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徳島市から・山の歴史好きの方が天山に来られた

2019年12月10日 | 伊予松山歴史散策

伊予松山城本丸から見た伊予4山の山々。

上空から見た伊予4山の山々、「天山・星岡山・東山・土亀山。」

その中でも記紀に現れる歴史ある山が、天山で奈良県橿原市にある、天香具山と姉妹の山である。

天山山頂には、天山神社があり、次の画像の様に115段の石段がある。

私は、天気のいい日は足腰の筋肉維持のため、神社参拝を兼ねて115段の石段を登り下りしている。

先日、何時もの通り天山神社115段の石段を登っていると30代の男性と遭遇した。

この男性は、徳島市から来られた歴史の好きな吾人で、奈良県橿原市南浦町にある大和三山の一つ「天香具山」と深い関わりのある山が松山市天山町にある「天山」であることを知り伺いましたと言われた。・・私は歴史が好きなものですからと付け加えられた。

私の健康維持・天山神社参拝と115段の石段。

 平成30年7月5日から8日にかけて梅雨前線が西日本付近に停滞し、西日本特に岡山県南部(倉敷市)愛媛県中予、南予にかけて大雨が連日続き、記録的な大雨となり西日本に大きな水害が発生した「気象庁は西日本豪雨と命名した」。
松山市で一番大きな校区石井地区の天山町住民一部に避難勧告が発令された。
場所は、天山神社参道口周辺のがけ崩れ発生のおそれありで住民にだされた。

松山市は、平成30年12月から平成31年2月に掛けて崖の補強工事を施工した。
画像は、天山神社参道石段で115段ある。石段両サイドをコンクリート工事で護岸補強工事をした。私は、護岸補強工事の完成を機に健康維持と参拝を兼ねて天山神社、115段の石段を天気のいいに日毎日登り参拝をしている。

最初は、100段目になると息苦しくなっていたが、今はそれもなくなり体力が付いたようである。
115段の石段は、足腰を鍛えるには、今の私の体力維持にはベストな段数で、勾配もかなりある。・・画像参照下さい。

天山は標高50,4mあり山頂には天山神社がある。

 山の歴史好きの徳島市の30代の男性に私の知る限りの天山の案内をした後に、天山の南東方向にある、星岡古戦場の事を紹介すると是非行ってみたいと言われ案内した。・・天山から徒歩約25分の所にある。

先ずは、天山を紹介した。

そして、天山は慶長6年、加藤嘉明が、伊予松山城築城に際し、徳川家康に1番候補地として築城許可を願いをした山でもある。
 2番候補地が現在の松山城(勝山)で、3番候補地が御幸寺山であった事も紹介すると、天山が一層興味深い山になった様子であった。

天山神社拝殿前に掲示してある、社略縁起。

奈良県橿原市南浦町にある大和三山の一つ「天香具山」と深い関わりのある「天山」、愛媛県松山市天山町との交流が、昭和52年4月1日から始まり姉妹町交流20周年を記念して、平成9年7月、建立された石碑が天山山頂にある。

交流20周年を記念碑裏面。

裏面には、昭和52年4月交流開始

     古代より由緒と歴史をここに刻む

     平成9年7月吉日

     と書かれている。

愛媛県松山市天山二丁目にある「伊予の天山」全景。

奈良県橿原市南浦町にある「天香具山」の全景で山の形も天山と似ている。

画像は、日本100名城めぐりの途中撮影した。

昭和52年6月1日、「山の伝説が縁・珍しい姉妹町」の見出しで書かれた読売新聞、奈良版。

平成27年11月29日、「天から山風土記のご縁」の見出しで21年振り読売新聞に記事が出た。

伊予松山城築城一番候補地の天山から見た松山城。

天山山頂から望遠で撮った伊予松山城天守群。
江戸時代に創建された一番新しい天守で、現存12天守の一つ。

伊予松山城天守は、松山城築城一番候補地の天山から見る松山城が一番綺麗に見える。

松山市教育委員会が設置している「天山」の説明版。

これからは星岡古戦場で徳島市から来られた山の歴史好きの吾人を案内した。

星岡古戦場跡とは、

先ず、場所は松山市星岡一丁目1番8号「雲門寺」の周辺一帯の山(通称、五ヶ森。)

鎌倉時代の末期幕府の力が弱まってきたころ、後醍醐天皇はもう一度、天皇が政治を行なう為に実権を取りもどそうと討幕を計画し王政復古の戦いを起こした。

伊予国でも幕府方と宮方に分かれて激しい戦いが行なわれ、伊予守護である河野一族の土居(どい)通増(みちます)と得能(とくのう)通綱(みちつな)は、伊予の宮方の旗頭として幕府方と壮絶な戦いを行った。 
瀬戸内の宮方の取り締まりには、長府(山口県下関市)に鎌倉幕府、長門探題が置かれ長官職に、北条(ほうじょう)時直(ときなお)がいた。

元弘3年(1333)2月2日幕府方の北条時直は、現在の愛媛県今治市近見付近に上陸し伊予の幕府方の宇都宮氏とともに土居氏・得能氏と戦い共に敗退し1ヶ月後、北条時直は再び幕府軍を立て直して宮方の中心である石井(現在の愛媛県松山市星岡町)に攻め込んだ。 

 北条時直は、七千余の軍船を率いて第一軍を松山市今出に、第二軍を松山市三津浜に上陸し伊予の反幕府軍制圧に星岡城を占領し拠点とした。

 元弘3年(1333)3月12日壮烈な合戦が星岡山を中心に松山市石井・久米・小野地区といいた広範で戦いがあり、伊予の宮方軍が勝利した。(東温市下林の築島神社境内に古戦の塚がある。)

 此れが全国に波及して同年暮れに鎌倉幕府は滅亡した。
畿内では楠木正成、新田義貞が宮方軍として奮戦し、楠木正成は、湊川の戦で戦死、新田義貞は、越前金ヶ崎城の戦いで戦死、同行していた伊予の土居通増・得能通綱も新田義貞と共に戦死した。

松山市星岡町にある「星岡山頂」標高75,4mに土居氏・得能氏の功績をたたえて、明治17年5月、陸軍大学校一期生の仙波太郎(後の陸軍中将で、陸軍の三太郎と言われた。宇都宮太郎・桂太郎・仙波太郎である。)が中心となり「星岡表忠之碑」が建立された。

壮絶な戦いの中心地が星岡山で、ここを星岡古戦場跡と呼んでいる。

また愛媛県西条市丹原町得能にある常石山山頂には、秋山好古・陸軍大学校一期生(後の陸軍大将・北豫中学校長)が揮毫した得能通綱の忠魂碑がある。

 

松山市教育委員会が設置している「星岡古戦場」の説明版。

松山市星岡町にある「星岡山頂」標高75,4mに土居氏・得能氏の功績をたたえて、明治17年5月、陸軍大学校一期生の仙波太郎(後の陸軍中将で、陸軍の三太郎と言われた。宇都宮太郎・桂太郎・仙波太郎である。)が中心となり「星岡表忠之碑」が建立された。

令和時代か686年前の出来事であった。
 

昭和3年、昭和天皇即位の御大典記念として、愛媛県西条市丹原町常石山山頂に得能通綱の忠魂碑が建立された。

 得能通綱は、延元2年(1337)3月6日、越前の金ヵ崎城で足利尊氏軍との戦いで戦死碑石裏面に得能通綱の経緯が記載されている・・

揮毫は、秋山好古で、好古は、忠魂碑の除幕式に参列している。・・当時陸軍大将を退役し北豫中学校長(現、愛媛県立松山北高校)であった。

 以上の様なお話をしながら星岡古戦場跡をご案内した。

徳島市の歴史好きの吾人は「いい所を案内して頂き有難うございました。」・・と言葉を残して帰られここで別れた。

 参考までに

土居氏・得能氏の功績

土居通増・得能通網は、新田義貞の軍中にあって尊氏の大軍と戦ったが防戦出来ず、ともに戦った楠木正成は戦死した。・・これが湊川の大合戦である。

義貞は北国に赴く途中深雪寒風のなか尊氏の大軍と遭遇、後陣にいた土居通増は戦死、義貞は難を逃れ延元2年(1337)3月、金ヵ崎城で足利尊氏の大軍の猛攻をうけ得能通網も壮烈な戦死を遂げた。

河野通盛は、足利尊氏と行動をともにしていたが同年7月以降、伊予に在国し河野氏の発展に尽力した。

以後室町幕府が開かれるのである。

画像は、この戦いで戦死した土居通増・得能通網が後醍醐天皇に尽くした勤王の石碑であり(松山市土居町:土居遊園地)、秋山好古揮毫石碑写真集、P22記載の忠魂碑は、得能通綱の戦歴と御霊を祀りしの碑である。

 

土居・得能 勤王之碑。

建立場所は、松山市土居町1110番地、土居遊園地に建立されている。

 

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