連続テロ狙いか=アフガン系容疑者、動機解明へ―NY爆破
ニューヨークで発生した爆破事件の容疑者として、FBIは、アフガン系のアフマド・カーン・ラハミ容疑者の身柄を拘束したと報じらております。現時点では、ラハミ容疑者とイスラム過激派組織との関連性は確認されていませんが、イスラム過激派によるテロ事件は一向に減少する気配がありません。
グローバル時代には、国境を越えた人々の交流を通して全世界の人種、民族、宗教等が相互に理解し合い、戦や争いのない平和な時代が訪れると信じられてきました。しかしながら現実は逆であり、特にイスラム系組織の活動は世界大に活発化してきております。その要因を探ってみますと、やはり、イスラム教の聖典である『コーラン』の教えに行き着くように思えます。
『コーラン』を読みますと、同書が、マホメット(ムハンマド)が生きた6から7世紀の時代を色濃く映していることが分かります。預言者として新興宗教の教祖となり、教団をも率いたマホメット(ムハンマド)は、アラブの伝統的多神教徒、ユダヤ教徒、並びに、キリスト教徒と激しく対立し、そして、これらの異教徒の諸部族と間で激しい戦いを繰り広げました。『コーラン』こそ聖戦のための教典であり、信者である兵士達の信仰心を征服戦争へと駆り立てる精神的な支柱となったのです。イスラム帝国、並びに、その継承諸国が、アラビア半島から北アフリカ、イベリア半島、そして、中東欧に至るまで勢力範囲を拡大させた要因は、まさに、イスラム教に内在する戦闘性と排他性にあります。イスラム教が”平和の宗教”と称されるのは、イスラム教一色に塗り潰された世界にこそ言えるのであり(異教徒でも、イスラムに納税していれば共存できる…)、実際に、20世紀初頭当たりまでは、イスラムは、辛うじてその世界の内に平和を保っていたのかもしれません。
しかしながら、グローバル時代ともなりますと、石油パワーを背景にイスラムの影響力が増したことに加え、イスラム教徒が移民等として世界に散らばりますと、イスラム教徒自身も、他の宗教や宗派に触れることとなります。そして、この新たなる”異教徒”との出会いは、イスラムに潜在してきた戦闘性を呼び覚ましてしまったのかもしれないのです。イスラム教徒は、『コーラン』の教えに忠実であろうとすればするほど、非イスラム教徒に対して攻撃的とならざるを得ないのですから。
グローバル時代には相互理解が重要とされながら、非イスラム教徒も、そして当のイスラム教徒さえも、イスラム教について十分な理解があるとは言えないように思えます。世界宗教の一角を占めるイスラム教が真に平和の宗教となるためには、イスラム教徒自身が、その戦闘性と排他性の問題に取り組む必要があるのではないでしょうか。
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グローバル時代には、国境を越えた人々の交流を通して全世界の人種、民族、宗教等が相互に理解し合い、戦や争いのない平和な時代が訪れると信じられてきました。しかしながら現実は逆であり、特にイスラム系組織の活動は世界大に活発化してきております。その要因を探ってみますと、やはり、イスラム教の聖典である『コーラン』の教えに行き着くように思えます。
『コーラン』を読みますと、同書が、マホメット(ムハンマド)が生きた6から7世紀の時代を色濃く映していることが分かります。預言者として新興宗教の教祖となり、教団をも率いたマホメット(ムハンマド)は、アラブの伝統的多神教徒、ユダヤ教徒、並びに、キリスト教徒と激しく対立し、そして、これらの異教徒の諸部族と間で激しい戦いを繰り広げました。『コーラン』こそ聖戦のための教典であり、信者である兵士達の信仰心を征服戦争へと駆り立てる精神的な支柱となったのです。イスラム帝国、並びに、その継承諸国が、アラビア半島から北アフリカ、イベリア半島、そして、中東欧に至るまで勢力範囲を拡大させた要因は、まさに、イスラム教に内在する戦闘性と排他性にあります。イスラム教が”平和の宗教”と称されるのは、イスラム教一色に塗り潰された世界にこそ言えるのであり(異教徒でも、イスラムに納税していれば共存できる…)、実際に、20世紀初頭当たりまでは、イスラムは、辛うじてその世界の内に平和を保っていたのかもしれません。
しかしながら、グローバル時代ともなりますと、石油パワーを背景にイスラムの影響力が増したことに加え、イスラム教徒が移民等として世界に散らばりますと、イスラム教徒自身も、他の宗教や宗派に触れることとなります。そして、この新たなる”異教徒”との出会いは、イスラムに潜在してきた戦闘性を呼び覚ましてしまったのかもしれないのです。イスラム教徒は、『コーラン』の教えに忠実であろうとすればするほど、非イスラム教徒に対して攻撃的とならざるを得ないのですから。
グローバル時代には相互理解が重要とされながら、非イスラム教徒も、そして当のイスラム教徒さえも、イスラム教について十分な理解があるとは言えないように思えます。世界宗教の一角を占めるイスラム教が真に平和の宗教となるためには、イスラム教徒自身が、その戦闘性と排他性の問題に取り組む必要があるのではないでしょうか。
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