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松山市制130年記念・道後温之町物語・スタンプラリー開催中!!

2019年12月20日 | 伊予松山歴史散策

松山市は、令和元年12月15日、市制130年を迎えた。

明治22年12月15日(1889)明治政府が施行した「市町村制施行」により、松山市は愛媛県最初の市として誕生し、今年130年を迎え、

市制施行当時の町数は、100町で、戸数7,519戸、人口は32,916人であった。
 令和元年11月1現在、人口:509,163人、四国で一番の都市として発展し、中四国でも広島市・岡山市についで三番目の都市である。

松山市では、市制130年記念行事が開催されていて、その中でも人気の行事が「スタンプラリーをしながら、道後温泉の街を観光し7ヵ所に設置してあるスタンプを定められた台紙に重ねて押すとカラー絵が完成する。」

完成したスタンプ台紙を道後温泉観光会館(道後温泉駅舎前・カラクリ時計がある)に持参すると係員が確認し、道後温泉本館の図柄が入った限定オリジナル特製のタオルが貰える。
このタオルが素晴らしく、大変な人気となっている。
先日、観光にお越しになった埼玉県川越市の男性は、特製タオルを手にして「額に入れて部屋に掲示し大切に保存します。」いい記念になりましたと大変な喜びであった。

スタンプラリーには期限があり、令和2年3月1日迄開催されている。

伊佐庭 如矢は

道後の医家、成川國雄の子として一家を創立し名は如矢、通称は斧右衛門、碧梧桐とも号した。初め伊予松山藩の老職菅良弼の家令となり、明治維新後は愛媛県庁、内務省の官僚、山田香川郡長、高松中学校長、琴平神社禰宣などを務め、晩年は、道後町長に挙げられ道後温泉の改造などを行った。
現在の道後温泉本館は伊佐庭 如矢が建築したものである。
伊佐庭 如矢には土佐の血が流れている。

特筆事項は、「松山城天守存続に尽力した伊佐庭如矢」である。
明治6年2月政府は、廃城令を出して旧権力の象徴である城郭を取り壊すと共に、売却による維持経費の削減を図ろうとした。
伊予松山藩は、親藩がゆえに幕末朝敵とされ松山城の売却取り壊しは免れぬ状態であった。

存続を願い伊佐庭如矢は、内務卿大久保利通に城郭を公園化する事で、庶民の観覧のためにと上申した。
維持費は地元で負担する事を条件で、内務卿木戸孝允(桂小五郎)は公園化を条件で認め存続を許す事になった。その許可証が愛媛県立図書館に保管されている。

政府も各地の城の取り扱いに困っていたので、伊佐庭如矢の公園化計画は一つのヒントになり、その後各地の城は公園化が推進され存続され19の天守を存続を許可した。現在12天守が存続しているが、その基は伊佐庭如矢の働きであった。

伊佐庭如矢は、道後温泉建設に努力して完成させた功績は良く知られているが、松山城存続に努力した事はあまり知られてない。

道後湯之町物語スタンプラリーの台紙。
スタンプラリー台紙は、道後温泉観光会館と7ヵ所に設置してある。

7ヵ所に設置してあるスタンプを定められた台紙に重ねて押すと画像の様にカラー絵が完成する。

道後温泉本館の図柄が入った限定オリジナル特製のタオル。

完成したスタンプ台紙を道後温泉観光会館(道後温泉駅舎前にある)に持参すると係員が確認し、道後温泉本館の図柄が入った限定オリジナル特製のタオルが貰える。
限定オリジナル特製のタオルには、下記の文字が書かれている。

中央に:

宮大工・坂本又八郎が製図した本館正面、立面図。

左側に:

道後温泉三層楼図・道後温泉本館・シンボルの湯玉

右側に:

温泉浴室改築 明治廿七年 四月 

委員長 伊佐庭如矢 棟梁 坂本又八郎、と揮毫されている。

※ 限定オリジナル特製タオルは、額に入れるとよく映える。

道後湯之町物語・スタンプラリーの案内資料。

道後湯之町物語・スタンプラリーの案内資料。

スタンプ設置場所には道後温泉に関する貴重な資料が展示してある。

道後温泉本館:宮大工・坂本又八郎が製図した本館正面、立面図。

宮大工・坂本家は代々松山藩の松山城普請を務めた棟梁の家柄に生まれ、現在の松山城天守は坂本又八郎が築城した。(安政元年2月8日築である)

入浴の入口は左から「一の湯」「二の湯」「三の湯」と三カ所の入り口があった。

区分は:

一の湯は、元藩士・神社寺院関係者。

二の湯は、その他の男性。

三の湯は、女性と区分されていた。

明治28年松山中学の英語教師として赴任した夏目金之助(漱石)は東京と比べて何もいいものはないが、道後温泉は素晴らしいと大変なお気に入りで軽便鉄道(坊ちゃん列車)にのり入浴に通った。湯上りの帰りにさらしな団子(坊ちゃん団子)を食べて帰るのが楽しみであった。

道後温泉本館建設には莫大な費用が必要であった。
明治25年7月21日、臨時町議会が開かれ全面改築が議決された。
総工費は、13万5千円であった。
住民からも出資を願い、出資者には永代終身優待券が発行された。

道後温泉駅前にある右側の建物が道後温泉観光会館で、完成したスタンプ台紙を提出すると、係員が確認し特製タオルが頂ける。

道後温泉観光会館正面。

冠山から見た道後温泉本館、南面。

Kホテル屋上西方からみた道後温泉本館で、以前NHKの固定カメラがあった場所から撮影。

明治27年4月10日道後温泉本館竣工した当時の正面。
平成6年12月27日「道後温泉本館」の名称で国の重要文化財に指定された。
温泉の建物(湯屋)が国の重要文化財に指定されたのは全国で初めてである。

夜の道後温泉本館。

本館最上部に振鷺閣が設置してありその上にシンボルである白鷺が置かれている。

振鷺閣には、太鼓(刻太鼓)があり、朝6時の開館時、正午、午後6時に太鼓が鳴らされる。

平成8年環境庁の「残したい日本の音風景100選」に指定された。

なお太鼓は、朝6時に6回、正午に12回、午後6時に6回鳴らされる。

明治27年4月10日に竣工されてから、令和元年で125年の歳月が経ち、松山市は保存・補強工事を開始した。
完成予定は、令和6年とされ現在修理の真っ最中である。

保存・補強工事のため工事用の大屋根が付けられた。

道後温泉本館は、大正13年(1924)玄関棟・南棟が増築され玄関が変更となった。大正13年玄関棟が増築され、そこに道後温泉の扁額が掲げられた。

「道後温泉」と書かれた扁額は、新築当時からあったものではなく、昭和25年に道後温泉を舞台とした松竹映画「てんやわんや」が撮影された時に、道後温泉と一目で分かるように撮影スタッフが掲げたベニヤ板製のものがはじまりで現在に至っている。

揮毫は、松山出身の画家・村田英鳳による。

映画の主演は、佐野周二と淡島千景であった。

道後温泉シンボル、扁額と湯玉の瓦。

昭和25年に道後温泉を舞台とした松竹映画「てんやわんや」のロケ撮影があった時に、道後温泉と一目で分かるように撮影スタッフが掲げたベニヤ板製のものがはじまりで現在に至っており、初代の扁額は傷み、現在の扁額は二代目である。

揮毫は、松山出身の画家・村田英鳳による。

保存・補強工事のため工事用の大屋根が付けられた。

保存・補強工事のため工事用の大屋根が付けられた。

保存・補強工事のため工事用の大屋根が付けられた。

耐震補強工事が始まり平成31年1月15日から道後温泉本館入浴の入り口が変更になった。
明治27年改築竣工時代の入浴入口は左から「一の湯」「二の湯」「三の湯」と三カ所の入り口があった。

現在は、工事中のため「二の湯」入口から変更になった。

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