万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

成田悠輔氏こそ‘精神の老害’では?-全体主義の発想

2023年02月23日 10時25分15秒 | 社会
 イエール大学アシスタント・プロフェッサーの肩書きを持つ成田悠輔氏が言い放った高齢者集団自決発言は、内外から厳しい批判を受けることとなりました。集団自決とは、老若を問わず追い詰められた人々が死を共にする行為を意味しますので、この言葉そのものに自決に至った人々の悲しみや苦しみが込められています(幼い我が子に手をかけた親もいたはず・・・)。言葉に敏感であれば、軽率に口にすることはできないはずなのですが、同氏は、少子高齢化問題の解決策として、平然と集団自決論を語っているのです。しかも、昨今の報道によりますと、ある年齢に達した時点で、自動的に安楽死させるシステムまで提案していたというのですから驚かされます。

 成田氏の背景については、自己の利益に不要と見なした一切を切り捨てようとする経営者視点を指摘しましたが、こうした経営者視点は、全体主義とも共通しています。全体主義も、国民を含めた国家全体を一つの‘事業体’と見なすからです。企業では、人事権を握る経営幹部は、社員や従業員を採用したり、配置転換したり、さらには解雇することができます(特に非正規社員であれば解雇は容易・・・)。言い換えますと、自らが決定した事業方針に照らして、上部の位置から自らの組織に所属する人々を自由に動かすことができるのです。

例えば、企業幹部の会合では、「○○年に入社した○○期の社員達は、技術が旧式化したので今やお荷物となっている。しかも、給与は高額だ」、「コスト削減のために、全員、一斉に解雇した方がよいね。」、「いや、労働法による規制あって、解雇は難しい」、「それでは、自主退職させるように職場で嫌がらせをしてはどうか」・・・といった会話がなされているかもしれません。そして、この経営者達の解決策は、成田氏の提起した‘最終的解決案’にも当てはまるのです(なお、ホロコーストでユダヤ人は虐殺されたとされますが、このことは、グローバリストの中枢にいる多くのユダヤ系の人々が、多民族の存在に対して‘優しい’ことを意味しない・・・)。

しかしながら、たとえわずかなりとも共通する部分があったとしても、国家と企業とは基本的には別ものです。国家の政府は、国民に対して、生まれてからこの世を去るまでの生涯という長いスパンで配慮するのみならず、後の世まで国民生活の安定を実現する責務を負っているからです。言い換えますと、国家の政府は、現実はともあれ、良い意味において利他的なのです。しかも、個人の基本的な自由や権利を擁護することも政府の役割の一つですので、間違っても国民の命を軽視するような政策は採れない‘はず’なのです。

ところが、歴史を振り返りますと、古今東西を問わず、国民の生殺与奪の権を握り、恣意的に国民の命を奪ったり、財産を没収したりする為政者が散見されます。所謂‘悪政’というものなのですが、こうした‘悪政’は、現代史にあっても全体主義国家において見られます。ファシズム然り、ナチズム然り、そして、共産主義然りです。近代以降の人類の歩みは、政府が本来の役割を取り戻し、国民のために働く国家へと向かう、あるいは、人類史において人々が国家をつくったことの意義に立ち返る過程であったのかもしれません。今日、普遍的な価値とされる自由も、民主主義も、法の支配も、私物化されがちな国家を国民に資する存在へと変えてゆくために必要とされた原則とも言えましょう。こうした歴史の流れからしますと、経営者の視点は、過去の専制国家や全体主義国家並びに時代錯誤とされる共産党一党独裁国家とむしろ共通しており、現代人の視点からすれば、過去のものとなるべきもの、即ち、‘古い’と言えましょう。

今日、翳りを見せてはいるもののグローバリズムが時代の先端とされ、マネー・パワーを背景にマスメディアもIT企業のCEOやIT関連の起業家達をヒーローと見なし、しきりに持て囃しています。金融・経済財閥を中心とした世界権力が人類に対して支配力を及ぼしていますが、その精神性においては、必ずしも若々しいとは限らないように思えます。成田氏は、高齢者を‘老害’として批判しましたが、精神面においては、成田氏こそ‘老害’であるかもしれません。経済的な格差の要因が、ジョブ型雇用を含む雇用の不安定化や広範囲でのITやAIの導入等、そして移民推進政策等による社会の不安定化にあるならば、経営者視点での政策の推進は、若者層にとりましても明るい未来どころか、デジタル全体主義という名のディストピアに連れて行かれかねないのです。

そして、国民の基本権の尊重という大原則に立ち返れば、そもそも、成田氏には、他人である国民に対して集団死を促す発言をし得る立場にはないことに気がつかされましょう。生命に関する権利(生存権)はその人自身に専属していますので、他者が勝手に奪うことはできず(殺人などの犯罪により死刑判決を受けた場合などを除いて・・・)、なおも他者の死を以て解決策とすることは、それが自死であっても間接殺人の教唆を意味するからです(生存権を侵害するので憲法違反にもなる・・・)。経済学者であるならば、高齢者が最後まで自らの人生を豊かに生き、かつ、若者も様々なチャンスに恵まれ、かつ、一人一人が十分な経済力を持ち得るような政策こそ提案すべきなのではないでしょうか。

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