万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

二重思考から全体主義を読み解く-現在の危機

2022年11月07日 13時12分38秒 | 統治制度論
二重思考とは、ジョージ・オーウェルの作品、『1984年』に登場する、国家による思考統制の手法です。オーウェル自身の説明に依れば、「相反し合う二つの意見を同時に持ち、それが矛盾し合うのを承知しながら双方ともに信奉すること」ということになります。近代以降に誕生した全体主義国家を観察しますと、まさに『1984年』に登場する「党」が掲げる三つのスローガン、即ち、“戦争は平和なり”“自由は隷従なり”“無知は力なり”を地でいっているかのようです。そして、今日なおも、人類は、二重思考の脅威にさらされているように思えます。

全体主義国家において‘戦争は平和なり’という二重思考が必要とされる理由は、戦争は、国内体制と密接に結びつくからです。ソ連邦にあって、スターリンが自らの独裁的な地位を固め、全国民を徹底した監視下に置く全体主義体制を構築し得たのも、アメリカを盟主とする西側陣営という‘敵’が外部に存在したからに他なりません。厳格な情報管理、国家戦略に基づく資源配分(計画経済)、国民の思想統制、国家に対する忠誠の強化、動員・・・などは、多かれ少なかれ、戦時体制と全体主義体制に共通した特徴です。戦時体制が長期化し、恒常的に体制化した形態が全体主義体制と言っても過言ではないかもしれません。そして、‘指導者’は、平時には体制維持のために戦争を利用しつつ、国民から抵抗力を奪う、あるいは、不満を逸らすために、実際に戦争を起こすこともあるのです。このため、‘党’の視点からすれば、‘戦争は平和なり’のスローガンには矛盾はなく、むしろ、自らの安泰のためには戦争が必要不可欠なのです(ここで言う“平和”とは、「党は国民からの不満を受けない」の意?)。

三つのスローガンの内、二重思考の典型となるのが、‘自由は隷属なり’です。アウシュビッツをはじめナチスが設けた強制収容所にも「働けば自由になる」とする欺瞞的な標語が掲げられていましたが、この標語には、元より国民を‘奴隷’と見なす発想が窺えます。近代啓蒙思想が理想とした人間像とは、生まれながらにして自由で平等(対等)、かつ、自立的な人間の姿である一方で、ナチスであれ、「党」であれ、奴隷とみなす人々に対して隷従状態こそが自由であると信じ込ませたい強い願望と意志が現れています。言い換えますと、同スローガンのアピールは、‘奴隷主’という自らの正体を暴露しているに等しく、それ故に、‘奴隷’に自己欺瞞を強要する二重思考がストレートに表現されているのです。

それでは、三つ目のスローガン、‘無知は力なり’はどうでしょうか。このスローガンは、近世イギリスの哲学者フランシス・ベーコンが述べたとされる格言、‘知は力なり’を前提とした二重思考です(あるいは、ソクラテスの‘無知の知’を悪用?)。本来、知識や知性は人々の力となり、扶けとなるものです。しかしながら、「党」は、国民に対して無知にこそ力があると説き、人々に力を与える知の獲得を否定しているのです。その目的は、言わずもがな、‘自由は隷従なり’と同様に、国民の知性の発達を阻害し、思考停止の無知のままに「党」の支配下に置くことにあるのでしょう。あるいは、「党」によって絶対化されたイデオロギーや思想を学べば学ぶほど知的レベルが下がり、国民が弱体化してしまうという全体主義教育のパラドックスを意味しているのかもしれません(ここで言う「力」とは党の権力の意?)。

そして、オーウェルが列挙したスローガンにもう一つ加えるとしますと、それは、‘不平等は平等なり’となりましょう(この他にも、‘独裁は民主主義なり’や‘支配者は被支配者なり’などもあり得る・・・)。このスローガンは、全体主義における平等の意味が、対等性ではなく画一性である点において理解されます。個々の多様性を前提とした人格としての対等性であれば、政治家を含む公職も多様な職の一つとなり、人格の平等性が実現しますが、画一性であれば、超越的な地位にある指導者、もしくは、「党」とその他大勢の画一化された国民との間には超えがたい壁が設けられ、全体主義国の国民は、“指導者と国民の間の不平等”を“国民の間の平等”として受け入れることを要求されるのです。

同作品は、スターリン時代のソ連邦がモデルとされていますが、初版が1949年ですので、二重思考の考え方は、秘密結社などの間で既に醸成され、以前から‘知る人ぞ知る’戦略であったのかもしれません。何れにしましても、「党」の二重思考に基づくスローガンとは、支配者側によって表明された国民支配の基本方針として理解されましょう。全体主義とは、国民を騙さないことには成立も維持もできない体制なのかもしれません。

そして、この二重思考の現象は、今日の国際社会を眺めますと、共産主義国家のみならず、自由主義国においても散見されるように思えます(目的地へ向かおうとすると真逆に至ってしまうメビウスの輪現象でもある・・・)。メタバースやmRNAワクチンといった先端テクノロジーも、人々に自由な空間を広げ、身体を健やかにしているのでしょうか(デジタル全体主義の足音も・・・)。迫り来る二重思考、即ち、全体主義の脅威に対応するためには、その意図やからくりを十分に知ることこそ、最初の一歩ではないかと思うのです。

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 陰謀論をめぐるリベラルと保守 | トップ | 政党は世界支配の道具?-国... »
最新の画像もっと見る

統治制度論」カテゴリの最新記事