姉と私は、四つ違い。
小さい頃は、姉にかなうものは、
何もなかった。
bbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbb
これは 色の違いがくっきりとしたビオラ。
他の花との色の組み合わせが
思ったより難しいが、
おサルの顔みたいで かわいい。
bbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbb
姉はとっても怖がりだった。
お墓が怖い。
暗がりが怖い。
火の見やぐらの半鐘(!)の音が怖い。
パトカーのサイレン(ウ~~ウ~~だった)が怖い。
ひとつには 子供を操る手段として、
脅してしつける大人がいたこと
(家族とは限らない)。
もうひとつには 梅図かずお大先生の、
「へび女」や「くも少女」などの
こわ~~~い漫画が大好きだったこと。
それにしても、お寺の娘がお墓が怖いと、不便。
姉はいつも遠回りをして家に帰っていた。
お墓が見える道は怖いから。
4歳違うと、ケンカにならない(ハズ)。
プロレスごっこをしても、
(力道山とか、ジャイアント馬場とか?)
妹が負けたり痛みを感じたりして、
泣き声が終了のゴング代わり。
叱られるのは、いつも、おねーちゃん。
妹(私)が 小さい頃 身体が弱かったから、
母親は 妹にべったり。
「私は橋の下から 拾われてきたんだ。」
とかなり悩んでいたという。
そして、かなり意識的に 妹をいじめた、
と大学生になってから告白された。
それまで 顔を合わせればケンカしていたのが、
姉が大学に入り、都内のアパートに引っ越してから
急に仲良くなった。
姉の恋人(現・夫)と三人で
館林につつじを見に行ったのは
私がまだ高校生の時だったと思う。
姉妹がいてよかった、と本当に思うようになったのは、
大人になってから。
なかなか会えないけれど。
姉は父親似、私は母親似。
姉は私より10センチ背が低く、
私と違って丸顔で、
私と違って目が大きく、
私と違って二重もはっきりしている。
私と違って、小柄で可愛い。
昔から、私の姉と会った人は 口を揃えて
「お姉さんて、美人ね!
全然、似てないのね!!」
と言ったものだ。
姉は私と違って 小さい頃から ハキハキした子で、
積極性、二重丸。
私と違って 男勝りで、
男の子とケンカして泣かせた事も
一度や二度ではない。
私が中学に入った時、
もうそこには在籍しない姉の亡霊がまだあって、
「あの○○の妹か。」
とよく言われた。
先生にも、先輩にも。
気の強い母には、
姉のように 打てば響くようなタイプが
良かったらしい。
「オメエはぼんやりしでで、
薄らばがって言うんだが、
薄らトンカチって言うんだが、
なに言ってもひびがねえ。
おねえちゃんと、違ってなぁ。」
みたいなことをよく言われた。
姉は姉で、
過剰な期待をかけてくる親に応えるべく、
日々擦り切れそうになりながら
頑張っていたらしいのだが。
国立の大学に 入れなかった。
滑り止めの大学にしか合格しなかった。
入りたくなかった大学に入り、
教員免許は取らなかった。
大学でで‘イイヒト’を見つけて
一緒になった。
姉に言わせると、これらは全部
親に対する反乱だったそうだ。
折れた両親は 親戚の住職の紹介で
大きなお寺で結婚式を挙げさせた。
新築したばかりの広間で、
可愛い姉と
当時まだ細かった義兄は
それなりに美しいカップルだった。
義兄はサラリーマンだった。
姉は専業主婦だった。
姪が生まれ、二人目を身ごもった時、
義兄は お坊さんになって
実家の寺を継ぐ決心をした。
私がなかなか結婚しなかったせいもあり、
長女の姉は 責任を感じていたろうと思う。
実家で気の強いオンナ同士、
しょっちゅう母とぶつかりながら、
それなりに苦労をして 生きてきた。
子供は 実家に帰ってから 男の子がふたり生まれた。
父が倒れたのは そのあとだった。
父の仕事を 母と義兄と姉で分担して
寺と寺の収入とを守った。
だんだん姉は 血圧が高くなった。
父も母も高い。(私は低かったが。)
ストレスは 他人が見てストレスかどうかは
関係がない。
本人がストレスに思うかどうかだ。
姉はストレスに晒された半生をずっと生きてきた。
私が癌とわかる前に、
姉はパーキンソン病に侵されているとわかった。
「温泉にでも、行きたいわね~。」
が、姉の口癖。
2004年7月、
「行きたいわねぇ。」
「行きたいねぇ。」
そんな電話の愚痴・たわごとが、実現した。
姉と二人の熟女の旅。
初めてだった。
小さい頃は、姉にかなうものは、
何もなかった。
bbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbb
これは 色の違いがくっきりとしたビオラ。
他の花との色の組み合わせが
思ったより難しいが、
おサルの顔みたいで かわいい。
bbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbb
姉はとっても怖がりだった。
お墓が怖い。
暗がりが怖い。
火の見やぐらの半鐘(!)の音が怖い。
パトカーのサイレン(ウ~~ウ~~だった)が怖い。
ひとつには 子供を操る手段として、
脅してしつける大人がいたこと
(家族とは限らない)。
もうひとつには 梅図かずお大先生の、
「へび女」や「くも少女」などの
こわ~~~い漫画が大好きだったこと。
それにしても、お寺の娘がお墓が怖いと、不便。
姉はいつも遠回りをして家に帰っていた。
お墓が見える道は怖いから。
4歳違うと、ケンカにならない(ハズ)。
プロレスごっこをしても、
(力道山とか、ジャイアント馬場とか?)
妹が負けたり痛みを感じたりして、
泣き声が終了のゴング代わり。
叱られるのは、いつも、おねーちゃん。
妹(私)が 小さい頃 身体が弱かったから、
母親は 妹にべったり。
「私は橋の下から 拾われてきたんだ。」
とかなり悩んでいたという。
そして、かなり意識的に 妹をいじめた、
と大学生になってから告白された。
それまで 顔を合わせればケンカしていたのが、
姉が大学に入り、都内のアパートに引っ越してから
急に仲良くなった。
姉の恋人(現・夫)と三人で
館林につつじを見に行ったのは
私がまだ高校生の時だったと思う。
姉妹がいてよかった、と本当に思うようになったのは、
大人になってから。
なかなか会えないけれど。
姉は父親似、私は母親似。
姉は私より10センチ背が低く、
私と違って丸顔で、
私と違って目が大きく、
私と違って二重もはっきりしている。
私と違って、小柄で可愛い。
昔から、私の姉と会った人は 口を揃えて
「お姉さんて、美人ね!
全然、似てないのね!!」
と言ったものだ。
姉は私と違って 小さい頃から ハキハキした子で、
積極性、二重丸。
私と違って 男勝りで、
男の子とケンカして泣かせた事も
一度や二度ではない。
私が中学に入った時、
もうそこには在籍しない姉の亡霊がまだあって、
「あの○○の妹か。」
とよく言われた。
先生にも、先輩にも。
気の強い母には、
姉のように 打てば響くようなタイプが
良かったらしい。
「オメエはぼんやりしでで、
薄らばがって言うんだが、
薄らトンカチって言うんだが、
なに言ってもひびがねえ。
おねえちゃんと、違ってなぁ。」
みたいなことをよく言われた。
姉は姉で、
過剰な期待をかけてくる親に応えるべく、
日々擦り切れそうになりながら
頑張っていたらしいのだが。
国立の大学に 入れなかった。
滑り止めの大学にしか合格しなかった。
入りたくなかった大学に入り、
教員免許は取らなかった。
大学でで‘イイヒト’を見つけて
一緒になった。
姉に言わせると、これらは全部
親に対する反乱だったそうだ。
折れた両親は 親戚の住職の紹介で
大きなお寺で結婚式を挙げさせた。
新築したばかりの広間で、
可愛い姉と
当時まだ細かった義兄は
それなりに美しいカップルだった。
義兄はサラリーマンだった。
姉は専業主婦だった。
姪が生まれ、二人目を身ごもった時、
義兄は お坊さんになって
実家の寺を継ぐ決心をした。
私がなかなか結婚しなかったせいもあり、
長女の姉は 責任を感じていたろうと思う。
実家で気の強いオンナ同士、
しょっちゅう母とぶつかりながら、
それなりに苦労をして 生きてきた。
子供は 実家に帰ってから 男の子がふたり生まれた。
父が倒れたのは そのあとだった。
父の仕事を 母と義兄と姉で分担して
寺と寺の収入とを守った。
だんだん姉は 血圧が高くなった。
父も母も高い。(私は低かったが。)
ストレスは 他人が見てストレスかどうかは
関係がない。
本人がストレスに思うかどうかだ。
姉はストレスに晒された半生をずっと生きてきた。
私が癌とわかる前に、
姉はパーキンソン病に侵されているとわかった。
「温泉にでも、行きたいわね~。」
が、姉の口癖。
2004年7月、
「行きたいわねぇ。」
「行きたいねぇ。」
そんな電話の愚痴・たわごとが、実現した。
姉と二人の熟女の旅。
初めてだった。
ジョルジュさんと私は、立場が反対ですね。私は4歳上の姉、子どもの頃は4歳の差は遊び相手にはならなかった。それにのんびり屋の妹に、イラレの私にはイライラさせられた。5年生の時1年生になったのだが、学校に一緒に連れて行くのだが、意地悪して捨てていったこともある(笑)父が役員会の時「妹さんは姉ちゃんと違いますね。もう少しやる気を出してくれたらいいですが」と言われたとか、別に勉強が出来るとかそう言うわけではないが、要領の良い姉だった。
でも大人になると良い友達という関係になったかもしれない。近くにいるし時々来る。前はしょっちゅう来てご飯を食べて帰っていた。私は此処十年以上家に上がったことはない、行くのが面倒。妹は此処が実家ぐらいに思っている。
両親も妹には甘く、お菓子を分けるときも半端は妹にと何時もあげていた(意地汚く覚えていて今も言ってやる)大体小さい物より大きな物が沢山食べるに決まっているのに。。
お姉ちゃんは養子さんを貰われたのですね。養子娘には人に言えない苦労があると聞きます。
嫁姑もそれぞれでしょうけど。
母も用事は私に、妹に甘いのは今も昔も変わらない。
妹に『お母さんは姉ちゃんばっかりに用事を言うけどあんたもちょっとは帰り』というと『お母さんは姉ちゃんがえいがよね』と涼しい顔をしている。
ジョルジュさんの記事を見てつい長々失礼しました。
おとこ兄弟は違うなあ~~の感想。
私は弟と二人兄弟ですが、子供の頃も今もそっけないもんです。
お互い、まともな話をするのが照れくさいんだね。
子供の頃将棋をしてて、弟は絶対待ったをしてくれませんでした。
怒って将棋盤をひっくり返すのは私でした。
もう一つ、私は台風の明くる朝に庭の松ノ木に引っかかっていた。このちゃんちゃんこに包まれてたんだと脅かされてた。
私も棄てられた(笑)こと、あります!
あと、赤いもの、ピンクのものは妹に、
そうでないいろ(黄色とか水色とか)を姉に
母が与えました。
そして私は、姉のところが実家そのものです。
私もウチの子供二人、見た目も性格も凄く違うので、
よく比べます。
結論は、‘違う’ということ。
だからどっちがどう、ということではなく。
母は‘もちっと おねえちゃんみたく、がんばっせ’
と言ってましたが、私は頑張るのが苦手で、
いつも‘普通’にしてました。
今も同じです。
おかしー。
長男arfa こと、イラレおじさん?
そうそう、わたし、将棋もオセロも 姉より強いんですよ。(エヘン)
私は妹と2歳違いです。我が家はケンカすると妹の方が母に叱られていました。
よその家と違ってます。
妹は体が弱いですが、気が強くて。
でも、年とともに良き友達という感じになっています。
妹に言わせると、ほとんどの家で一番最初の子は期待(気合い)が入っているので、顔が良かったり、頭が良かったりで、良いとこ取りして生まれていると。
どうでしょうか。
二番目のジョルジュさんとしては
関係がない。
本人がストレスに思うかどうかだ。
姉はストレスに晒された半生をずっと生きてきた。
私が癌とわかる前に、
姉はパーキンソン病に侵されているとわかった。
「温泉にでも、行きたいわね~。」
が、姉の口癖。
2004年7月、
「行きたいわねぇ。」
「行きたいねぇ。」
そんな電話の愚痴・たわごとが、実現した。
姉と二人の熟女の旅。
初めてだった、、、、
私の大切な人も癌です
ストレスからか いろいろと 病気がち、
先も 読めない人生だからこそ、日々を大切にすごしたい。
子供が生まれて、自分の人生を思い返すと 私も これに似た 姉妹だった。
頑張りすぎて 疲れたこともあった。
なつかしい。
少し 涙がでる プログでした。
下の子のころには 親の肩の力もほどよく抜けます。
でも子供の‘でき・ふでき’とは、関係ないし。
ただ傍にいたずら盛りがいないで育つ分、
上の子は純粋培養できるんですよね。
下の子は 生まれた時から上の子に対する親の反応を
見ながら育つから、
要領が良いというか、こずるい。
頭や顔は どうでしょうか。
ウチの子は それぞれ 不出来なりに可愛いです。
どーしてこんなにちがうんだろう!と思いながら
育ててきましたが。
姉妹はいい友達。
ウチの長女と長男も、いい友達でいてくれたら嬉しいです。
私は真逆。でも、ごろごろしてても疲れます。
そういえば、生真面目な子は 上の子に多いでしょうか。
↑のモモンガさんも、生真面目そう。
私はストレスには強い人間のつもりでした。
今もそう思っています。
ストレス、ないわけじゃないし、悩んだりもしますが、
ストレスで癌になったのではない、と思います。
そして、ストレスなんかで病気になってたまるか、
とも思っています。
ま、私みたいな チャランポラン、B型、ノーテンキ
だからこそ、そんなことを言っていられる訳ですが。
世の中には 傍から見ていて、
どうしてあんなに一生懸命やっちゃうんだろう、
どうしてあんなことで深刻に悩むんだろう、
どうしてあんなに傷つくんだろう、
どうしてそんなに怒るのよ、
そんな人達がいます。
姉もそのひとり。
(あと、亭主もそうなんです。)
でもどんなに心配してても、
その人に成り代わる事はできないし、
忠告しても慰めても そんな人には届かないんです。
(だから、放っておきます。)
できたら 適度な運動とか 冷え対策とか 添加物の少ない食生活とか
そっちのほうを最優先でやって欲しいのですがね。
私は今でこそ気まま暮らしをしていますが、
癌ができた、という15、6年前は
・・・・・・癌になっても仕方のない生活でした。
悔やみきれないけれど、それはそれで仕方がなかった、
精一杯生きていたので。
だからこそ、小さなことを大切に生きていたいです。
今は。
長くなってしまいました。
またどうぞ おいでください。