万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

グローバリストの‘つまらない世界観’

2023年06月22日 12時57分23秒 | 国際経済
 最近、web記事において田中真紀子氏の発言に「人間には、敵か、家族か、使用人の三種類しかいない」とする言葉があることを知りました。政治家一族の立場からの人間観であるため、多くの人々が共感を寄せるとは思えないのですが、この言葉、今日の世界経済フォーラムに集うグローバリストの世界観を理解する上では大いに役立つように思えます。

 田中角栄氏が政界で活躍していた70年代頃にあっては、今日よりも政治家=支配者とする概念が強く残っていたことでしょう。民主主義という価値観が国民に広く浸透しながらも、真紀子氏にも、政治家は一般国民とは違う特別の存在であるとする意識が染みついていたとしても不思議ではありません。なお、同氏に代表される政治家の特権意識、あるいは、支配者意識は、日本国にあってなおも世襲議員の比率が高い要因の一つとも言えましょう。

 他者とは一線を画する立場として生まれた人々は、自ずとその育った特別の環境によって他者を見る目も違ってくる傾向にあります。同等の者は、地位や権力、あるいは、富を脅かすライバルであり、‘敵’として認識されます。その一方で、身内である家族は、自らの富や権力を私的に独占するための特別な存在です。そして、他の大多数の人々に対しては、常に一般社会から離れた一段上がったところから、自らのへの奉仕者として位置づけているのです。それ故に、田中氏の分類には、隣人や友達、仲間と言った対等で相互尊重的な関係を表す人間のカテゴリーが抜け落ちているのでしょう。他者とは、邪魔な存在として排除すべき敵か、特権の共有者として護るべき家族か、あるいは、自らの命に忠実に従うべき使用人の三種類しかいないのです(為政者にとりましては、国民は‘使用人’のカテゴリーに・・・)。

 これらの三つのカテゴリーには、徹底した自己中心主義という共通点を見出すことができます。否、政治家一族という極めて狭い世界に生きているために、他の類型の人間、即ち、対等な立場にある人々がいることすら、気が付いていないのかもしれません。実際に、自らの周囲にはこれらの三種類の人間しかいないのですから。

 こうした人間観は、古今東西を問わず、政治家や王侯貴族と言った主として為政者に見られる傾向でもあったのですが、今日ではマネー・パワーを牛耳る人々の精神性にも観察されるように思えます。グローバリズムに伴う格差問題としても指摘されているように、全世界の富と権力がごく一部の血族集団に集中し、各国の政治権力を裏から操っているからです。そして、家族以外の他者を‘敵’か‘使用人’とみなす人間観は、そのまま世界観にも投影されているのであり、世界経済フォーラムの方向性やそれに従う各国政府の動きも、これらの人々を除く大多数の人類が、‘敵’か‘使用人’と見なされている現実を見せつけているのです。

 例えば、日本国政府は、岸田首相の言動が示すように、グローバリストの‘使用人’に成り下がっています。また、健康被害を無視した情報統制を伴うワクチン接種の推進やジョブ型雇用の導入促進、あるいは、国民に対するデジタル管理の強化などをはじめ、日本国政府の政策を見ても、世界権力にとりまして、日本国民は、滅ぼすべき‘敵’、あるいは、敵認定をした上での支配や搾取の対象に過ぎないことが分かります(‘移民政策’でも、‘使用人’の帯同を想定した外国人の滞在に関する規制緩和が行なわれている・・・)。

 世界権力の支配力が各国に及びながらも、グローバリストの人間観も世界観も、彼らが身を置いている極めて少数のグループの間でしか通用しない特殊なものです。今日、地球上に生きる人類の大多数の人々は、民主主義、自由、法の支配、平等・公正並びに平和といった諸価値を認め、かつ、尊重しています。これらの諸価値は、個々の人格の間の対等性や自己決定権の尊重なくして実現しませんし、現代国家にあっては、統治の正当性をも支えてきました。一方、自らをヒエラルヒーの頂点に座す支配者であると一方的に主張する今日のグローバリストの世界観は、これらの諸価値とは真逆です。このため、他の大多数の人々は、世界権力の世界観によって、‘敵’として攻撃を受けるか、あるいは、‘使用人’として酷使にされてしまうリスクを内包する危険思想として認定せざるを得なくなるのです。世界支配を主張する人々は、常識を備えた一般の人々の目には根拠のない自己全能感に囚われた‘狂人’にしか映らないことでしょう。

 こうしたグローバリストの選民的な世界観が多くの人々から支持されるはずもなく、このため、自らの世界観を受け入れさるための誘導作戦として巨額のマネーをマスコミに投入されているのでしょう。例えば、テレビやアニメなどでは、一時期、執事やメイドを主人公とするストーリーが流行ったのですが、こうした奇妙な‘トレンド’も、‘使用人’という存在を受け入れさせるための策略であったのかもしれません。しかしながら、執事やメイド等は富裕層のみが家内で私的に雇用する限定的な職業ですので、否が応でも現実離れした違和感が漂ってしまうのです(双方が頭を下げる対等な日本式のお辞儀からコンスへの変化にも日本人使用人化の疑いが・・・)。

 世界権力が目指す世界とは、隣人も友達も仲間もいない‘つまらない世界’でもあります。因みに、アガサ・クリスティー原作のテレビ・ドラマ『名探偵ポアロ』は、脇役にもヘイスティング大尉やミス・レモンといった味のある人物が登場し、大時代的な雰囲気のある面白い作品であったのですが、新シリーズでは、執事のジョージにポアロの相棒役が移ってしまい、途端にどこか陰鬱でつまらない作品になってしまったのでした。

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