昨日の2月19日、ドイツのミュンヘンで17日から開催されておりました国際安全保障会議が閉会となりました。同会議においては、ウクライナのゼレンスキー大統領がオンライン論説で参加各国の代表に対して迅速な武器支援を求める一方で、ドイツのショルツ首相は、同要請に対して消極的な姿勢を示したと報じられております。
同会議は、アメリカをはじめアジア・アフリカを含む80の国並びに機関の首脳や閣僚が参加しており、ウクライナ紛争への対応が議題とされました。ロシアは招待されておりませんので、中国が参加しつつも国際会議とは名ばかりで、ウクライナに対する‘自由主義国側’の支援強化を目的として、友好国に声をかけた‘招集会議’なのでしょう。また、参加各国の代表が一方的に自らの見解を述べるにとどまり、具体的な対応策について活発な議論が交わされた形跡もなく、ロシアに対して結束を印象づけるパフォーマンス的な側面も見受けられます。
どこかぎこちない国際会議なのですが、同国際会議の背後に世界権力の意向が潜んでいるとすれば、その狙いとは、ゼレンスキー大統領の要請に各国が応じ、主力戦車のみならず戦闘機などの供与にも踏み込むというものであったのかもしれません。しかしながら、報道からしますと、同会議は、世界権力の思惑通りには進まなかったようです。何故ならば、上述したように、ドイツのショルツ首相がさらなる武器の供与には難色を示したからです。同首相が消極姿勢に転じたのは、NATOが紛争に巻き込まれる事態を避ける、即ち、世界大戦化を危惧してのことであったようです。
ドイツの躊躇には、おそらく二度の世界大戦における凄惨な戦争体験があったのかもしれません。第一次世界大戦にあっては、東西国境線の外側での塹壕戦となったために自国は戦場とはならなかったものの、敗戦国として天文学的な賠償金の支払い課せられた上に、ハイパーインフレーションによる経済的混乱に見舞われ、国民の生活窮乏に起因してナチス政権が誕生しています。ヒトラーのポーランド侵攻で始まった第二次世界大戦では、破竹の勢いで周辺諸国を占領するものの、形勢が逆転すると、連合国軍の激しい空爆を受けてドレスデンやベルリンをはじめ主要な都市が灰塵に帰しています。戦争というものが人間性を失わせるほどの破壊力を持つ事例を目の当たりにしてきたドイツ人の心情を、政治家としてショルツ首相が敏感に感じ取っていたとすれば、戦争の拡大にブレーキをかけたのは、平和を願うドイツの世論と言うことになりましょう。
国土が焦土と化した経験、並びに、敗戦国の悲哀を抱えながら生きてきたのは、ドイツ人のみではありません。敗戦必至の状況下で厳しい戦いを強いられた外地の戦場で、そして、空爆の標的となった国内の都市やその周辺において、日本国でも、多くの方々が命を落とされております。戦争から70余年が過ぎた今日、戦争記憶の風化が懸念されてはいますが、戦争の体験は、親から子や孫といった世代間のみならず、書物やネットの情報などを介して語り継がれ、幼年期の子供達まで広まっています。また、情報量が豊富となった今日であるからこそ、個人的な戦争体験のみならず、政治経済両面における当事の世界情勢についての知識を得ることもできます。否、70年を超える年月が過ぎたからこそ、ようやく冷静、かつ、客観的に開戦に至った原因並びに構造的な問題を検証することができる状況にあるとも言えましょう。このことは、今日であれば、日本国が世界大戦へと誘導されることなく、‘戦争に巻き込まれる愚’の繰り返しを回避できることを意味します。
ドイツがウクライナに対する「レオパルト2」の提供を決断した際には、戦後の安全保障に対する消極的な姿勢からの転換として歓迎する声もありました。しかしながら、同転換が、第三次世界大戦への道を選択することを意味するならば、忌まわしい歴史は繰り返されることとなりましょう。日本国もドイツも、第二次世界大戦という災禍を経験した敗戦国であるからこそ、経験から謙虚に学び、より賢くなるべきですし、世界権力が仕掛けている謀略に対してはより研ぎ澄まされた感覚をもって事前に察知すべきなのではないでしょうか。
ミュンヘンの国際会議では、ウクライナのゼレンスキー大統領は、武器供与についてはスピードが重要であると力説しておりましたが、スピードをもって物事を処理しますと、熟慮する時間なく重大な決断がなされてしまうリスクがあります。同大統領の演説については、‘魂の演説’といった歯が浮くような表現をもって礼賛される向きもありますが、魂とは、必ずしも善良とは限りません。ウクライナ情勢については、第三次世界大戦を未然に防ぐと共に、詐術的な経路で世界権力に富が流れる事態を阻止する必要がありましょう。岸田文雄首相は、今夏に予定されている広島サミットにおいてウクライナ支援を打ち出すとも予測されますが、日本国、そして、ドイツの歴史的な役割とは、国際社会の流れを和平の方向に変えることではないかと思うのです。