EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

第45回愛媛アマチュア無線局の集い開催される

2017年09月11日 | 伊予松山歴史散策

日本アマチュア無線連盟愛媛県支部主催、第45回愛媛ハムの集いが、松山市河野別府「北条文化の森・ふるさと館」で、平成27年9月10日(日)午前10時30分から、開催された。

はじめに日本アマチュア無線連盟愛媛県支部JH5SAL、薦田支部長の開会の挨拶で大会は始まり、薦田支部長は、今年9月30日からから開催される国民体育大会愛媛大会、県内では、新居浜市政80周年記念、JARL登録クラブ記念局の運用多忙な時期となりますがよろしくお願いします。

毎年申し上げておりますが、何時発生してもおかしくない「南海地震」発生時には、携帯電話等々の使用が困難となる、その時にはアマチュア無線局の活動が不可欠で、日頃の無線通信技術を駆使して災害時には支援活動を期待いたしますと述べた。

続いて来賓挨拶では、元参議院議員、国会アマチュア無線倶楽部副会長、現、愛媛県中予地区アマチュア無線連合会会長、JA5FHB・関谷勝嗣氏が挨拶、続いて、日本アマチュア無線連盟会長、JG1KTC・高尾義則氏が挨拶、続いて、日本アマチュア無線連盟四国地方本部長、JA5SUD、森田耕司氏が挨拶し大会は進行した。

大会は、平成29年愛媛マラソンコンテストの入賞者表彰式。

午後からは特別講演「JARLの現状と将来について」、無線機製作会社・アイコム社から「最近のアマチュア無線の動向とアイコム新製品IC-7610の紹介」、四国総合通信局から、「電子申請方法と課題解決」と題して講話があった。

最後は、無線機等々が当たる、お楽しみ抽選会で大会は午後4時に終了した。

 来年は、愛媛県南予地区で開催される。

大会プログラムです。

特別記念局「8J5EK」が開局運用されています。

8J5EK特別局は、第72回国民体育大会&全国障害者スポーツ大会の開催を祝して7月1日~10月30日まで開局される特別記念局です。

運用は既に始まっていますので是非交信してください。QSLは画像の通りです。

第45回愛媛ハムの集い開会式で挨拶をする、日本アマチュア無線連盟愛媛県支部長、JH5SAL 薦田支部長。

第45回愛媛ハムの集い開会式で挨拶をする元、参議院議員、国会アマチュア無線倶楽部副会長、現、愛媛県中予地区アマチュア無線連合会会長・関谷勝嗣氏(JA5FHB)が挨拶。

当時国会アマチュア無線倶楽部の会長は、小渕総理大臣でコールサインは、JI1KITであった。

第45回愛媛ハムの集い開会式で挨拶をする日本アマチュア連盟会長、JG1KTC・高尾義則氏。

歴代会長では一番若い会長、行動力があり、多くのJARL組織改革活動をされている。

愛媛ハムの集いで挨拶をする、 日本アマチュア無線連盟四国本部長、JH5SUD、森田耕司氏。

第45回愛媛ハムの集いに出席した来賓各位。

今年の愛媛ハムの集いには118名が参加した。

第45回えひめハムの集い集合記念写真撮影で、そのあと午後1時30分まで昼食休憩時間とした。

午後1時30分から特別記念講演が始まり、先ず初めに、JARL会長、JG1KTC・高尾義則さんが「JARLの現状と将来について」と題して講演された。

高尾会長さんは、初めに自己紹介をされました。

JARL歴代会長の内一番お若く、勤務も東邦大学医学部で活動されていまして、アマチュア無線では、移動運用を楽しまれています。運用バンドは、HFからマイクロ波帯まで、時には、友人のセスナ機でエアーモービルを楽しんでいるそうです。

講演の中特に強調されたのは、東日本大震災から、今年で6年半が経過しました。最近では、熊本地震が発生し甚大な被害が出ました。また日本各地では地震が発生しています。

東日本大震災時に、アマチュア無線の免許を持っていない、宮城県薬剤師会の副会長さんからアマチュア無線局の非常災害時の運用は非常に有効な通信手段であったと報告があったそうです。

これから起こる東南海地震に備えてハムの皆さんの活動が必ず必要になります。そのためにも日頃の機器の整備、通信実験等々で備え活動されることを切に願っております。と話された。

参考までに:世界のアマチュア無線局は、現在、米国の72、7000局がトップで、日本は、436、389局で第二番目です。平成6年時は、日本のハムは、1、364,316局で世界のダントツでしたが、その後携帯電話等々の普及でハム人口が減少した。米国は毎年ハム人口が増えている。何故増えているのでしょう。・・アメリカは、「憧れの上級ハムになろう」だそうです。

全国でも珍しい女性だけのアマチュア無線クラブで、来年創設40周年を迎える。

クラブ名は、愛媛YLハムクラブ、コールサインは、JA5YXBです。

愛媛県東温市役所と業務提携をしている、東温市災害ボランティア・アマチュア無線の会「JH5ZZJ」で災害発生時には、東温市役所と連絡を密にして活動をしています。

アイコム社の無線機器の展示で、無線機も随分と様変わりしました。

私のアマチュア無線のアンテナ群でしたが、3年前にANTは撤去しました。

現在アンテナタワーは残っています。

私の無線機器でしたが、アンテナを撤去した時に縮小しました。

現在は、144MHz~10GHz帯までとしました。

 

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EEK紀行・画像で回顧 現存12天守 3 丸岡城天守

2017年09月09日 | 伊予松山歴史散策

平成20年4月13日に訪れ、天候は曇りでしたが、桜は満開で丸岡城桜まつりが開催されてお花見客で賑わっていました。

天守は、現存12天守の内、最古の建築様式と言われ、昭和9年に国宝に指定されるが、昭和23年福井地震のため倒壊し、昭和30年に倒壊した天守の木材を用い、元通り修復復元され現在は国指定の重要文化財となっている。

天守は6mの天守台の上に築城、東方向に設けられた急勾配な石段を登り天守に入る変わった造りだ。

案内板には、柴田勝豊が築城するとき、天守の石垣が何度積んでも崩れるので、お静と言う女性を人柱にした話、「雲の井」から大蛇が現れ、城を霞みで隠し何度も危機を救ったと言う古城ならではの話が記載されていた。

「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」・・日本一短い手紙の元となった手紙文で有名な地でもある。

天守の形態は、

独立式初期望楼型、2層3階

築城主、柴田勝豊

築城年、天正4年(1576)、信長が築城した安土城天主と同年である。

昭和9年1月30日、国宝保存法により、国宝に指定される。

昭和25年5月30日、文化財保護法制定により、重要文化財に指定替えされる。

平成18年4月6日、日本100名城、第36番に選定され、スタンプは、一筆啓上茶屋に設置してある。

丸岡城は、ことあるごとに霞がかかって城を守ったという伝説から別名「霞ケ城」とも呼ばれている。頂いた資料引用。

天守に上がるには急な石段、34段位あったか?

 

天守入口から見下ろした石段、上がる時よりも降りるときに気を付けないと危ない!!

丸岡城の天守は、現存する内で最古の建築様式ということになっている。かつては金山城から移築されたという伝承のある犬山城天守が最古といわれていたが、天守としての移築説には疑問も持たれるようになり、天正4年(1576)に築城記録のある丸岡城が実際には最も古い天守ということに落ち着いたというわけである。犬山城よりも古いのなら、国宝に指定されていてもよさそうなものであるが、この天守は重要文化財となっている。というのも、昭和23年の福井大地震で倒壊、原形を留めたのは三階の屋根の部分のみであったと福井新聞の記事にある。

倒壊した材を持って天守を復元したという経緯があるから国宝としての価値は損なわれてしまったと判断されたらしい。

天守の鯱で、築城当時は木彫りの銅板張であったが昭和15年修復工事の時、石製の鯱に改めたとある。大東亜戦争のため銅板の入手が困難であったためだそうです。

現在の鯱は、昭和27年修復の時、元の木彫りの銅板張に復元したと説明版にある。

昭和15年修復工事の時、石製の鯱に改めた物が天守入り口階段右手に展示されている。

天守鯱の説明版。

丸岡城天守内部の2階から3階へ上がる階段は、急勾配なのでロープが設置されている。

ロープをつかまりながら上り降りをしないと危険、現存する天守の中で一番勾配のきつい天守の階段であった。

天守2階から3階に上がる階段、垂直に近い急勾配の階段で、現存12天守で一番の急勾配、角度は67度ある。

上から見た階段、危険防止のためロープが設置してある。

天守最上階。

天守最上階に丸岡城の略年一覧表が掲示してあった。

天守最上階外側には、高欄(廻り縁)が造られている。

瓦は全国的に見ても珍しい石瓦で葺かれていている。(笏谷石・しゃくだにいし)で造られている。

これは、弘前城同様、冬季凍結を防ぐためだそうです。

伺ったのは、平成20年4月13日で、丸岡城さくら祭りが開催されており大勢の花見客が訪れていた。

天守には石落しと、鉄砲狭間の設備がしてある。長篠の戦以降火縄銃が主流となり、天守や櫓、続塀には鉄砲狭間が整備された。天守台の石垣は、荒々しい野面積の石垣であった。

この石碑は、徳川家康の家臣・本多重次が、三河の長篠の戦に従軍していた時、妻に宛てた手紙に関する石碑で、文中の「お仙」というのは、成重の幼名・仙千代のことであると記載されている。

天守台、石垣の角の所に碑があり、本田作左衛門重次が陣中から送った書簡文が碑面にある。簡明達意の文章として有名である。
「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」・・日本一短い手紙の元となった手紙文。

一筆啓上 日本一短い手紙の館は、「一筆啓上賞」の歴史と入賞作品を紹介する、手紙文化の発信拠点として活動されている。

  

丸岡城築城400年記念祭の石碑が建立されていた。

昭和25年5月30日制定された文化財保護法、全国の国宝・重要文化財指定の地には全て画像の表示板が開示されている。最上部の盃を三段重ねたマークが文化財保護法のシンボルマークです。

丸岡城には古い井戸がある。

井戸の由来を書いた説明版。

平成20年4月13日伺った時、丸岡城桜まつりが開催されており、画像のゲートが設置されていた。

残念ながら天候は曇天で、快晴であれば青空をバックに日本最古の建築様式である天守や、桜を撮る事ができたのですが残念でした。

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EEK紀行・画像で回顧 現存12天守 2 国宝松本城天守

2017年09月06日 | 伊予松山歴史散策

現存12天守紀行回顧、弘前城天守に次いで、国宝松本城天守です。

松本城には、平成19年11月22日・23日に伺いました。

松本市の観光協会に車で伊予松山市から伺いますが、降雪は大丈夫でしょうか、夏タイヤで行きますがと、問い合わすとこの時期雪は降らないから、夏タイヤで大丈夫との由、翌24日朝起きてみると一面銀世界、雪が積もっていた。松本市は海抜590mある。

長野自動車道、松本ICから中央道小牧方向は除雪してあるから夏タイヤで大丈夫と連絡を受けホテルを出発したが、一般道の走行は積雪で苦労した。高速道は除雪してあり路面には雪は無く一安心、一路姫路城向けて出発した。

長野方面は、滑り止め「スノータイヤ&チエン装着でないと走行禁止でした」時は、平成19年11月24日でした。

さて、松本城天守は、国宝5城の一つで、5層の天守として現存するものは姫路城と松本城のみである。しかし、天守以外の建造物は廃城令により取り壊され現存してない。

天守の形式は、連結複合式で、層塔型5層6階である。「創建当時は望楼型であったが、層塔型にしたのは、寒さと強風を凌ぐためだといわれている。」この地は、海抜590mもある。

城郭は平城で、この時代として平城は珍しい。

天守の構成は、「大天守・乾小天守・渡櫓・辰巳櫓・月見櫓」からなっている。

それでは画像で回顧してみます。

松本城入口には立派な「国宝松本城天守」と揮毫された石碑が建立されていた。

本丸から見た天守で、「右から:乾小天守・渡櫓・大天守・辰巳櫓・月見櫓」。

第3代将軍徳川家光の時代からは、改築・増築等々の許可は降りなかったが、松本城の辰巳櫓・月見櫓は、家光が松本藩に視察に来るに至り、お持て成しの場所として使う事を理由に特別の許可を得て増築されたといわれている。

画像は、北西側から見た天守で、赤い橋(埋橋)をいれた写真を皆さんよく撮られるのでご多分に漏れず撮った。

この方角から撮ると渡櫓が良く見える。

初期の天守は、望楼型であったが、寛永13年(1636)現在の層塔型となり辰巳櫓と月見櫓が増築され複合連結式天守となった。

画像は本丸から見た天守群。

天守群は、昭和4年(1929)に制定された「国宝保存法」に基づき、昭和11年4月20日国宝に指定され、昭和25年5月30日に制定された「文化財保護法」により、昭和27年3月29日再度国宝に指定された」。

現存12天守の国宝指定は、松本城天守・犬山城天守・彦根城天守・姫路城天守・松江城天守の5城である。

南面から見た松本城天守、月見櫓がよく見える。青空を背景に天守がよく映える。

大天守と乾小天守・渡櫓の結合部。

渡櫓から天守に入る、画像は天守最上階。

天守最上階から見た方向は西方向で、画像斜め上に開智学校がある。

開智学校で、開校は、明治6年5月6日で、明治4年廃藩置県により旧松本藩は松本県となり同年11月信濃国南半分と飛騨国を合わせた筑摩県が出来た。

明治5年欧米の学校制度を模範とした学制が公布され「武士も町人も同じ教育を受ける」事を奨励した。

そのため、全国に学校が設立されることになり、近代教育の第一歩が踏み出された。

筑摩県は国の政策よりも早くその重要性を唱え筑摩学を設立した。

筑摩県学は「第二大学区筑摩県管下第一中学区第一番小学 開智学校」と改称された。のちに長く親しまれる開智学校はじまりで、建築様式は東京大学の前身である開成学校などを参考にしたもので、和洋混交の擬洋風建築である。・・と開智学校の中に説明版があった。

昭和62年10月6日に愛媛県東宇和郡宇和町(現・西予市)の開明学校と姉妹校として提携している。

長野県の県庁を、長野市に置くか、松本市に置くか激論が交わされ、最後は県議会での投票で決定する事になり、一票差で長野市に決定、その代わりに日本銀行支店は松本市に、信州大学本部も松本市に置くことにしたとか・・開智学校を見学した時に説明を受けた。

天守内にある、松本城の沿革説明版。

天守内にある、松本城江戸中期の様子を書いた説明版。

松本城保存の功労者の説明版が設置してある。このような説明版は城巡りをしている者にとっては大変役に立つ資料です。

伊予松山城にはこのような説明版は設置されていない。

国宝松本城保存存続に尽力した、小林有也と市川量造のレリーフが建立されていた。

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EEK紀行・画像で回顧 現存12天守 1 弘前城天守

2017年09月04日 | 伊予松山歴史散策

弘前城天守。

現存12天守は、近世安土桃山時代から江戸時代に創建された建造物で、信長が創建した岐阜城、安土城に付いては天主と呼ばれ、秀吉以降は天守と呼ばれている。

最近女性の観光が盛んになり、山ガール・御朱印ガールと言った言葉をよく聞くこの頃で、城好きな女性たちを「城ガール」と言った言葉を耳にする様になった。松山城でも女性の見学者が多く、中には日本100名城巡りのスタンプ帳持参で来られている。城ガール「行ってよかった日本の城」トップ20の中に伊予松山城もランクされています。

平成18年2月、日本城郭協会から、日本100名城が指定発表され、翌19年に100名城スタンプラリーが設定開始され多くの城好きの人々が全国の城郭に直接足を運び、自分の目で確かめ往時を偲んでいる。また現在全国に、現存天守を初め、木造復元天守、外観復元天守、復興天守、模擬天守、天守風建築物が114棟がる。100名城指定外にも優れた城があり外国人の観光者も城巡りを楽しんでいる。

昨日(9月3日)、埼玉県さいたま市から女性二人、御朱印ガール&城ガールが観光旅行に来られ、伊佐爾波神社と道後湯築神社をご案内し御朱印を受けていた。

私は、現在85の城郭を巡っていますが、その回顧として先ずは現存12天守を北から巡ってみます。

平成20年5月8日・9日、に伺いました。

弘前市観光協会さんに申請しガイドさんをお願いしました。協会さんは四国伊予松山からお越しになられるので一番詳しいガイドを紹介しますと言って頂きました。右の方がそのガイドさんで詳細な案内をして頂きました。その節は大変お世話になりました。お元気でご活躍の事と存じます。

弘前城はさくらの名所で有名ですが、私は敢えてさくら祭りを避けて祭りが終わった後に伺いました。

弘前城天守は、慶長15年5層の天守を、津軽信枚が築城、城は岩木川の河岸段丘を利用した平城であったが、寛永4年(1627)落雷により焼失、文化7年(1810)幕府の許可を得て辰巳櫓を御三階櫓に改築、一時期は奥州の旗頭として東北15藩を支配下においたそのシンボルの天守である。石高は10万石であった。

天守の形式は、独立式層塔型3層3階である。

弘前天守正面で私が伺った時は中学生が修学旅行に来ていました。

ソメイヨシノ桜の花は散っていましたが、普賢象(ふげんぞう)桜が満開でした。

私が伺った時は天守台の石垣が孕み、天守が傾いていました。ガイドさんは、天守を天守台から曳き石垣の修復をする予定ですと説明を受けた。明治時代にも石垣の修復をしたが、曳いた天守を天守台に返す事が出来なく、盛岡連隊の陸軍工兵にお願いして元の位置に返したそうです。

現在天守台の修復最中で、石垣解体修理工事の完了は平成38年頃になる見込みだそうです。

弘前城天守内部に入ってみましょう。現存12天守の内11天守は、土足禁止ですが、弘前城は土足が許可されています。画像の様に床、階段全てビニールシートが敷かれています。

このビニールシートは、一つシーズンで擦り切れてしまうそうです。

天守最上階で、ガイドさんがゴルフボールを取り出し床に置くと、堀の方角にボールは転がりました。それは天守台の石垣が孕みその分天守が傾いている証拠ですと言われた。石垣の修復工事をする予定ですと説明を受けた。

天守最上階には弘前城の模型がありました。

天守最上階で見た落書きの多い事にビックリしました。

重要文化財の建造物にこんなに落書きを見るのは初めてでした。伊予松山城には落書きは無いです。

案内して頂いたガイドさんも、本当に嘆かわしい事ですと言われた。

城門の扉にも落書きがありました。

天守の瓦です。弘前城の瓦は、銅板で包んでいました。それは、弘前は冬季気温が下がり普通の瓦だと凍結して割れてしまうので、凍結防止のための工夫だそうです。

福井県丸岡市の丸岡城天守の瓦も凍結して割れるので、石瓦でした。

弘前城から見た岩木山、青森県最高峰の山で、1625mあります。未だ雪がありました。

天守台とその周辺の石垣修復工事が始まり、天守を天守台から曳く作業です。

現在は工作機材が発達しているので明治時代に行われた作業より楽に出来ると思います。

弘前城には、日本最古のソメイヨシノ桜が生息していました。

ソメイヨシノ桜は人工的に作られた桜で、寿命が長くとも80年と言われていますが、弘前城の桜は、明治15年に植栽された日本一の長寿のソメイヨシノ桜で説明版には、幹周:5,37m 樹高:10mと書かれていました。未だ元気でいれば今年135年になります。

弘前城の南入口です。

弘前城は二日掛けて散策しました。一日目は一人で、二日目はガイドさんの案内を受けての探訪でした。経路は、松山から空路羽田経由青森空港、帰りは新幹線で陸路で帰りました。

 

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2017・夏の終わりに

2017年09月01日 | 伊予松山歴史散策

7月1日、西日本最高峰「石鎚山のお山開き」で開けた愛媛の夏も終わり、暦の上では秋ですが、体感的には未だ残暑がのこる晩夏です。

伊予松山地方の、小・中学校は今日から新学期が始まりました。

今年の松山は、空梅雨で降雨が平年よりも少なく、松山市民の飲料水の源「石手川ダム」の貯水率は、昨日(8月31日)現在60,7%、前年のこの時期は90,9%ありました。

今月、9月30日(土)~10月10日(火)迄開催される第72回国民体育大会「えひめ国体」の開催に際し水は大丈夫か心配です。

松山市の隣接、今治市の玉川ダムで開催されるボート競技は、このまま水位が下がると規定のコース距離が確保出来なく、距離の短縮を考慮しないと競技が出来なくなると関係者は心配しています。

台風15号の降雨は愛媛には期待出来そうになく恵みの雨が欲しいです。

私は、就眠時、エアコンは使わず部屋の戸を開けて外気の風を取り入れて寝ていますが、昨晩は外気温が下がり戸を閉めて寝ました。秋を感じる昨晩でした。

今朝8時の我が家付近の気象状況は、外気温24,9度、室温25,1度 本日の最低気温は20、2度 湿度50% 気圧1003ヘクトパスカル(hPa)で急に秋めいた状態です。

昨晩から、風は秋らしい風に代わりましたが、日中は残暑厳しい日々が続きますのでお体ご自愛されお過ごし下さい。

台風15号が接近しています。東海、東日本、北海道の皆様お気を付け下さい。

 

本日の伊予松山の空です。

6月に植えられた稲も、首を垂れ稲穂も黄金色を呈して来ました。

我が家の近くは、市街化区域と市街化調整区域が入り混じっており、未だ農地が沢山あります。

市街化調整区域には一般住宅の建築は許可が下りません。

第72回愛媛国体開催で、松山市で開催される競技種目と開催場所です。

第72回愛媛国体開催で、松山市で開催される競技種目と開催場所です。

飛鳥乃湯も今月26日、午前7時00分に開湯となります。

大棟の両端には鴟尾がつけられています。

この鴟尾の作者は、愛媛の名産「菊間瓦」の産地今治市菊間町の工房で鬼師として活躍している若い女性の作品です。また湯屋に葺かれている瓦も菊間瓦です。

菊間瓦は、京都御所にも噴かれている由緒ある瓦です。

 

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