万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

世界権力は知性や学問が嫌い?

2024年03月07日 10時47分19秒 | 日本政治
 今日、技術大国を自認し、科学立国を目指してきた日本国に、異変が生じてきているように思えます。戦後、焼け野原から再出発した日本国は、自国の再起をあらゆる産業の基盤となる技術力の発展にかけ、政府も国民も科学技術の研究や開発に熱心に取り組んできました。

 かくして日本国は数々の先端技術を世に送り出してきたのですが、学問好きで向学心が強い日本の国民性は戦後に始まったわけではなく、江戸時代には寺子屋が広く普及し、世界的に見ても国民の識字率が群を抜いて高かったことを考えますと、それ以前の時代に遡ります。また、実利的な学問に限らず、本質や本源まで突き詰めて探求しようとする姿勢は、宗教も含めた哲学や思想などの精神的な学問分野にあっても顕著に見られます。そして、こうした国民性が醸成されたのは、自由な知的探求を許す寛容な空気が日本国にはあったからなのでしょう(ただし、多神教の国とはいえ、江戸時代は、イエズス会等の政治的介入を恐れ、キリスト教は禁教とされた・・・)。内向的で飽くなき探究心を持つ学究肌のタイプの国民が多く存在していたからこそ、技術力による戦後復興もあり得たのかもしれません。

 学問に対する寛容は、ヨーロッパに始まる近代国家では学問の自由とも表現され、今日では、憲法等によって手厚く保障する国も少なくありません。公的な保障対象となっていること自体が、学問が弾圧されやすい傾向にあることの証左でもあり、キリスト教の教義が絶対化された中世ヨーロッパにおける‘不自由さ’は、天動説から地動説への転換が命がけであったことが示しています。それが宗教であれ、特定の思想が国家や社会体制を支えている場合、科学的事実は、この‘絶対化’された思想によって葬り去られてしまうのです(火あぶりの燃えさかる炎は科学的事実をも焼き尽くしてしまう・・・)。

 やがて合理性を尊ぶ啓蒙の時代が到来すると、中世の世界の学問の弾圧は過去の忌まわしき行為と見なされ、学問の自由が広く行き渡るようになります。その一方で、必ずしも学問が全面的に自由を得たわけではありませんでした。例えば、宗教に代わって思想が学問を弾圧する事例も見られるようになるからです。その最たるものが共産主義であり、同思想を国教ならぬ国家イデオロギーとして採用するする国では、同思想に反する学問を追求することは許されないのです。

 今日の中国を見ましても、共産党一党独裁体制の下で習近平思想の学習が国民に義務付けられており、学問の自由は保障されておりません。否、もはや学問ですらなく、国家による国民に対する思想の強制、あるいは、洗脳と言っても過言ではないでしょう。端から見ますと習近平思想の学習は、時間と労力の無駄としか思えないのですが、同国では、ヨーロッパ中世と同様に、体制の維持こそが最優先されるのです。かくして、中国では倫理性や人間性を閑却した非人道的な科学技術の研究開発が‘中国の夢’を実現するとして許される一方で、それが如何に中国国民に資するとしても、権力分立や民主的制度研究といった、一党独裁体制を根底から揺るがすような政治学の研究が許される余地はありません。かつてのソ連邦も、国民が家電製品さえ贅沢品となるロー・テクノロジーの生活を強いられる一方で、一時はアメリカと張り合うほどに軍事技術だけは突出していたのです。

 共産主義諸国では、学問の自由が存在しないことは誰の目から見ても明らかなのですが、今日の危機は、むしろ学問の自由が保障されているはずの自由主義国にあるように思えます。日本国政府を見ましても、基本方針に据えられているかのように反知性、反学問の姿勢が顕著であるからです。そしてそれは、古来、学問好きであった日本国民のみならず、グローバル・レベルでの‘同調圧力’として人類に迫ってきているように思えるのです(つづく)。

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