疑いが生じているのですから、なおさらのことです。ネット上で指摘されているように婚姻によって中国系や朝鮮系の血脈も流れ込んでいるとするならば、国民の皇族を見る目も自ずと違ってきます。自らが頭を下げなければならない皇族とは、一体、何者なのか、国民の頭は混乱しますし、もしかしますと、こうした慣習も、権威づけに体よく利用されているだけかもしれないのですから。
権威とは、あらゆる面で利用され易い一方で、人の心理に依拠するために本質的な脆さをも内包しています。そして、こうした権威の問題を考慮しますと、現皇室、即ち明治期に始まる近代皇室については、既に曲がり角に来ているように思えるのです。
よろしければ、クリックをお願い申し上げます。
にほんブログ村
最近の皇室報道を見ておりますと、その大半がパーソナルな行動に関するものが占めています。皇族のひとりひとりの動向について逐次細かな報道がなされており、昨日も、さながら実況中継の如くに上皇后の手術の経過が報じられておりました。その一方で、大型台風15号が日本列島に迫り、自然の脅威を前にして国民の多くは言い知れぬ不安に駆られていたのです。
マスメディアの皇室に関する報道ぶりには、全体主義化へと向かう気配さえ感じられます。何故ならば、どこか、北朝鮮風味に思えるからです。北朝鮮のマスメディアでも、金正恩氏をはじめ、事実上の‘王族’である金一族に対しては、その動向はあたかも極めて特別の事柄のように報じられます。全国民は、常に金一族に関心を向けていなければならず、金一族の慶事には全身全霊で喜び、凶事には全身全霊で悲しまなければなりません。全体主義国のメディアは、トップの権威を保つためにその行動を全国民に対して恭しく報じ、国民に対して同調を強いるのです。
こうした報道ぶりは、戦前の皇室にも見られたのでしょうが、自由主義国である現在の日本国に相応しいのか、と申しますと、どうも違うように思えます。皇統の血脈において今日の皇族は特別の存在ではなく、婚姻等を介して一般国民との違いも殆どなくなりました。日本国憲法において統合の象徴として位置付けられ、皇室典範が制定されているために公的な地位にあるものの、その存在意義を問われた時、国民の大多数が納得する理由を見出すことは困難です。
皇族が、‘神の子孫’であることを立証することは不可能ですし、むしろ、DNA検査を実施すれば、一般人と変わらないことが科学的に証明されてしまいます。また、2000年以上を遡る建国の祖の子孫が公的な地位を継承する世襲制度も、合理性を尊ぶと共に科学的知識を豊富に有する現代の人々の感覚からしますと、非合理な制度に思われることでしょう。しかも、婚姻による血統の希薄化と外部勢力の遺伝的参入に加えて、万世一系とされる皇統の継承も疑わしく、皇室は、時を経るにつれてその存在意義が揺らぐ運命を背負っているとも言えます。そして、一般の国民にとりましては、もはや皇室は‘信仰の対象’ではなくなり、敬意を表する理由も分からなくなってくるのです(実のところ、内面との葛藤はストレスになってしまう…)。しかも、多額の皇室予算を費やしながら(仙洞御所を含め15億円?)、伝統的な役割であった祭祀を疎かにするのでは、ますます意味不明となりましょう。
こうした国民の皇室に対する‘信仰心’の薄まりこそが、皇族報道をパーソナルな方向へと向かわせ、個人崇拝的な権威付け、並びに、カリスマ性を帯びさせるための演出に代替させている動機なのかもしれません。権威とは、それを権威と受け止める側の心理に依存しています。憲法の第1条に定められた‘統合の象徴’を具現化するために、伝統や神聖性に替って求心力を維持する方法として期待されたのが、パーソナルな側面を前面に打ち出す手法であったかもしれないのです。そして、この代替方法が、全体主義体制が好む手法であるからこそ、国民から警戒される要因となっているのではないでしょうか。特に、新天皇については、全体主義志向の強い創価学会との繋がりも報じられており、近年の顕著な皇室の国際化にも現れているように、政治利用される可能性も否定はできません。意図的であれ、無意識であれ、全体主義の手法と共通してしまう現象は、自由主義国にとりましては決して望ましいとは思えないのです。
それでは、自由主義国に相応しい皇室の在り方とはどのようなものなのでしょうか。それは、国民に同調を迫る北朝鮮のような全体主義的な個人崇拝では決してないはずです。自由主義国であれば、まずは、‘菊のタブー’をなくし、皇室に関する自由な議論を国民がし得る状況こそ重要なように思えます(国民のストレスも低下…)。今のところ、日本国の政界では、与党も野党も揃って‘皇位の安定的継承’以外に議論をしようとはしません。一択しかないような状況ですが、実のところ、国民の多くは、皇位継承問題よりも、日本国の国制における天皇の位置づけや役割についての、より深い議論を望んでいるのではないでしょうか。そして、古来、日本国は、度々自然災害に見舞われてきたのですから、大型台風の襲来が迫る昨日は、天皇が祭殿に籠もり、災禍が国土や国民に及ばぬよう天神地祇に祈りを捧げる姿を報道した方が、余程、国民から‘有難い’という感情を持たれたのではないかと思うのです。
よろしければ、クリックをお願い申し上げます。
にほんブログ村
バブル崩壊後の20年間は‘失われた20年’と評されてきましたが、この時期は、まさしく日本国のグローバル化が叫ばれた時代でもあります。そして、この20年を越えた今では、‘20年’が失われたのはグローバル化が足りないのであり、長期に及ぶ衰退を取り戻し、新たな発展を遂げるには、あらゆる国境障壁を廃して一歩でも二歩でもグローバル化に向けて前進すべき、と叫ばれています。
しかしながら、この方向性、本当に正しいのでしょうか。国民所得の低下が数字で示されるように、グローバル化は日本国民を豊かにはせず、所得格差の広がりにより‘一億総中流’の時代も過ぎ去りました。そして、グローバル化の結果としてグローバルな視点を日本国民が身に着けた時、何故、日本経済が衰退したのかも理解されるのです。
グローバル化のパラドクスについて考える時、香港と中国の関係は参考になります。中国では、香港に隣接する深センに特別区に指定し、アメリカのシリコンバレーに匹敵するITを中心とする高度先端技術の開発拠点とする計画を立て、習近平国家主席の後押しでそれを実行に移しています。しかも、‘シリコンバレー化’のみならず、深センを香港に替る国際的な金融センターに育てる計画もあり、それ故に、敢えて香港の隣に特別区を設置したと言うのです。つまり、地理的に近接していれば、隣の香港から、人、資金、技術、情報などを吸い取ることができるからです。中国の国家戦略にあって、香港は‘使い捨て’の対象であり、全てを抜き取った後は一国二制度を有名無実化し、北京政府の厳格な統制下に置きたいのでしょう。香港は、もはや自由な空気に満ちた活気のある都市ではなくなるのです。それ故に、北京政府は、今般の抗議活動を何としても抑えようと躍起になっているのかもしれません(あるいは、工作を仕掛けて軍事介入し、一気に香港を制圧しようとするかもしれない…)。
香港の事例は、中国全体の視点と香港の視点との違いを示しています。冷徹な中国政府にとりましては、国家戦略を実現するためには香港は奪い取る、あるいは、犠牲にすべき対象に過ぎません。それでは、この事例が、何故、日本国に関係しているのでしょうか。それは、グローバルな視点からすれば、まさしく、日本国こそが香港に当たるからです。
ここで、ご自身が、巨額の資金を世界大に、かつ、自由に運用し得るグローバリストの金融資本家、あるいは、グローバル企業のCEOであると想像してみてください。利益の最大化を求めるならば、日本企業が国内で技術の研究開発から販売・輸出に至るまで全てのプロセスを完結させるのは望ましい状況ではないはずです。そこで、日本国の人、資金、技術、情報をそのままより利益となる他の国に移してしまうというアイディアを思いつくかもしれません。中国であれば、13億の市場を擁していますし(グローバル化の時代には‘規模’は優位性を約束する…)、労働力も比較的低コストで調達できます。また、一党独裁体制ですので、トップ・ダウン方式で規模の経済を最大限に発揮し得る巨大企業を育てることもできます。となりますと、先ずは、日本国内において協力者を獲得したり養成すると共に、日本企業の株式を取得して株主として経営に口出しができる状況を創り出し、製造拠点の移転や合弁会社等の設立を含め、中国等への移転作業を内部から進めさせることでしょう。同時に、日本国政府に対しても積極的にロビー活動を仕掛け、さらなる‘開国’を求めつつ、国民からの反発が起きないよう、グローバリズムを時代の潮流として印象付けるための宣伝活動をマスメディアを介して推進することでしょう。
実のところ、グローバリストとしての最も合理的な判断が、日本国を犠牲にすることであったとしますと、ここで、多くの人々は、グローバリズムのパラドクスにはたと気が付くはずです。そして、このままグローバリズムに邁進しても良いものかどうか、頭を抱えて悩むことでしょう。もっとも、この逡巡は、日本人なればこそのものであり、国家への帰属意識を持たない‘純粋なグローバリスト’であれば、経済的利益と国民意識との間の板挟みで思い悩むことはありません。このことは、目下、日本国から中国への移転計画が進められている可能性を強く示唆するのです(もしかしますと、当初は韓国を移転先に予定していたものの、より有利な条件を有する中国に乗り換えた可能性も…)。
グローバリズムとは、人口であれ資金力であれ、規模が物を言います。この基準からすれば、グローバル時代の勝者は中国といった人口大国か、強力な国際ネットワークを有するユダヤ系やイスラム系となるかもしれません。このような近未来が待っているとしますと、日本国の、そして人類の未来をグローバルズムに委ねてもよいのか、深く考えてみる必要があるように思えるのです。
よろしければ、クリックをお願い申し上げます。
にほんブログ村
ITという言葉は、不可能を可能にする‘魔法の杖’であるのかもしれません。従来であれば、反対の大合唱が起きるような政策や制度でも、人々から抵抗を受けるどころか称賛の声と共に歓迎されるのですから。
例えば、近年、注目を集めているITの一つに、顔認証のテクノロジーがあります。顔には人それぞれに違いがあり、加齢や整形手術等でも一生涯変わらない各パーツの比率等の数値をデータ化して記録すれば、全ての人の顔を瞬時に識別することができます。如何なる人も、あらゆる変装をも見破る顔認証の鋭い‘眼差し’から逃れることはできないのです。
つい数年前までは、ITによる顔の識別能力よりも人の直観力の方が優れており、顔認証技術の完成はまだまだ先とされていました。しかしながら、同テクノロジーは長足の進歩を遂げ、今では実用化の段階に至っています。全体主義国家である中国では、全国民に対する監視システムとして既にその実力を発揮しております。中国国民は、GPSによる位置データとの照合によって、その居場所や行動がデータとして政府に把握されてしまします。
共産主義国において顔認証システムが一党独裁体制維持のために利用される一方で、自由主義国でも、顔認証システムの導入が進んでいます。同システムは、犯罪捜査やテロの防止等には有効であるからです。例えば、来月の10月22日に予定されている新天皇の即位の礼正殿の儀でも使用が予定されており、参列者は予め登録された顔情報によって入退出が管理されるそうです。顔認証は、ITの中核的技術にも位置付けられていますので、今後は、日本国のみならず、官民ともに他の諸国でもその利用が拡大するかもしれません。
ITの発展と共に華々しく登場した顔認証システムですが、よく考えてもみますと、個人のプライバシー保護の観点からすれば、いとも軽々と高いハードルを乗り越えてしまっています。このことは、指紋押捺と比較すればよく理解できます。指紋押捺の義務化については、ヒステリックなまでの反発が常に起きるものであり、ましてや前科や逮捕歴等のない一般の人々に対して指紋押捺を義務付けようものなら、激しい反対運動が起きかねないからです。仮に、即位の礼正殿の儀で出席者に指紋押捺を義務付けたとしたら、出席者の多くは犯罪者扱いされているようで不快な気持ちになることでしょう。ところが、顔認証となりますと、あたかも日本国の先端技術を披露するチャンスの如くにも見なされ、誰からも反対の声は上がらないのです。何とも不思議なお話なのです。
IT分野における顔認証システムの発展は、フェイスブックの登場と軌を一にしているようにも思え、どこか、‘顔(フェイス)’への強い拘りが感じられるのですが、顔とは、その人自身のアイデンティティーを最もよく表すパーツです。また、その公開性にかけては、人の目では容易に認識できない指紋の比ではありません。人類の知性の結晶として、人々は、先進的なテクノロジーは積極的に取り入れるべきと考えがちですが-ITに弱い心理-、自由主義国にあっても国民監視システムに転じるリスクも決して小さくはありません。
指紋の採取は犯罪者等に限定されますが、顔認証システムでは、凡そ全ての国民や住民が対象となります。そして、一般国民の顔面情報が全て政府に掌握された時、それは、政府による国民に対する暗黙の圧力として働くかもしれないのです。こうしたリスクがある以上、ITについては、礼賛一辺倒ではなくそのマイナス面にも注意を払うべきではなのでないでしょうか。官民を挙げて個人情報の収集とリンケージするテクノロジーの開発を急ぐ姿はどこか不自然であり、より自由や権利を尊び、かつ、全ての人類に資するテクノロジーは他にもたくさんあるのではないかと思うのです。
よろしければ、クリックをお願い申し上げます。
にほんブログ村
2019年9月、初めて日本国でラグビーのワールドカップが開催される運びとなり、日本代表チームにも関心が集まっています。日本のチームであれば、当然に日本人選手によって構成されていると考えがちですが、ラグビーの国際ルールでは、外国籍でも一定の条件を満たせば国の代表になれるらしく(出生地、自国民の子孫、居住期間等…)、驚くべきことにチームの半数が外国籍なそうです。日本国籍の取得者等を含めれば、外国系代表の数はさらに増すことでしょう。
スポーツ界における多国籍、多人種化、多民族化は甚だしく、テニスの大坂なおみ選手、陸上短距離のサニ・ブラウン選手、バスケットの八村類選手など、近年、内外での活躍が報じられている選手は皆アフリカ系です。また、国技とされる相撲にあっても、モンゴル出身の横綱白鳳関の日本国籍取得が報じられており、引退後にあっての日本相撲協会理事長の椅子が目的ではないかとする指摘もあります。
こうした現象は、日本国に限られた事ではありません。人類のDNAの多様性とは、主として自然環境への適応によってもたらされていますので、人種や民族によって身体能力に差が生じたのは、人類史においては致し方がないことです。俊足さにかけてはアフリカ系が秀でていますし、腕力であればモンゴル系の人々が有利となりましょう。スポーツは、ストレートに能力が結果に現れますので、競争条件が等しい場合には、他の人種や民族が身体能力において逆立ちしても勝てない種目もあるのです。
身体能力を基準とすれば、何れの国も外国から優秀な選手を求めることとなり、今後とも、スポーツ界の多国籍、多人種、多民族化はさらに強まることでしょう。否、‘多様化’ではなく、もしかしますと、種目別に視れば‘単一化’される可能性さえあります。実際、マラソン競技では、全世界のトップランナー100人の大多数はアフリカ系で占められているそうです。陸上競技にあってはマラソンのみならず他の種目でもアフリカ系が圧倒的に有利であり、競技場のトラックで他の人種の選手の姿を見かけることは稀になりました。アフリカ諸国の経済成長につれ、スポーツ環境が整備されるようになれば、さらにアフリカ系選手が躍進することでしょう。また、卓球界でも、国際選手権における各国代表選手の大半は中国出身者です。ここでも、同種目における最強の民族による単一化現象が起きているのです。こうした‘多様化’と‘単一化’が同時進行し、さらに‘融合’が進んでゆく状況は、スポーツ界の‘グローバル化’と表現することができるかもしれません。否、スポーツ界の方が、一般社会よりも先行しているのです。
スポーツ界に見られるこうした弱肉強食的なグローバル化に対して違和感を唱えますと、すぐさまに‘時代遅れ’とするレッテルを貼られてしまします。しかしながら、その先に見えてくるのは、どのような世界なのでしょうか。国際スポーツ大会を開催しても、どの国のメンバーも、その種目の最強人種・民族によって構成されており、違っているのは所属チームを示すユニフォームだけかもしれません。そして、優勝が約束されたチームとは、最優秀の選手を外部から高額報酬で引き抜くことができる資金力に優る国のチームとなるのです。この状態にあって、人々は、自国のチームを熱狂的に応援するのでしょうか。
また、そもそも、‘時代遅れ論’が正しければ、国別チーム対抗という国際スポーツ大会の概念自体が‘時代遅れ’となります。スポーツの主流は、個人、あるいは、民間チームへと移り、このレベルに達しますと、もはやオリンピックもワールドカップも姿を消し、国民が自国代表に声援を送ることもなくなります。純粋にその競技種目が好きな人々のみがスポーツファンとして残るのですが、スポーツの能力には、上述したように人種や民族によって能力に相当の開きがありますので、絶対的に劣位する人種や民族に属する人々、あるいは、個人は、自らが不得手とする種目に対して急速に興味を失ってゆくことでしょう。つまり、近い将来、スポーツそのものに危機が訪れることが予測されるのです。
考えても見ますと、各国とも、国際レベルにおいて自国チーム、あるいは、自国選手の優勝、あるいは、上位成績を狙うからこそ、スポーツ界のグローバル化が引き起こされているとも言えます。勝利至上主義の厳しく過酷な国際競争こそがスポーツ衰退や混沌の原因となるならば、長い目で見れば、スポーツとの接し方や楽しみ方を変えてゆく必要があるのかもしれません。スポーツとは、身体を鍛えるのみならず、正々堂々とルールに従って競うフェアプレー精神を育てる役割をも担っているのですから。強引なグローバル化を避け、勝っても負けてもよく頑張ったと言えるような、あるいは、自らの弱点を自らで克服し得る、より‘ゆるい’スポーツの方が、人類とスポーツとの関係はより調和的なものになるのではないでしょうか。そして、この方向性は、スポーツ界のみならず、経済や社会におけるグローバル化についても言えるように思えるのです。
よろしければ、クリックをお願い申し上げます。
にほんブログ村
‘ペンは剣よりも強し’という有名な格言があります。この言葉、イギリスの政治家であって小説家でもあったエドワード・ブルワ=リットンが著した『リシュリュー、あるいは陰謀』という題の戯曲において、フランス王国の宰相であったリシュリューのセリフとして登場します。それでは、どのような文脈においてリシュリューは、このように語ったのかと申しますと、それは、自らに対する部下達の暗殺計画を知った際に、先手を打って同計画を阻止した時のことです。ペンによる許可証への署名の効力が、暗殺者の剣よりも優っていることを周囲の者たちに説き聞かせた時の言葉なのです。出典では法治国家における法令の効力を言祝ぐ言葉となり、極めて政治色が強いのですが、同じような言い回しの格言は、キケロが‘武器は説得に屈する’と述べたように古代から世界各地で散見されますし、現在では、暴力に優る言葉の力を示す格言として広く一般的に使われています。
ところで、香港では、昨日8月4日、林鄭月娥行政長官が「逃亡犯条例」を正式に撤回し、懸念されていた北京政府による香港市民に対する暴力的弾圧は一先ずは回避されました。このケースでは、暴力ではなくペンによって事態の収拾が図られたこととなり、‘ペンは剣よりも強し’の具体例の一つに数えることができましょう。しかしながら、条例が撤回されたものの、香港の危機が完全に去ったわけではありません。条例撤廃は、民主派の示してきた5つの要求の一つに過ぎず、残る4つの要求については、同長官は、以前として拒絶する姿勢を崩してはいないからです。となりますと、今後、残された4つの要求をめぐって事態が急変しないとも限りません。
そこで再び心配されるのが、北京政府による暴力的な介入です。4つの要求には普通選挙の実施も含まれており、建国以来一党独裁体制を堅持し、香港までも同体制に組み込みたい北京政府は、人民解放軍を投入してでも同要求の実現阻止に動くと予測されるからです。となりますと、香港問題については、最終的に‘ペンは剣よりも強し’に行き着くかどうか予断を許さず、多くの人々が不安な眼差しで香港を見つめているのです。それでは、香港の人々は、どのようにして北京政府に対峙すべきなのでしょうか。
未来を閉ざされる危機に直面している香港の学生さんは、授業のボイコットを以って抗議の意思を表明しております。日本国では、学生運動が盛んな時期に学生生活を送った人々は、闘争に明け暮れたために他の世代と比較して知識や学力において劣ってしまったという苦い経験をしております。この悪しき前例からしますと、授業ボイコットは自らを傷つける行為となるのですが、インタビューに答えた学生さんの‘勉強しても自分たちに未来はない’と語る姿を目にしますと、言葉を失い‘授業ボイコットはやめた方がよい’とは言えなくなります。そして、授業ボイコットを続けるにせよ、止めるにせよ、ペン、即ち、知力を以って北京政府に勝つ努力、つまり、暴力に打ち勝つだけの知力を磨くことだけは続けていただきたいと願うのです。
それには、一党独裁体制が、何故、自由・民主主義に劣るのかを精緻に分析し、誰もが納得するように共産主義を丁寧に論破する必要があります。ソ連邦の崩壊等が既に示すように、その実証は、それほど難しい作業ではないはずです。否、議論しては敗北が確定的であるからこそ、北京政府は、自らの体制維持のために‘ペン’ではなく‘剣’を使おうとしているのかもしれません。また、北京政府の暴力を効果的に封じ、香港を第二の天安門としないためには、如何なる方法があるのか、具体的な作戦や戦略を練る必要もありましょう。
『リシュリュー、あるいは陰謀』では、‘ペンは剣よりも強し’と述べた後、そのセリフの最後を‘そんなもの(剣)がなくとも国家は救われる!’で結んでいます。劇中におけるシチュエーションとは異なるものの、学生さんのそして一般市民の知力こそが、香港を暴力の危機から救うかもしれないと思うのです。
よろしければ、クリックをお願い申し上げます。
にほんブログ村
戦後に登場したロック・ミュージックには、既存の社会に対する強烈な破壊メッセージがありました。それらにはしばしば政治的メッセージも含まれており、ベトナム戦争をはじめ戦争が起きる度に、ステージに颯爽と登場したミュージシャンたちは反戦歌を熱唱し、政府を断罪してきたのです。今日でも、環境破壊、排外主義、差別、LGBTといったリベラル派が重要視するテーマに対しては全世界的な連帯を呼びかけ、動画などを用いてネットやSNSでもメッセージを拡散しています。ところが、どうしたわけか、香港の自由や民主主義のために連帯を呼びかけるアーティストたちは皆無に近いのです(報道されていないだけなのかもしれませんが…)。それでは、一体、何故、アーティストたちは香港問題について口を噤んでいるのでしょうか。考えられる理由は二つあります。
第一の理由は、もとよりロック・ミュージックとは、政治的には反体制を基本的なスタンスとしており、国家や政府をも恐れずに果敢にその破壊を叫ぶ姿が若者の心を惹きつけてきました。いわば、あらゆる既存の束縛を疎ましく感じ、その徹底した破壊の末に現れるはずの自由な世界こそが理想郷であったのです。‘既存の体制を壊せば自由なれる’だから‘既存の体制を壊せ’がロックの神髄とも言えるメッセージとなりましょう。特に反抗期の青少年にとりましては、ロッカーの声は我が意を得た‘天の声’であったかもしれません(本当は、‘悪魔の声’かも…)。しかしながら、自由主義国家にあっては民主的な体制こそが壊すべき‘既存の体制’ですので、反体制とは容易に反民主主義・反自由主義に転じてしまいます。
ここから推測されるのは、ロック・ミュージックとは、元より全体主義体制を支持する勢力が仕掛けた心理作戦ではなかったのか、ということです。ロックが表舞台に躍り出た時代とは、自由主義陣営と社会・共産主義陣営が鋭く対峙する冷戦期に当たり、自由主義陣営における反体制、並びに、反戦運動の高まりは、後者を俄然有利な状況に導きます。徴兵年齢期の若者たちがロックに染まれば、社会・共産主義陣営は‘戦わずして勝てる’のですから。となりますと、今般、ロック系のミュージシャンたちが香港問題に沈黙している理由も理解されます。つまり、自由、並びに、民主主義を求める香港の抗議活動では、自らのスポンサーであった全体主義体制の側が、破壊すべき悪しき‘既存の体制’となっているからです。
第二に推測される理由は、中国が経済大国として台頭した結果としてのチャイナ・マネーの威力です。13億の人口を擁する中国は、エンターテインメント事業者にとりましては魅力的な市場です。ハリウッド映画がチャイナ・マネーによってすっかり様変わりしたように、ミュージック界でも中国市場での興行収入を見込んで中国の顔色を窺う人々が現れても不思議はありません。また、世界的に人気の高いアーティストや所属する有力プロダクションには、直接的な懐柔工作が行われている可能性もありましょう。
何れにしましても、ラップであれ、ポップであれ、そして、芸能界やスポーツ界も状況は同じです。オピニオンリーダーを任じるセレブやアーティスト達はリベラル好みのテーマには真っ先に反応してコメントしますが、肝心の自由や民主主義、そして、法の支配といった政治的価値が絡む問題には沈黙しているのです。反体制のはずが体制に媚びるパペットとなっては、ステージやスクリーンのヒーローやヒロインも形無しです。今日、圧政に抵抗している香港の人々とのグローバルな連帯を叫ぶアーティストたちの声が聞こえない現状は、造られた偶像のいかがわしさ、否、偽善性をも現しているとも言えましょう。一体、彼らは、何者であったのでしょうか…。普通の若者たちこそ、真に護るべき、あるいは、実現すべき価値は何であるのか、狡猾な大人たちに惑わされるのではなく、自らの思考を以って見定めていただきたいと思うのです。
よろしければ、クリックをお願い申し上げます。
にほんブログ村
‘おじさん’とは、主として中高齢の男性方に対する親しみを込めた呼び方であり、しばしば氏名や職業を付けて‘○○おじさん’といった言い方もします。どこか憎めない響きがあり、誰もが日常的に使っている言葉でもあります。しかしながら、政治の世界で‘おじさん’が使われますと、どこか怪しさが漂うのです。
今年の5月1日、新天皇の即位を以って年号が令和に改められました。突然の生前退位(譲位)の公表以来、令和の時代に向けてのお膳立てをし、裏方を仕切ってきたのは菅官房長官であったとされています。同長官が新元号を国民に向けて発表する姿が放映されたため、特に若い世代から‘令和おじさん’という愛称で呼ばれるようになったそうです。もっとも、メディアがこのように報じたに過ぎず、本当のところは不明です。何れにしても、気さくさや一般国民との距離の近さをアピールしたいためか、女性向け週刊誌などにも普段着姿で登場しているらしく、‘令和おじさん’キャンペーンが展開されているのです。
それでは、‘令和おじさん’は誰からも愛される気が置けない好人物なのでしょうか。そもそも、天皇の生前退位は国民が望んだわけではなく、寝耳に水の出来事でした。言い換えますと、奇襲的な手法で生前退位を既定路線化し、国民からの疑問や反対を巧みに封じつつ新天皇の即位にまで持ち込んだ手腕が‘評価’されたのであり、むしろ、ポーカーフェイスの策士といった方が適切かもしれません。その後は、平成への改元に際しての小渕首相の前例に倣ってか、自らの首相就任への道筋を付けるべく渡米も果たしております。次期首相の候補にもその名が上がり、週刊誌等でも菅政権の誕生が取り沙汰されるようにもなりました。そして、今般の首相官邸における小泉進次郎氏の婚約発表も菅官房長官の提案とされ、横浜市における突然のIR誘致公表の裏にも同官房長官の強い意向があったそうなのです。
‘令和おじさん’の実像は、どうやら国民に振り撒かれているイメージとは違うようなのですが、菅官房長官は、自らの政治信条に従って行動したというよりも、何らかのシナリオに従って淡々と自らに命じられた役割をこなした観があります。つまり、上述した‘評価’とは、参政権を有する一般の日本国民からの実績評価ではなく、シナリオを描いた外部組織からの勤務評価である可能性も否定はできません。そして、日本国の政治を舞台とした推測され得るシナリオとは、中継ぎとして菅官房長官を一時的に首相に据えた後、安倍政権に替る長期政権として小泉進次郎首相を誕生させるというものです。メディアでも菅官房長官と小泉議員とのリンケージを指摘しており、同様のシナリオを描く予測も少なくなく、より確かな情報を得ているのかもしれません。その際、主たる戦法となるのは、小泉純一郎政権と同様にマスメディアの利用と‘サプライズ作戦’です。上述したように、この作戦は‘令和おじさん’も多用してきました。
しばしば、犯罪者の割り出しに際しては、警察はその手口を見れば分かると言いますが(犯罪者は得てして同じ手口を繰り返す…)、奇襲的手法による既成事実化という‘手口’からしますと、日本国の政治は、以前から何らかの外部組織によって操られているようにも思えます。小泉純一郎元首相も、国民のために‘既得権益をぶち壊す’と称しながら、その実、海外金融の利益のために郵政民営化を行ったとされていますし、進次郎議員が推進した農業改革や国会改革等も誰の利益のためか疑わしい限りです(平壌宣言も実行させたい?)。次期首相に相応しい政治家を問うた世論調査では進次郎氏への支持率は比較的高いのですが、メディアが煽ってはいても、一般国民の多くが同氏に期待を寄せているとは到底思えません。
中国でも、独裁者として君臨している習近平国家主席は、国家的なイメージ戦略として‘習おじさん’と呼ばれている、否、呼ぶように仕向けられているそうです(もちろん、この場合は中国語ですが…)。政治の世界における‘おじさん’の登場は、自由や民主主義の危機かもしれず、国民にとりましては要注意な現象なのではないかと思うのです。
よろしければ、クリックをお願い申し上げます。
にほんブログ村
本日の日経新聞朝刊の一面には、BYDやCATLといった中国の蓄電池事業者が、近々日本市場に上陸するとする記事が掲載されておりました。蓄電池の開発当初においてはグローバル市場のシェアの大半を占めていた日本企業勢でしたが、今日では、低価格を武器とした中国企業にシェアを奪われています。遂に国内市場においても強力なライバルが現れたこととなります。
実のところ、蓄電池分野に起きている流れは、既にパターン化されたグローバル移行モデルを辿ったに過ぎません。それは、技術力に優る先進国が先端的な製品を開発し、一時的に世界市場を席巻するものの、時間の経過と共に安価な生産が可能な新興国企業のシェアを拡大し、最後は、新興国企業によって先進国企業が淘汰されてしまうモデルです。半導体然り、太陽光発電パネル然りです。何故、このような逆転が起きるのかと申しますと、それは、グローバル市場における競争とは、極めてアンフェアであるからです。
一般のゲームでは、参加者全員に対して競争条件を等しくします。例えば、オフェンス側とディフェンス側の両者に対して、双方のコートやフィールドの面積が違うといったことはあり得ません。一方が他方の10倍の面積を有すれば、全く以って勝負にならないからです。また、一チームの選手の数が双方で違っていても、戦わなくとも勝負の結果は凡そ分かります。桶狭間の戦いのように相手の隙を突く奇襲策、即ち、ルール違反でもしない限り、少人数となった側には勝ち目はありません。そこで、しばしば、ゴルフや囲碁のように弱い側に下駄を履かせて競争条件を等しくするケースも見られるようになります。
こうした一般のゲームに照らしてグローバル市場での競争を見ますと、同ゲームが、如何にアンフェアであるのか理解されます。国によって国内市場の規模が違いますし、当然に人口にも開きがあるからです。グローバリズムは、全世界の市場が統合されて一つとなることでフェアな競争が実現するかのような幻想を振りまいていますが、現実には、その逆です。唯一の共通ルールは、関税や数量制限、並びに、非関税障壁といった貿易障壁ですが、こうした国境規制の撤廃は、グローバル市場の形成に関わるルール(必要措置)に過ぎず、その後のゲームについては凡そ‘ノン・ルール’なのです。そして、今日のグローバル市場において最強となるのが、市場と人口規模において他国を圧倒する中国企業であることは言うまでもありません。
それでは、何故、日本国政府も日本企業もグローバル化を歓迎し、より一層の市場開放を望むのでしょうか。その理由は、最初に説明したグローバル移行モデルにあります。その第一段階においては技術力のある先進国企業が一時的には優位となりますので、その先の展開を考えないとしますと、自国や自企業が有利な条件にあると信じ込むからです(オフェンス面に熱中するあまりにディフェンス面を疎かに…)。先のゲームに喩えれば、一方のチームだけがハイテク器具を装備した状態です。しかしながら、現実には、グローバル市場の競争条件は歪があり、かつ、他のチームがハイテク器具を用いるようになれば、当初の優位性は時間が経つにつれて消滅してしまいます。気が付いた時には、自国のフィールドは規模を武器とした大国の企業に席巻されてしまうのです。
グローバル市場がアンフェアな競争を強いる弱肉強食の世界であるとしますと、このままこの路線を走り続けるべきなのか、という疑問が生じます。そして、上述したようにゲームによってはハンディキャップを付ける場合がある点を考慮しますと、案外、保護主義とは、弱者に対するハンディキャップに当たるとする考え方もあるように思えるのです。しかも、中国政府は、国家戦略である「中国製造2025」に基づき、手厚い補助金を支給するなど、自国企業を国家ぐるみで支援しています(自国企業への政府補助はWTOでもルール違反…)。この状態は、一つのチーム、しかも最強チームが特別の支援を受けている等しく、これでは、他のチームは瞬く間に市場から追い出されてしまいましょう。
グローバル市場のアンフェアな側面に対する認識が広がれば、各国政府の対応も違ってきます。香港問題で揺れる中、中国企業もまた全体主義の尖兵である点を考慮しますと、日本国政府は、アメリカと同様に対中政策を転換するべきではないかと思うのです。
よろしければ、クリックをお願い申し上げます。
にほんブログ村
日韓関係の悪化は、地方自治体が主催する交流事業の中止や両国を結ぶ就航便の削減など、官民に亘って既に様々な分野にその影響が及んでいます。その一方で、NHK等によりますと、若年層にあっては今迄通りの交流が継続されており、‘大人’の対応とは一線を画しているかのように報じています。
メディアの意図としては、‘汚い大人の世界ではケンカはしていても、純粋な子供の世界では仲良しであり、それが真の日韓の姿である’とするイメージを拡散したいのでしょう。今般の日韓対立では明らかに韓国側に非がありますので、従来のようにあからさまに韓国贔屓の報道をしては一般の国民からの批判を受けます。そこで、‘韓国上げ’の方針を諦めて、日韓両国の子供達を利用した‘仲良しアピール’に転じたのかもしれません。加えて、小中学校レベルの交流事業については、日本国内にあって反日政策を進めてきた日教組といった左派組織が主導しているとも考えられます。
何れにしましても、‘子供達だけは…’とする切迫した焦りも感じさせられるのですが、昨日も、長野県の小学校の取組み紹介されておりました。同校では、日韓両国の生徒たちが相手国の学校を相互訪問するプロジェクトを実施しており、毎年、訪韓の準備として日本の生徒たちは韓国の言語、文化や歴史等について学んでいます。日韓関係が険悪となった今年はと申しますと、例年通りに事前学習に励んでおり、黒板には幾つかのハングルの文字が書かれ、生徒たちはそれを一生懸命に覚えようとしていました。そして講師の先生は、韓国の文化として儒教の影響ついて語り、礼儀正しい国として教えているのです。
企画者側としては、日韓の友好関係を維持する、あるいは、日本側の嫌韓感情を和らげたい思惑があるのでしょうが、逆効果となる可能性もないわけではありません。何故ならば、現実は、またしても真逆であるからです。先述した教育を受けた生徒たちは、‘韓国人は礼儀正しい人々’とする先入観を持ちますが、いざ、訪韓してみますと、必ずしも全ての韓国の人々から‘礼儀正しく’歓迎されるわけではありません。日本人であることが分かった途端、口汚く罵倒されたり、危害を加えられる可能性さえあります。韓国においては幼少の頃より徹底した反日教育が施されていますので、日本人に対して好感情を抱くはずもないのです。交流相手の韓国の学校では、先生も生徒さんも表面的には‘親日’を演じるのでしょうが、訪韓に先立って韓国の良い面ばかりを吹き込まれた日本の生徒さんたちにとりましては、相当にショッキングな出来事となることでしょう。
韓国を‘理想の国’として教えられた日本の生徒さんたちと、日本国を‘邪悪な国’として教え込まれた韓国の生徒さんたちとが交流した場合、その結果、一体、何が起きるのでしょうか。韓国の生徒さんたちは、実際に訪日して見て初めて母国で足蹴にされているほどには日本国は悪い国ではないことに気が付き、対日感情が僅かなりとも好転するかもしれません。しかしながら、日本の生徒さんたちの対韓感情は、むしろ悪化するのではないでしょうか。インターネット等で自由に情報を入手することができ、かつ、韓国に対して批判的な周囲の大人たちの声をも聴くことができる状況下にあって、日本の生徒さんたちは、学校で教えられた礼儀正しい‘韓国’という国は幻想であったことを身を以って知るのですから。
韓国の現実の姿に直に接した時、子供たちの心の中に二つの不信感が生まれることでしょう。その一つは、学校の先生に対する不信感です。良い面ばかりを教え込み、悪い面を意図的に見せないのは一種の‘詐欺’であり、学齢期の子供たちが対象となりますと、韓国の反日政策と一対をなす親韓政策となりましょう。両者とも、‘洗脳’と云う意味において罪深い行為です。そしてもう一つのダメージは、韓国に対する不信感です。何故、史実や事実を曲げ、捏造までして日本国を貶めようとするのか、韓国と云う国の思考と行動を理解できなくなることでしょう。つまり、相手を知れば知るほど、相手が理解できなくなる、あるいは、共感できなくなるという相互理解のパラドクスが生じるのです(むしろ、両者間の距離が遠のく…)。
今日、日韓友好の主たる場が教育現場に移り、洗脳され易い青少年がターゲットとなっている現状を危惧せざるを得ません。正直に優るものはなく(もちろん、他者を慮ったホワイトライは許容されるのでが…)、美化、醜悪化、歪曲、捏造等を伴う洗脳教育よりも、事実に基づく教育を心がけるべきではなのではないでしょうか。嘘に逃げずに事実を直視する心構えこそ、教育の場において培うべきなのではないかと思うのです。
よろしければ、クリックをお願い申し上げます。
にほんブログ村