カール・マルクスは、文化・文明の証とも言える人類の思弁的な精神活動、即ち、学問、芸術、宗教等よりも、生物としての人類の営みを重視し、それ故に、現実としての経済メカニズムの分析と解明に没頭しました。同方針に基づけば、研究生活の集大成ともなる『資本論』は、実学の書となるはずでした。しかしながら、政治の世界にあって、‘資本主義陣営’と‘共産主義陣営’が鋭く対峙した冷戦がイデオロギー対立とも称されたように、今日では、共産主義は、マルクスが軽視したはずの思想や価値観の問題として見なされています。それでは、何故、こうした‘倒錯’が起きてしまったのでしょうか。
その第一の原因は、マルクス、並びに、マルクスの支援者の真の目的が、表向きとは別のところにあったからなのではないでしょうか。昨日の記事の結論部分でも述べたように、二頭作戦を容易にするための対立軸の形成(階級闘争)及び社会の分断を引き起こすことが、隠された目的であったように思えるのです。何故ならば、マルクスが初めて‘発見’したとされる経済のメカニズムには、明らかな誤りが認められるからです。つまり、分析に間違いがありますので、現実との間に齟齬が生じるのは当然のことであり、結局、マルクス主義は、現実離れした思想、すなわち、イデオロギーとならざるを得なかったのです。
『資本論』は極めて読みづらい難解な文章で知られているのですが、むしろ、この難解さは、マルクス主義の誤りを煙に巻くためであったとも推測されます。同書を理解できないとして嘆く必要はなく、マルクスの説を正しいと認めることは、ジョージ・オーウェルの『1984年』に登場するダブル・シンキングのようなものです(思考トレーニングにより、偽を真と思い込まなければならない・・・)。何れにしても、数ページの説明で済みそうな内容を難しい用語をもて迂回に迂回を重ねながら書き進めているのですから、その目的は、読者を出口のない迷宮に誘い込み、分析の誤りを誤魔化すためであったとしか考えられないのです。
かくして『資本論』の冗長な文章表現にはマルクスの意図的誘導が疑われるのですが、特定の部分だけはとりわけ明瞭に書くことで、読者の脳裏に強いインパクトが残るように仕組まれています。その特定の部分、即ち、同書によってマルクスが発信した強いメッセージとは、‘労働者は、資本家に搾取されている’というものです。剰余価値を生み出しているのは、唯一、一定時間の不払い労働を強いられている労働者であり、これは搾取である、とする主張です。労働者から吸い上げた剰余価値が資本の蓄積をもたらし、新規事業や事業拡大をもたらす資本の再投資をも可能としているのですから、資本主義体制とは、労働者搾取体制ということになります。
かくして、マルクス自身が執筆し、生前に出版された『資本論』の前半部分にあっては労働者搾取が強調されているのですが、マルクスの死後にその遺稿をフリードリヒ・エンゲルスが編集して出版した第二巻以降の後半部分では、労働者搾取の側面が薄れてゆきます。そして、同後半部分では、銀行システム等を介した信用制度による信用創造の作用や土地の生産性の違いによって生じる超過利潤について述べており、資本の蓄積や再投資が労働者からの搾取のみから生じるものではないことを認めています。前半と後半とでは記述に矛盾がありますので、もとよりマルクスは、後者については公表するつもりがなかったものを、エンゲルスがうっかり出版してしまったのかもしれません(あるいは、エンゲルスは、マルクスの誤りを暗に知らせたかったのかもしれない・・・)。しかも、第三巻では、「資本―利子、土地-地代、労働-労働賃金は、これは、社会的生産過程の一切の秘密をひそめている三位一体の形態である。」とも述べ(第七篇第四八章)、‘三位一体の定式’としていますが、この表現、どこか宗教がかってもいるのです。
マルクスは、倒錯や矛盾という言葉を好んで使いますが、『資本論』もまた、倒錯や矛盾に満ちているように思えます。しかしながら、執筆の目的が、階級闘争、否、二頭作戦の準備であるならば、こうした矛盾や倒錯は詭弁をもって誤魔化せればどうでもよかったのでしょう。そして、現実の歴史は、内外両面にあってイデオロギー対立を先鋭化し、人類を分断する方向へと進んでゆくのです(つづく)。