万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

森元首相の発言は何が問題なのか?

2021年02月06日 12時34分06秒 | 日本政治

 2020年に予定されていた東京オリンピック・パラリンピックの開催にあって、日本国内での‘大元締め’とも言えるような役割を担ってきた森喜朗元首相。今夏での開催さえも危ぶまれる中、その森元首相は、組織委員会会長の辞任にも発展しかねない失言問題の渦中にあります。

 

 森元首相の失言とは、およそ‘会議における女性の話は、競争心からか長くなりがちであり、女性の出席者を増やすならば、発言の時間制限を設けるべき’というものです。その後に、自らの組織委員会の女性委員については、フォローするためか、‘彼女たちは、わきまえている’とする‘例外発言’も付け加えています。同発言については、一部を切り取ったものであるとする擁護論もあるのですが、聞く人によっては、‘女性は無駄に話が長いから、発言しないように自粛せよ(わきまえよ)’と受け取られてしまいます。女性の言論を封じているように聞こえるのですから、厳しい反発が返ってくるのは当然と言えば当然のこととかもしれません(もっとも、私はと言えば、説明が長くなる場合も多く、なかなかすっきりと短くお話しすることができず、森元首相の発言は耳痛い…)。

 

 早々、海外のIOCの女性委員からは森元首相の許に‘果たし状’が届くことともなったのですが、発言の全文を検証すると ‘わきまえている’の後にも女性の能力を高く評価した発言もあったそうですので、メディアによる不当なハッシングとする擁護論にも一理はあるのでしょう。その一方で、やはり気にかかりますのが、森元首相の議論の役割に対する考え方です。発言時間や競争心には性差は関係ありませんので、ステレオタイプに決めつけた発言はいただけないものの、議論とは、得てして、出席者が各々の視点から意見を述べ、時間をかけてコンセンサスを形成し、結論に導いたほうが良いケースが多いからです。

 

 もっとも、出席されている女性の多くは、他の女性出席者に対するライバル心から意味もなく発言しているわけではなく、議論に資すると信じるからこそ発言しているはずです。議論のテーマとなる問題や議題について真剣に考え、より良い結論に達するためにこそ、自らの意見を述べているはずなのです(女性であればこそ、男性陣から生意気と見なされて反感を買ったり、排除されるリスクがありますので、一般的には、‘発言しない女性’の方が問題なのかもしれず、また、性差を問わず、おかしな発言をすれば他の出席者から訝られますので、むしろ、責任が伴う会議での公的な発言には勇気も要する…)。形式的な会議ではなく、多くの人々に実質的な影響が及ぶような重大な決定を行わなければならない会議ほど、長引いてしまうのは致し方ない事なのです。多様な意見を集約し、誰もが納得するような理に適った結論を導き出さなければならないのですから。

 

 仮に、森元首相が民主的なプロセスとしての議論の場を重視していたとしましたならば、国民の大多数が東京オリンピック・パラリンピックの今夏開催について否定的な中にあって、同大会の開催を世論に逆らってまで強行しようとはしなかったことでしょう。そして、同元首相に対して辞任を求める声が強いのは、実のところ、女性蔑視発言ではなく、国民の声に耳を貸すこともなく自らの方針を貫こうとする森元首相の頑なな姿勢にあるのかもしれません。つまり、‘オリンピックは諦めるべき’とする声が、‘森元首相は辞めるべき’という声に‘変換’されているのかもしれないのです。

 

会議の形式化や硬直化は、オリンピック組織委員会のみの問題ではなく、あらゆる組織に見られる病理との指摘もあります。参加者の全員が、誰気兼ねすることなく自由に自らの意見を述べ得る議論の環境を整えるべく、森元首相の失言問題は、今一度、議論というものの在り方を問う機会とすべきではないかと思うのです。


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