中国といった全体主義国家は、国際社会にありまして無法国家化するという特徴があります。共産主義国家のみならず、ナチス・ドイツなどにも同様の特徴が顕著に見られたのですが、それでは、何故、全体主義国家は無法国家化するのでしょうか。
実のところ、古来、法とは何か、という論争がありました。日本国では、’全てのメンバーの基本的な自由と権利を護るために、全てのメンバーが等しく遵守すべきルール’というのが一般的な法の捉え方でしょうし、他の自由主義国でも凡そこうした理解が成立しています。’法の支配’とは、まさしく、人々が客観的な法を自発的に護ることによってもたらされる自由な世界を意味しており、法は自由の証という名言もこの文脈から理解されるのです。法と自由とは不可分に結び付いており、法なきところには自由もなく、立法における民主主義の重要性は、皆が従うべき法は皆の合意に基づいて制定されるべきであるからです。しかしながら、その一方で、法をこのようには捉えない人々もいないわけではありません。
それでは、もう一つの法の概念とはどのようなものなのでしょうか。それは、’法とは命令である’というものです。法を命令と捉える見方は、旧約聖書における「モーゼの十戒The Ten Commandments of Moses」が、神が人間に対して命じる形式であった点に由来して主張される場合もありますが、法とは’超越的な存在’によって命ぜられるものとする考え方は、古今東西を問わず、帝国などにおいて’皇帝の意思が法である’とする勅法体制において顕著に観察されます(帝政時代のローマ法…)。この場合、’超越的な存在’とは世俗の為政者であり、国民は、法、即ち、その命令に従うのみの存在となるのです。法の内容が如何に恣意的であり、不条理であっても…。なお、為政者を国民から隔絶した超越的立場に置く絶対主義や超然主義も、同構図においてこそ説明されましょう。同体制では、為政者は、自らは法に従う義務を負うことはなく、法の枠組みの外にあるのです。
おそらく、この体制は、軍隊の組織形態をそのまま統治制度にスライドさせたことに因るのでしょう。人類史にあっては、統治権力は得てして武力によって掌握されてきましたし、戦場では、状況に応じて臨機応変な判断を要しますし、作戦を首尾よく完遂するためには、兵士たちは、指揮官が下した命令に忠実に従う必要があるからです。個々の兵士達が自由に状況を判断し、自由に行動したのでは、敗戦は必至となります。全体主義体制とは、いわば、有事向きの体制なのです(カール・シュミットの「例外状態」の政治思想も有事向けなのでは…)。
法を命令とみなす国家体制は、今日の中国や北朝鮮等の独裁体制などにも見られます。トップの座にあって君臨する習近平主席は、国民から一人だけ超越した比類なき指導者であり、全中国国民に対して命令を発する立場として位置づけられています。そこには’法の支配’が存在する余地がないことは言うまでもありません。と同時に、国民の自由も民主主義も成り立ち得ないのです。
そして、法を命令と見なす全体主義体制の国家にあっては、国際社会においても国内の論理で行動しようとします。つまり、一般国際法が自らを拘束するとは考えず(法の支配に対する理解の欠如…)、あわよくば超越的な地位に上り詰め、他の諸国に対して’命令’するポジションにあろうとすることでしょう。中国の軍事力増強の目的は防衛であるはずもなく、人の支配、即ち、暴力による支配の確立とも推測されるのです。
以上に述べたように、法というものに対する認識の相違は、国際法を無視する中国の態度をも説明します。そして、全体主義国家と無法国家化とが有事においてこそ結び付くという側面を理解すれば、戦争であれ、恐慌であれ、コロナ禍であれ、有事という状況にこそ、人類は心して警戒すべきと言えましょう。今日、人類は、専制的な権力から自らの自由を護るために、無法国家による国際法秩序の破壊、並びに、国内においても有事に乗じて忍び寄る全体主義化の流れを止めなければならないのですから。