万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

多文化共生主義とは排内的差別思想では?

2018年11月03日 13時57分18秒 | 日本政治
「移民政策ではないか」新在留資格、与党内からも疑問
保守本流とも目されてきた安倍政権の下でよもや行われるとは、誰もが想像もつかなかった事実上の移民政策。人手不足を根拠とした入国管理法の改正法案として報じられていますが、同法改正が拙速とされる理由の一つは、同時に多文化共生主義の採用が決定されている点です。

 多文化共生主義とは、多民族国家において議論されてきた社会統合政策上の原則の一つです。同化政策が受け入れ国の文化や慣習に従う‘郷に入っては郷に従え’を原則とし、融合政策が‘メルティング・ポット’と表現されるように異なる文化を混ぜ合わせて違いをなくす方法であるのに対して、多文化共生主義とは、出身国の文化をそのまま定住国に持ち込み、出身国別のコミュニティーを維持することを許す原則です(原形を残すため‘サラダ・ボール’とも…)。今般、日本国政府は、多文化共生主義の採用を明言しておりますので、今般の法改正は、もはや人手不足の解消といった経済分野に留まらず、日本社会全体に波及する社会統合問題を含む移民政策と言わざるを得ないのです(安倍総理は、主観的視点から‘移民政策とは考えていない’と説明していますが、客観的視点からすれば明らかに移民政策…)。

 時の政権がかくも重大な選択を行うのですから、民主主義の原則に照らせば総選挙を経るべきですし、決定を行う以前の段階で多文化共生主義の問題点を洗い出す作業を行うことも、国民に対する説明責任を果たす上でも、重要、かつ、不可欠なステップなはずです。強引にでも同法案を年内に成立させようとしている政府の態度は、シリア難民受け入れを突然に独断で決定したメルケル首相の手法にも類似しており、政府による‘白紙委任’的な既成事実化、すなわち、実質的独裁は国民が最も嫌う手法でもあります。

しかも、当のメルケル首相でさえ‘多文化共生主義は失敗であった’と明言しており、壮大なる‘社会実験’の結果は多大なる犠牲を払いながら既に出ています。そして、‘社会実験’とは、研究室という閉じられた空間における実験ではなく、現実の社会において行われるため、「覆水盆に戻らず」という諺がありますように、この種の実験の失敗は元の状態に戻すことが困難なのです。言い換えますと、実験の結果に不可逆性を伴う以上、‘社会実験’は、‘実験’と言う名の‘実行’に他ならず、安易に試してはならない行為となります。

それでは、多文化共生主義によって、日本国の内部にあって全ての出身国の文化を無条件に受け入れ、かつ、複数のコミュニティーが併存する状態に至った場合、どのような状況に至るのでしょうか。多文化共生主義とは、一つの国家の内部に‘世界’が出現するようなものです。‘世界’の諸文化間の関係は平等ですので、受け入れ国の文化は相対化されて多様な文化の中の一つに過ぎず、特別の地位は保証されなくなりましょう。つまり、あらゆる日本の伝統、風習、言語、宗教観、道徳・倫理観などは、移民の人々から見ますと平等原則を損ねる差別として映るのです。多民族国家であるアメリカでは、‘メリー・クリスマス’がタブーとされ、非キリスト教徒に配慮して今では‘ハッピー・ホリデー’が主流となっており、多文化共生の結果、既存の文化が消滅する事例は枚挙に遑がありません。世界の多様な文化の中には、異文化に対して非寛容で攻撃的な文化もあるのです。日本国内でも、‘日本的なるもの’に対する排斥要求が強まることでしょう。多文化共生主義とは、歴史において培ってきたあらゆる諸国の固有の文化を一斉に攻撃し、‘平等’や‘差別禁止’を盾に排除できる‘魔法の杖’なのです。そして、地球上の’多文化’もまた、全ての諸国が多文化共生主義を強いられることで、やがて消えてゆく運命を辿るのです。

そもそも文化というものが個人レベルでは形成し得ず、多数の人々の共有と時空の有限性を伴う以上、一つの社会における異文化同士はゼロ・サム関係となり、そもそも平等なるものはあり得ません。否、受け入れ国側の文化は、他の全ての移民系文化から差別を受けて排除されるか、同等の扱いを要求されるのです。多神教の国である日本国の伝統行事も一神教の信者にとりましては神の名の下で廃止すべき邪教の行為となりましょうし、多言語空間ともなれば、教育機関にあっては、生徒の出身国別に言語の授業を設けねばならず、一般の社会にあっても、全ての言論が多言語で表現しようとすれば、膨大な時間を費やさねばならず、もはや、コミュニケーションも不可能となりましょう。国内的な視点からしますと、多文化共生主義こそ、排外的ならぬ、排内的な差別容認思想なのです。

そして、日本国内ではマイノリティーであっても、世界全体から見ればマジョリティーとなる中国等の人口大国からの移民が増加すれば、やがて、人口パワーによって日本国の諸都市もチャイナ・タウンへと変貌し、差別的な日本人排斥はさらに加速してゆくことでしょう。中国や東南アジア諸国でも、スマートシティという名の安全で快適な未来都市が建設されていますが、その実態は、共産党員、特権階級、華僑や外資系企業の駐在員などが居住する安全地帯、即ち、一般の国民が居住することができない‘現代の租界’なのかもしれません。多文化共生主義の行き着く先は、移民受け入れ国の文化や国民に対する容赦のない差別ともなりかねないのです。

 多文化共生主義とは、反差別主義の思想に見えながら、その実、‘差別反対’を唱えながら究極の差別を実現してしまうトリッキーな思想とも言えましょう。このように考えますと、今般の入国管理法改正は、やはり廃案とすべきではないかと思うのです。

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コメント (4)
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