EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

伊予松山城本丸に咲く秋の花「ツルボ」

2017年09月19日 | 伊予松山歴史散策

大型台風18号は、水不足であった、伊予松山に恵みの雨をもたらせて、足早に駆け抜けた。

9月30日にから開幕する第72回国民体育大会は、64年振りに松山市を中心に開催されますが、水不足で悩んでいました。18号台風で解決、受け入れ態勢万全となりましたので是非松山にお越しください。

さて、秋のこの時期になると、伊予松山城本丸に咲きだす「ツルボ・蔓穂」の花があります。

松山城本丸には、現存する21棟の建造物「国指定重要文化財」を見ていると見落としてしまう「ひっそりと、控え目に」に咲く花です。

昨日(18日)台風一過松山は、快晴の天候となり、今年も写真を撮りに行って来ました。

シルバーウィーク最後の休日、県外からお城観光を楽しむ大勢の方がカメラ持参で、132m山頂にある本丸を、そして天守を取り巻く本壇天守群をカメラに収めていました。

歴女・城ガールもおられました。男性よりも女性の方が多かったです。

遠くは岩手県から来られ、いいカメラで撮られていた方に伊予松山城の撮影スポットを紹介させて頂きました。

さて、「ツルボ・蔓穂」の花ですが、余り目立たない花で何気なく咲き品の有る花です。

4年前にブログに掲載し、私は植物の知識がなくこの花の名前が分かりません。伊予松山城には打って付けの花だと思います。・・と書きましたら直ぐにブログを見て頂いた方から、この花は「ツルボ・蔓穂」ですよと教えて下さいました。

それ以来忘れることなく毎年9月この時期に写真を撮りに行っております。

現在松山城は、本壇の下、東から北側にかけて工事を行っており一周出来ませんので東・北側の、「ツルボ・蔓穂」の花を見る事が出来ません。

昨年は、ツルボと彼岸花が寄り添うように咲き、そこにアゲハ蝶が飛んで来た珍しい光景を撮る事が出来ましたが、今年はその場所にはツルボも彼岸花も咲いてなかったです。

 

ツルボの花を探していると、昨年は咲いてなかった彼岸花が咲いておりました。

場所は、乾櫓前です。

奥の塀は、乾門西塀で、紅白の彼岸花です。

松山城本丸に咲く彼岸花は、今年はここだけです。

白の彼岸花をアップで撮りました。

乾門を出ると素晴らしい松山城の風景が現れます。・・一昨年逝去された坂東三津五郎さんが一番お好きであった風景です。

本丸を屏風折れの石垣(横矢掛り)で構築、その上に乾門東続櫓から乾門東続櫓東折曲塀、その上に小天守を望む景観、石垣が描く扇状の曲線美と、その上にそびえる壮麗な城郭、これも松山城の魅力の一つです。また乾門は、本丸本壇の裏鬼門に当たる方位でもあります。

昨日、岩手県から来られた方と、若い歴女の城ガール二組に案内しました。此れは素晴らしい風景だと言われ沢山の画像をカメラに収められていました。皆さん一眼レフのいいカメラをお持ちでした。

素晴らしい松山城の風景の所に一輪のツルボが咲いておりました。

本壇天守群の建造物、南隅櫓と小天守です。

本壇天守群の建造物、南隅櫓と小天守の石垣にもツルボが咲いておりました。

石垣の間には、水分が少なく肥沃な土も少ない状態でよく咲く花だなと感心しながらシャッターを押しました。

此れから本壇に入ってみましょう。本丸広場までは自由に観光できますが、本壇に入るには入城料が必要となります。

伊予松山城の入城料は、大人510円、小人150円です。

伊予松山城、大天守・小天守の瓦には、徳川家の葵の御紋が付いています。

現存する天守では伊予松山城のみですので、松山城に来られて時にはご覧ください。

伊予松山城第3代藩主、松平定行が、徳川家康の甥にあたり、本姓は「久松」ですが、家康の指示で松平姓を使い葵の御紋を使えと指示された。明治維新以降は、新政府の指示で本姓である、久松に帰り家紋は星梅鉢に返した。久松家の祖先は、菅原道真公である。

久松家と菅原道真公との関係はまたの機会にブログに書きます。

本壇には、一カ所しか咲かない場所があります。

場所は、一ノ門東塀の前です。此処は毎年咲きます。

一ノ門東塀の前で、奥の白く四角に見えるのは、鉄砲狭間です。

昨日は、快晴で伊予松山の城下がよく見えましたので撮ってみました。

伊予松山15万石の城下です。現在松山市の人口は、516000人です。

昨日は、本丸で一番大きな城門「筒井門」の二人の甲冑を身に着けて武士が立ちはだかり、観光客を持て成していました。ようこそ松山城へ・・一緒に記念写真をどうぞ・・と。

筒井門を下ると、伊予松山城の「隘路」にさしかかります。

隘路から見る、高石垣と太鼓櫓、その奥に大天守が見えます。

俳優、鹿児島県出身の、榎木孝明が一番お好きな、伊予松山城の風景です。

ツルボはこの石垣の上に咲いておりました。

まさに、NHKドラマになった坂の上の雲です。

ドラマで、秋山眞之(淳さんと)正岡子規(升さん)が駆け上がってくる場面がありますが、その場所は画像左側の石垣の下で撮影されました。

榎木孝明が一番お好きな、伊予松山城の風景で、ツルボはこの石垣の上に咲いておりました。

隘路を左に折れると、秋山眞之が幼少時代、友達たちとよく遊んだ松山城、正岡子規も眞之とよく遊んだ友達の一人でした。眞之はガキ大将で、ある時眞之(当時は、淳五郎で、淳さんと呼ばれていた。)今日は松山城には近道をして行くぞと言った。すると淳さん道は一つしかないぞな?どんなにして行くんぞなと・・すると淳は、今日はこの石垣を登って行くぞと言って、登らすも子供達は、恐ろしく途中までは登るが登れない、わしらだけに登らせずに淳さんが登って見せてくれと言った。淳はよく見ておけと言いはなすと、懐から樫の棒2本を取り出し、此れを使い登り切ったそうです。画像はその石垣です。登りきると筒井門の前に出ます。

画像の櫓は、隠門続櫓です。

ガキ大将、眞之(当時は、淳五郎で、淳さんと呼ばれていた。)が登った石垣にもツルボが咲いていました。

ガキ大将、眞之(当時は、淳五郎で、淳さんと呼ばれていた。)が登った石垣にもツルボが咲いていました。

伊予松山城観光に来られた方々は、あまり気付かづに城を下りられますが、画像の様な電波塔があります。

この電波塔は、

昭和32年5月29日、NHK松山放送総合テレビジョン開局。

昭和33年12月1日、RNB南海放送標準テレビジョン放送開局。

昭和37年6月1日、NHK松山放送局教育テレビジョン開局。

昭和44年3月1日、NHK松山放送局FMラジオ放送開局に伴い文化庁の許可を得て国指定史跡公園内に電波塔を建設した。史跡公園内なので文化庁の指示に従い電波塔の色は周囲の景観に配慮し緑色に塗装されている。電波塔は、東京タワーよりも一年早く建設され、建設に従事した職人さんは、松山の電波塔を建設し東京タワー建設に従事した。

現在電波塔からは、NHK松山放送局FMラジオ放送と防災に関する電波が発信されている。

 

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