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花熟里(けじゅくり)の静かな日々

脳出血の後遺症で左半身麻痺。日々目する美しい自然、ちょっと気になること、健康管理などを書いてみます。

【ミャンマーを心から支援しよう】

2011年12月01日 16時35分45秒 | ちょっと気になること
去る11月17日にインドネシアのバリ島で開かれたASEAN(東南アジア諸国連合)首脳

会議で、ミャンマーが2014年のASEAN議長国に就任することを正式に決定したと報じ

られています。 やっとミャンマーが国際社会で認められました。


米国のクリントン国務長官が12月1日にミャンマーを訪問しました。米国国務長官のミャ

ンマー訪問は、アイゼンハワー政権のダレス長官による1955年のビルマ訪問以来実に56年

振りだそうです。 米国の融和路線に歩調を合わせて、日本政府はODA供与を表明しまし

た。
 

ミャンマーはネ・ウイン大統領の社会主義政権が鎖国政策をとったことも影響し、経済が

低迷し世界最貧国になっていました。 また、アウンサン・スー・チーさんの自宅軟禁や

反体制政治家の政治犯としての拘束などを理由に、欧米諸国が「軍事独裁国家」とのレッ

テルを貼り、経済制裁を続けてきました。  しかし、2008年に新憲法による二院制の連

邦議会が創設され、2010年には新憲法に基づいて連邦議会の総選挙が実施されました。さ

らに、政治犯の釈放やスー・チー・さんの自宅軟禁を解き、政治活動を認めるなど、着々

と政治の民主化を進めています。 ミャンマー政権の自信の表れでしょうか。



そもそも、ビルマ(ミャンマー)は英国に占領されていた時、日本軍がビルマの青年(ス

ー・チーさんの父であるアウンサンやバーモウなどの「三十人の志士」)に独立運動の支

援や軍事訓練などを行うなど、ビルマ独立義勇軍を支援しました。これは、インドネシア

の場合と同じです。 立場により様々な見方はあるでしょうが、日本がビルマ独立に(同

様にインドネシア独立にも)深く寄与したことは事実でしょう。 ビルマで敗残兵となっ

た旧日本軍将兵は、手記などで一様にビルマの人々の温かさに感激し、感謝しています。

ビルマ人は日本人とウマが合う数少ない民族だと思います。それだけに、日本は、日米同

盟という重しを尊重しつつも、欧米諸国とはすべてに軌を一にせず、アジアの一員として

の立場でミャンマーの発展を支援すべきと思います。


ミャンマーのテイン・セイン大統領は「(ミャンマーには)多くの民族、文化、宗教が存

在しており、他の国と状況が異なる。民主化に最も重要なのは安定だ」と述べています。

 欧米諸国と一緒になり、民主化の加速を唱え、欧米流の民主主義を強要するのは軽率と

言わざるをえません。 イラクやアフガニスタン、北部アフリカでは独裁政治を打倒し、

一見民主化しましたが、国の安定化につながらず、必ずしも国民の幸せに繋がらない現実

を見るにつけ、ミャンマーの政権の自国の実態に即した着実な施策を称賛する気持ちが強

くなります。ミャンマーとインドネシア。「親日」のアジアの両国が欧米諸国の民主主義

に目もくれずに自前路線を進め、着実に政治の安定と経済の発展を成しつつあるのは、実

に喜ばしいことです。



【ビルマ最前線――白骨街道生死の境】(小田敦巳:光人社NF文庫)

(P276)
『しかし、そこがビルマ人。仏教国で仏心があるというのか、あるいは同じ黄色人種の親しさからか、あるいは一時にしろ英国を排除した力を尊敬したのか、大多数のビルマ人はいつまでもわれわれに親切にしてくれた。
収容所の周りに張り巡らしてある有刺鉄線の外に来て物々交換をしてくれたことが、日本兵にとっては大いに助かった。英軍から配給になったチーズやバターなどを沢山の米と替えることが出来たのは有難かった。また、われわれが英軍のトラックに乗せられて、作業のために少し遠いところに出て行ったときなど、インド兵が運転しているが、休むために集落の中に止まるとビルマ人がすぐに差し入れに来てくれるのだ。日本兵が俘虜生活で可哀相だと思い、ビルマたばこのセレーを沢山持ってきてくれ、バナナやマンゴーをくれるのだ。握り飯まで作ってくれることもある。
負け戦の最中には大きな迷惑をかけているのに、すまないと感謝した。インド兵が自動小銃で警備していても、それにかまわず不慮のわれわれに与えてくれるのだ。この温かいビルマ人の心を忘れることは出来ない。
このように現地人から恩を受けている私たちは、できることがあれば報いたい気持ちで、心よりビルマ人の幸福を願うものである。』



【孫たちとの会話】(桑 木 崇 秀 著全国戦友会連合会 刊)

『大東亜戦争の始まる一年程前に、ビルマには「ビルマ独立三十人の志士」と呼ばれる青年達が居た。リーダーはオンサン―――軍事政権に反対して現在軟禁されているスーチーさんのお父さんだ。これらの青年連は何とか祖国を独立させたいと思って、英国官憲の目を盗んでビルマを脱出し、日本の庇護を求めて来たんだ。
そこで日本では鈴木敬司大佐を長とする「南機関」というのを作って、海南島という所で徹底した軍事訓練を施した。そして日本軍がビルマに進攻した時には、彼らはビルマ独立義勇軍というのを結成して一緒にビルマに入った。ビルマ人達は歓呼を以て日本軍とビルマ独立義勇軍を迎えたわけだ。
大体ビルマも日本も佛教国で、ビルマ人も日本人も皮膚の色は似ているし、日本人に対して非常に親近感があるんだね。イギリス軍はビルマに居た時も、から離れた所に自家発電付きのキャンプを作って、ビルマ人とは無関係の生活をしていたけれども、日本軍はビルマ人のの中に民宿したりして、ビルマの人達と親戚のようにつき合ったものだ。

だからビルマ人で英語を話す者は、英人に使われていた極く一部のビルマ人に限られていたけれども、日本語は大抵のビルマ人が覚えてしまったし、日本兵の中にもビルマ語の片言を話す者が沢山に居た。今でも慰霊巡拝のためにビルマを訪ねると、"見よ東海の空明けて"とか"真白き富士の"とか、大抵の日本人が忘れてしまった昔の歌を歌ってくれて、感激したり赤面したりするよ。おじいさんは軍医だったから、英軍の爆撃で怪我をした人の手当てもしたし、逆にビルマの薬用植物を教えて貰って、兵隊さんに使って結構役に立ったこともあるよ。

最後は日本軍の撤退作戦で、ビルマ全土が戦場になり、ビルマ人にも沢山の犠牲者が出たと思うが、結局はこの戦争がキッカケとなって、ビルマは英国から独立した。ビルマ人も沢山死んだろうが、日本兵はその何十倍、何百倍と死んだわけだ。 戦後、ビルマ政府は、南機関の鈴木敬司大佐以下七名の日本人に、独立の勲功をたたえる最高勲章である「オンサン徽章」というのを贈った。もっとも鈴木大佐は少将になられて後、既に死んで居られたので、未亡人に贈られたんだがね。そのくらいビルマは、日本を怨むどころか、独立は日本のお陰だと感謝しているんだよ。 』


【スー・チーさん出馬歓迎…ミャンマー大統領 初会見】

読売新聞(2011年11月20日)
『ミャンマーのテイン・セイン大統領は19日、当地で読売新聞などのインタビューに応じ、民主化運動指導者アウン・サン・スー・チーさんが国会の補選に出馬する意向を示していることについて、「(議席を得れば)国民の意志として歓迎する」と述べ、スー・チーさんの政治復帰を受け入れる意向を示した。米国など欧米が求めている全政治犯の釈放については、「政治犯」という言葉には触れず、「恩赦は受刑者全員を対象に検討し、適切な時期に行う」と述べ、慎重に実施する構えを見せた。今月3月の就任以来、大統領が、メディアのインタビューに応じたのは国内外を通じて初めて。
オバマ大統領は、12月にクリントン国務長官をミャンマーに派遣すると表明、経済制裁を科してきた対ミャンマー政策の転換方針を示したが、ティン・セイン大統領は「オバマ大統領演説と国務長官のミャンマー訪問、(スー・チーさんが率いる)国民民主連盟(NLD)の政党再登録と補選への参加決定は、非常に良いニュースだ」と述べた。
大統領は、3月に軍事政権から移管した新政府の民主化への対応について、「私一人ではできない。真剣に取り組まなければならない」と強調、幅広い勢力の参加と協力が必要との認識を示した。その一方で、「(ミャンマーには)多くの民族、文化、宗教が存在しており、他の国と状況が異なる。民主化に最も重要なのは安定だ」と述べ、欧米や日本のような民主制度を一気に導入するのではなく、少数民族との和解などを進めながら、段階的に行う考えを示唆した。
8月にスー・チーさんと初会談した件については、「いくつかの点で異なる考えもあったが、(民主化と国の発展など)共通の目的に向けて協力し、安定と発展のためにともに力を合わせることで一致した」と述べた。日本との関係では、野田首相がミャンマーの経済発展に協力する方針を示したことを評価し、「日本からの投資が拡大することを期待する」と話した。』



【ASEAN:「14年議長国にミャンマー」正式決定】

毎日新聞(2011年年11月17日)
『東南アジア諸国連合(ASEAN)首脳会議が17日、インドネシア・バリ島で開かれ、ミャンマーが2014年のASEAN議長国に就任することを正式に決定した。民主化勢力との対話や政治囚の一部釈放など、ミャンマー政権が今年夏以降、相次いで打ち出した改革策を評価した。議長国就任が決まったことで、軍事政権による強権支配で米欧と対立してきたミャンマーは国際社会への完全復帰へ向け、一歩踏み出す。
 ミャンマーは97年にASEANに加盟。議長国はアルファベット順の持ち回り制で06年に順番が回ってきたが、人権侵害などへの反発が強く、ミャンマー自らが辞退した。今年3月の民政移管で就任したテインセイン大統領は、16年の順番を2年前倒しして14年の就任を強く求めていた。
 議長国就任に関しASEANは、民主化進展などの条件は付けなかった模様だ。議長国インドネシアのマルティ外相は会議後の記者会見で「全首脳がミャンマーの変革を評価した。議長国に向け、ミャンマーがさらにどのように変化するか注視していく」と述べた。
 一方、ミャンマー政府高官は会議場で記者団に「就任はミャンマー国民の勝利だ」と語った。
 ミャンマー問題の焦点は今後、米国や欧州連合(EU)による対ミャンマー経済制裁の緩和や解除に移る。オバマ米大統領は16日、「まだ人権侵害は続いている」と述べ、米国との関係正常化にはミャンマー政府がさらに改革を推し進める必要があるとの考えを示している。
 民主化運動指導者アウンサンスーチーさん率いる最大民主化勢力「国民民主連盟」(NLD)のニャンウィン報道官は毎日新聞に「ASEAN議長国という重要な役割を果たすことで、政府がより責任ある立場を取る原動力となればよい」と述べ、歓迎する意向を示した。』


(2011年12月1日 花熟里)
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