新型コロナウイルスワクチンをめぐっては、政府とメディアを筆頭にワクチン接種派が国民全員接種を目指して積極的な接種を呼びかける一方で、国民の中には同ワクチンの接種には慎重な人々も少なくありません。しかしながら、両者の間の溝は、そう簡単には埋まらないのではないかと思うのです。
ワクチン接種派にも様々な立場の人がおります。第一の立場は、‘今般、接種が予定されているワクチンは、100%安全である’と見なしている人々です。ワクチンによる人口削減論は馬鹿げた陰謀であり、医科学的な見地からしても、遺伝子ワクチンについても接種時における短期的副反応のみならず、中長期的にも全く問題はないと信じ込んでいます。これらの人々は、善意、もしくは、情報不足によるワクチン接種派の人々であるかもしれません。同立場にある人の中には、非接種派の人々に‘変心’を促すに際しても、‘ワクチンを拒否する人々の気持ちに寄り添い、丁寧に説明することで不安感を取り除こう’と呼びかける論者も見受けられます。もっとも、科学的にワクチンには問題はないと信じ込んでいるがゆえに、非接種派に対して、‘科学の勝利’に背を向ける‘無知蒙昧’であるとして嘲笑する意見もありますが…。
第二の立場の人々は、ワクチン接種のリスクを認識していながらも、経済や国民生活の正常化を最優先事項と見なし、全国民への接種を実現しようとする人々です。これらの人々は、他の人々がワクチン・リスクを恐れていることを、十分に承知しています。それ故に、メリット面を強調する専門的な説明がある一方で、第一の立場の人々とは違い、より強圧的な手段を以ってワクチン接種への圧力をかけようとする傾向にもあります。あの手この手による同調圧力が典型的な手法ですが、極端な例を挙げますと、ワクチン接種を戦時における徴兵と同列に捉え、その拒否を、国民の義務忌避行為として糾弾する人もおります。この主張は、ワクチン接種に起因して命を失う場合があったとしても、お国のための名誉の戦死、つまり、自己犠牲を国民は受け入れよ、ということになりましょう。この立場にあっては、ワクチン接種はもはや個人の自由な選択の問題ではなく、ワクチン接種強制論も、この文脈から理解されるのです。
一方、ワクチン接種派にも様々な立場がありますように、ワクチン非接種派にも‘多様性’が見られます。そもそも、ワクチン接種の根本原因となった新型コロナウイルス自体の存在を疑う人もおりますし、もちろん、陰謀説を信じる人々もおります。政府やマスメディアの一方的な‘ワクチン押し’、並びに、デジタル化との一体化などを見ますと、政治・社会的陰謀説も否定はできず、一定の信憑性を有しています。そして、何よりも、ワクチン非接種派を不安にしているのが、ファイザー社、モデルナ社、並びに、アストラゼネカ社の何れのワクチンであっても、十分な治験を経ておらず、かつ、実験的とも言える遺伝子ワクチンである点です。それでは、私を含む非接種者の目には、上記の接種者は、どのように映るのでしょうか。
第一の立場の接種派に対しましては、科学技術を過剰に信じる‘科学信仰’の危うさが感じられます。たとえ、報じられているように、短期的な副反応が軽度であり、かつ、一定の感染、発症、重症化防止の効果が認められたとしても、中長期的にはワクチン関連疾患憎悪(VAED)、抗体依存性増強(ADE)、変異株に対する反応低下、体内の逆転写酵素によるDNAへの取り込みなどのリスクがあります(政治・社会的陰謀説が加われば、さらにリスクは高いものに…)。遺伝子ワクチンは、既存のワクチンと同レベルの安全性が検証されていませんので、‘科学の成果’という言葉を以って非接種者を説得しようとしても、数か月後、数年後、そして週十年後のデータが存在せず、中長期的なエビデンスが存在しない以上、むしろ、医科学的な見地から疑義を呈されてしまうのです。このため、‘科学’を以って両者の溝を埋めることは難しく、逆に、ワクチンに対する疑いが医科学的に見て合理的、かつ、客観的あると判断する人が増えれば、接種派の非接種派への転向もあり得ましょう。
第二の立場の人々に対しても、非接種派の人々は、反論を試みることでしょう。現時点にあって、短期的なリスクと長期的なリスクを正確に比較することはできませんので、メリットがリスクを上回ると熱心に説明しても、非接種派の人々を納得することは困難です(中長期的な影響については、注意深い観察が必要と説明されつつも、一旦、接種してしまったらお終いでは…)。また、戦争にあっては、国民が一致団結して敵国と戦う必要があることは言うまでもありません。敗戦ともなれば、自国の独立性は失なわれ、敵国が残忍であれば全国民がジェノサイドを受かねないからです。その一方で、今般のワクチンの場合は、上述したリスクがありますので、自ら自発的に接種することによって‘自滅’する可能性があります。新型コロナウイルス自体にも生物兵器説がありますが、ワクチンにも潜在的な‘自滅’リスクがありますので、‘国民皆接種策’は、戦時戦略的に見ても望ましくないと言えましょう。しかも、日本国内の感染率は東京都であっても1%以下に過ぎません。感染症とは、ヨーロッパの人口のおよそ3分の1が死亡するという猛威を振るったペストでさえやがて収まったように、一般的には自然に収束に向かうものです。治療法の確立や治療薬の開発によって克服することもできるのですから、敢えて‘自滅’の危険を踏む必要性があるのかどうか、疑問なところとなりましょう。むしろ、‘自滅’リスクを考慮すれば、非接種派の方が真の‘愛国者’であるのかもしれません。そして、国民に対してワクチン接種という名の’報国の義務’、あるいは、自己犠牲を訴えれば訴えるほど、どこか胡散臭く、偽旗作戦の疑いも濃くなってくるのです。
以上に述べてきましたように、科学的見地や愛国心とった観点から見ましても、両者の見解の間には著しい前提や認識の違いが見受けられます。妥協点を見出すことは難しく、議論も平行線を辿ることが予測されます。こうしたケースでは、頭ごなしに相手方を批判するのではなく、相互に相手の立脚点を理解し、双方の選択を認めるしかないのではないでしょうか。戦時とは違い、国民の全員がワクチンを接種しなくとも、国が亡ぶわけではありません。そして、相互理解が集団免疫の成立を妨げたとしても、それが国民の個々の選択の結果であれば、受け入れるべきではないかと思うのです。