政府がデジタル化の旗振り役を務めていることもあり、マスメディアの報道ぶりも、‘デジタル後進国の…’が日本国の枕詞となっているかのようです。日本国の国民性は横並び志向が強いとされていますので、‘遅れている’とする指摘は、日本国民をデジタル化に向けて煽る心理的効果が期待されているのでしょう。しかしながら、デジタル化とは、人々のあらゆる言動のデータ化を意味しますので、むしろ、遅れていた方が良い場合もあり得るように思えます。
デジタル化を時間軸における先進性を測る基準に設定しますと、行政システム一つをとりましても、日本国は、低レベルで遅れた国として見なされることになります。その一方で、エストニアといった長きにわたりロシアに支配された歴史を有する国では、領域を失っても国家を維持できるシステムとしてデジタル化が大幅に導入されています。同国は、しばしばデジタル化の‘先進国モデル’として紹介されていますが、その背景には、祖国喪失という悲しい歴史があったのです。そして、IT分野における研究・開発をユダヤ系の人々が牽引し、その活躍の場としてきた現状も、‘流浪の民’と化したユダヤ人の歴史を抜きにしては語れないのかもしれません。
いささか脱線してしまいましたが、デジタル化の必要性とは、その国の歴史や事情によって違いもありますので、全ての諸国が経済や社会、否、私的空間にまで全面的にデジタル化を図る必要はないのでしょうが、もう一つ、問題点として挙げられるのは、デジタル化には、必ずシステムの導入を伴わなければならない、という点です。当たり前のことのようのなのですが、実のところ、これこそ大問題なのではないかと思うのです。何故ならば、上述したように、デジタル化とは、あらゆる言動のデータ化を意味しますので、他者によって収集される可能性が極めて高いのです。すなわち、情報の漏洩や盗取、あるいは、改竄や操作のリスクが常に付きまとうのであり、このリスクがメリットを上回る場合には、‘遅れていた方がまし’ということになりましょう。
今般のアメリカ大統領選挙にあっては、不正選挙問題がバイデン政権の民主的正当性を今なお揺るがしていますが、この問題にもデジタル化が関わっています。アメリカの選挙では、疑惑の対象となったドミニオン社やスマートテック社製の電子投票・開票システムが広く導入されており、アメリカは、いわば選挙の‘デジタル先進国’であったからです。不正選挙と申しますと、郵便投票の方が注目されましたが、電子投票・開票システムのほうが、より簡単に選挙結果を覆す程の大規模な不正を行うことができます。アメリカ国民のみならず、多くの人々が不正選挙を疑うのも、デジタル化時代にあって技術的にあり得るお話であるからに他なりません。政権の正当性を左右するのですから、同問題は、デジタル化を選択したが故の、致命的なリスクの問題でもあるのです。
こうしたデジタル化のリスクを考慮しますと、まずは、デジタル化しても安全である範囲を確定する必要がありましょう。まずは、デジタル化は、仮に外部に情報が漏れたり、不正や操作が行われても、国家や国民の安全を脅かすことはなく、かつ、人々の自由や権利、並びに、プライバシーを損なわない範囲に限定するのです。つまり、リスクとメリットを十分に比較検討し、まずは後者が上回る分野にのみデジタル化を推進し、その他については、バックドア対策やハッカー等の攻撃を防除する安全技術が確立するのを待つべきです(もっとも、絶対にデジタル化してはならない分野もあるかもしれない…)。
そして、デジタル化に適した分野であっても、データ収集と不可分に結び付いている以上、どの国のどの製品を使うのか、という問題は、極めて重要となりましょう。この点、日本国政府の姿勢には疑問があります。平井卓也デジタル改革担当相に至っては、ファウェイと懇意であるとされていますし、今般、検討されているマイナンバーカードの活用拡大についても、どの国のどの製品、あるいは、システムを使うのかについては殆ど情報がありません。公開競争入札となるのかもしれませんが、国家・国民の安全がかかっているのですから、日本企業の製品が望ましいのは言うまでもありませんが、政府の様子を見ますと、海外企業への利益誘導もあり得るように思えます。言い換えますと、仮に、政府がデジタル化を進めたいならば、日本企業が国産の技術によって提供できる範囲に留めるべきということになりましょう(海外製品にあってブラックボックスの部分があったり、バックドアが潜んでいるものはもっての他…)。たとえ開発に時間や経費がかかっても安全には代えられませんし、むしろ徒に海外の技術に依存するのではなく、自国で開発する余地を設ける方が、若年層をアパシーから救い出し、生きるインセンティブを高めるかもしれません。
デジタル化のレベルを上げれば上げる程、反比例的にリスクが上昇し、その挙句に国家・国民に関する全情報が、国家であれ超国家体であれ、外部の権力体によって掌握され、日本国がその支配下に入れられてしまうようでは、デジタル先進国化は‘隷従への道’となりましょう。こうした意味において、‘デジタル後進国’と揶揄されようとも、敢えて慎重に構える姿勢は賢明であり、決して卑下すべきことではないように思うのです。