花熟里(けじゅくり)の静かな日々

脳出血の後遺症で左半身麻痺。日々目する美しい自然、ちょっと気になること、健康管理などを書いてみます。

「津波教訓の伝承に有効な石碑」

2013年04月02日 16時38分09秒 | ちょっと気になること
「東日本大震災の津波対策として、地域ごとに高地などの避難場所への避難訓練が実施されている様子が報道されます。地震や津波など自然災害から身を守る術を体で覚えておくことが最も必要であることは、言うまでもありません。 人間の記憶は時とともに風化していくので、自然災害の記憶を後世に伝えることもまた大事です。200年後、500年後に今回の東日本大震災のことをどのような手段で伝えるかが焦点になります。 

古来、最も多くみられるのは、「口頭による伝承」です。 地域の古老などを通じて、津波の被災状況が伝えられてきました。今回の三陸沿岸でも多くの地域で、“大地震の時は迷わずに高台に逃げること“ を日常の生活の中で伝承として受け継いできた地域もあり、実践することで命を救った人々のことも報道されています。他方、伝承はあったものの、ほとんど忘れかけて、今回は実践されなかった地域もあったようです。

現代は記録を保存する多くの媒体が多くありますが、電子媒体や映像機器を使った保存は数百年単位での保存にはなりえませんし、書類による記録も滅失の可能性があります。また、看板や掲示板などは木材や金属を使用することが多いので、腐食により滅失する可能性があります。その点、『石』を使用したものならば、超長期間の保存が可能になります。

3月18日付の産経新聞の「三陸地方の津波石碑 碑文が語る被災の教訓 心をつなぐ絆の役割に」という記事は興味深い内容でした。
『三陸地方には2000年時点で明治三陸124基、昭和三陸157基など計316基の津波石碑があった。県別では岩手が7割を占める。 石碑の目的は、明治は主に犠牲者の供養だったが、昭和は教訓の伝承に変わった。』

(産経新聞:3月18日の記事より)
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確かに、「被災の石碑」は超長期間の記録保存としては、有効と思われますが、時が経つうちに石碑のことが忘れ去られてしまうことのないように、石碑の保存を地域の毎年の行事の一環に組み入れて、行事の当日には地域全員で記憶を新たにするなど、工夫をしていけば、数百年単位での保存も可能になります。

たとえば、1854年に起きた「安政の大津波」では大阪でも多くの犠牲者が出ましたが、大阪市浪速区には、「大地震両川口津浪記」と記した石碑が建てられており、年中行事として、毎年地蔵盆にあわせて石碑を洗い、刻まれた文字に墨を入れています。さらに、読みやすく写して桧板に刻んだり、分かりやすく書き直して案内板で表示するなどして、先人の戒めを後世に残すための努力が続けられていると報告されています。(大阪市のHP)

東日本大震災の被災地でも、大事に守られてきた多くの石碑があり、教訓が生かされた地域もありますので、石碑の持つ伝承力の大きさが改めて認識されたのではないでしょうか。
地域の人々の力で石碑の復旧、建立も進められているようですが、公的な遺産として財政的な支援をすべきで、たとえば、全国、いや世界中から寄せられた『義捐金』を石碑建立の資金にしていただきたいと思います。1933年の昭和三陸地震の津波のときには、三陸地域では、義援金を利用して、約200基の津波記念碑が建設されたといわれています。

なお、インドネアシア・スマトラ島では2004年12月、マグニチュード9.1のスマトラ沖大地震が発生し、巨大津波が押し寄せ、22万人以上の死者・行方不明者を出しましたが、源から数十キロの近くだったアチェ州シムル島では、津波による犠牲者は一人だけでした。津波警報も出ず、サイレンもない人口約8万の小さな島で、住宅約4千軒が流されたものの、ほぼ全員が一目散に高台へ逃げて助かったのです。島民を救ったのは、津波の教訓を盛り込んで歌い継がれる伝統的な4行の叙事詩(島唄)です。 東日本大震災も叙事詩の第29番に「 住むところがない/寝場所を探す/アチェで2004年/日本で2011年」として追加された、と報道されています。(産経新聞:3月11日)

(宮城県石巻市小網倉の石碑)<ネットより借用>
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【科学】三陸地方の津波石碑 碑文が語る被災の教訓 心をつなぐ絆の役割に
産経新聞2013.3.18 10:06
 東日本大震災で大きな被害を受けた三陸地方には明治、昭和の大津波を伝える多くの石碑が残されている。惨事の教訓を伝えようとした先人の思いを、将来にどう生かすのか。大震災で再認識された石碑の役割と今後の可能性を探った。(草下健夫、黒田悠希、長内洋介)
岩手県宮古市の重茂(おもえ)半島にある本州最東端、●(=魚へんに毛)ケ埼(とどさき)灯台近くの姉吉(あねよし)地区。高台の集落から海岸へ下る道の脇に、石碑がひっそりとたたずんでいる。昭和三陸沖地震(1933年)の際に建てられた津波記念碑だ。
「高き住居は児孫(じそん)の和楽 想(おも)へ惨禍の大津浪(おおつなみ) 此処(ここ)より下に家を建てるな」
姉吉地区は明治三陸沖地震(1896年)の津波で壊滅し、その教訓が伝えられず昭和でも悲劇を繰り返した。その無念さが碑文ににじむ。
石碑より低い場所は東日本大震災でも大津波が押し寄せたが、教えを守った全11世帯の家屋は被害を免れた。自治会長の木村民茂さん(66)は「おっかないところだ、絶対に下に降りるなと、小さい頃から言われてきた」と振り返る。
周辺地区では昭和の教訓を生かせず、多くの犠牲者が出た。警報で避難しても津波はほとんど来ないことが多く、約80年の歳月とともに危機意識は次第に薄れていった。
だが姉吉の人々は石碑の警告を忘れなかった。「いつか絶対、大津波は来る」。木村さんは「科学が発達し警報が正確になればよいが、今は自分で守らなければ」と話す。
海岸付近には大震災の濁流の跡が今も残る。教訓を絶やすまいと周辺の自治会などが協力して昨年7月、大津波の到達点に新たな石碑が建てられた。

慰霊から警鐘に
立命館大の北原糸子教授(災害社会史)らの調査によると、三陸地方には2000年時点で明治三陸124基、昭和三陸157基など計316基の津波石碑があった。県別では岩手が7割を占める。
石碑の目的は、明治は主に犠牲者の供養だったが、昭和は教訓の伝承に変わった。朝日新聞社が募集した義援金の一部を石碑の建設費とし、後世の参考となる内容を記すことを条件に市町村に配分されたためで、「地震があったら津浪の用心」などの警句を刻んだものが多い。
宮城県内の主な石碑63基を震災後に調査した結果、健在だったのは26基にとどまり、18基が流失、19基が倒壊していた。今回の津波の巨大さを裏付ける。
北原教授は「地元でも石碑の存在を忘れていたり、知らない人がいた。無自覚だった無念さは大きいはずで、その思いは心に強く響くだろう」と話す。

 目標は311本
宮城大の三橋勇教授(観光学)は宮城県沿岸に大震災の石碑を建てる活動をしている。1本5万円の寄付を募り、同大と石巻専修大の学生とともに昨年2月、仙台市宮城野区に第1号を設置した。3月11日にちなむ311本が目標だ。
石碑は高さ80センチで上面に「絆」、正面に「波来(はらい)の地」の文字。災いを払い、復興支援者へ敬意を払い、津波に注意を払い続けるとの思いを込めた。津波到達点や人目につく場所などに置いている。
だが、活動は必ずしも順調ではなく、これまでに設置したのは61本。社会貢献の教育も兼ねていたが、学生はアルバイトや就職活動で忙しく、参加が難しくなった。業者に委託しても復興業務で多忙なため、思うように進まない。
三橋教授は「やめようかと考えた時期もあるが、記憶の風化は避けたい。石は看板や掲示と違い数百年でも残る。協力者がいるうちは何としても続ける」と話す。

 地域の知恵
津波石碑の意義について、防災科学技術研究所の鈴木比奈子特別技術員は「地域の知恵をその場所に置いておくもの。代々住む家は土地の危険を知っていても、新たに住む人は知らない。 慰霊碑だった明治の石碑は、飢饉(ききん)などの供養塔と一緒に寺の境内などに置かれることが多い。一方、警告が目的の昭和の石碑は主に津波到達点や浸水域に置かれており、その分布はいわば当時のハザードマップといえるかもしれない。
では「平成の石碑」の役割は何か。北原教授は「被災地は少子高齢化で地域力が弱まっており、明治、昭和とは社会状況が違う。復興の全体像が見えない中で、石碑は地域の核として皆の心を一つにする象徴的な存在として機能するだろう」と話している。

 □土木研究所専門研究員 杉本めぐみさん
■インドネシアに「津波ポール」設置 「学び合うことが大切」
三陸地方の石碑は、2004年のスマトラ島沖地震で大津波が襲ったインドネシアでも防災に生かされている。土木研究所(茨城県)専門研究員の杉本めぐみさんは、昭和三陸の石碑がモデルになった「津波ポール」を現地に建設するプロジェクトに参加し、国境を越えた活動を続けている。
 スマトラ島沖地震は住民に津波の知識がなかったことが被害拡大を招いた。多数の犠牲者が出た同島北部のアチェでは、津波の襲来前にいったん波が引き、干上がった海底で飛び跳ねる魚を多くの子供たちが大喜びで捕りに行き、そのまま帰ってこなかった。

杉本さんは5カ月後、支援担当者としてジャカルタの日本大使館に赴任。教訓を将来の防災に役立てるため、アチェに「メモリアルポール」を建設する事業に取り組んだ。
ポールはコンクリート製の円柱で、その地区を襲った当時の津波と同じ高さに建てる。高さは最大9メートルに及ぶ。京都大の家村浩和名誉教授が提案したもので、海岸からの距離や到達時間も表示した。杉本さんは「後世の子供たちにも視覚的に分かりやすいはず」と話す。
「お仕着せでは地域に根付かない」と考え、デザインや設置場所は現地側に委ねた。小中学校の敷地を中心に目標の85本が07年に完成。今では大学生のボランティアが各校で毎週、防災教育を行っている。ポールを自主的に建てる地域も出るなど、防災のシンボルとして定着してきた。
東日本大震災後、三陸を訪れたインドネシア側の関係者は、対策が進んだはずの日本の惨状に驚き、破損した津波石碑を見てショックを受けた様子だったという。

「日本には知識もインフラもあり、大丈夫と研究者は錯覚していた。今度こそ学び合い、二度と犠牲者を出してはならない」と杉本さん。現在は世界中の子供たちに地震や津波のことを伝えるため、複数の言語で「防災絵本」の編集に取り組んでいる。

(2013年4月3日 花熟里)


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