EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

松山市の興聖寺で『義士祭』

2010年12月14日 | 往年の名車 メグロ
松山市の興聖寺で『義士祭』

今日、12月14日松山市で「松山義士祭」が行われた。
元禄14年(1701)浅野内匠頭の江戸城松の廊下の刃傷から、同15年(1703)大石内蔵助良雄達の吉良邸討ち入り、同16年(1703)の浪士の切腹に至るまでの一連の事件は、今日まで歴史上のみならず、書籍、映画、演劇、講談と多岐にわたる分野に取り上げられている。

討ち入りした46人(寺坂吉衛門を除く)は、泉岳寺で内匠頭の墓前に上野介の首級を供えた後、幕府大目付けへ自首し、細川、水野、毛利、伊予松山藩に預けられ、伊予松山藩には、大石主税ら10名を江戸藩邸へ収容し、切腹まで面倒をみた。この内大高源吾、木村岡右衛門の切腹の介錯をした藩士宮原久太夫は両名の遺髪を藩主の許しを得て、松山にある自分の菩提寺である興聖寺(こうしょうじ)へ二人の墓を建立し納め供養した。その墓は現在も残っている。

昭和39年(1964)両名と宮原の供養と地元の発展を願って、興聖寺史跡顕彰会が発足し、同年12月14日第1回松山義士祭が挙行された。その後主催は末広町商工会を経て同町会へ移行し現在まで松山の師走の風物詩として今年第47回を迎えた。
文献によると伊予松山藩での待遇は、幕府の意向を気にしつつ丁重に扱ったようで、食事は伊予松山藩が一番良かった(一汁二采)と当時の記録がある。

切腹後の遺体は布団に包み、泉岳寺へ移送し埋葬されている。また切腹の介錯は細川、水野家では、浪士一人につき一人としたが、伊予松山、毛利家では二人につき一人の介錯であった。
宮原久太夫は20人扶持と軽輩ではあったが、武士道に厚く剣の腕もあり、義士受け取りの徒歩頭の中にもその名前が伝えられている。ご子孫は現在も健在である。

なお、播州赤穂から、手厚くお持て成しをした御礼にと櫨の木が送られており松山道後にある、湯築城外堀土塁に植え道後地区土地改良区が大切に保存して現在も健在である。

註:興聖寺の資料より
参考:伊予松山藩がお預かりの赤穂十士氏名は下記の通り

大石 主税良金     部屋住(大石内蔵助良雄長男)  15歳
堀部 安兵衛武庸   二百石馬廻            33歳
中村 勘助正辰     百石祐筆            44歳
木村 岡右衛門貞行  百五十石代官           45歳
岡野 金右衛門包秀  部屋住(亡父二百石物頭)     23歳
不破 数右衛門正種  先知百石普請奉行         23歳
菅谷 半之丞政利    百石代官            43歳
千馬 三郎兵衛光忠   三十石宗門改          50歳
貝賀 弥左衛門友信   十両三人扶持蔵奉行       53歳
大高 源吾忠雄      二十石五人扶持近習      31歳


12月14日第47回松山義士祭が行われた興聖寺・・近くには正岡子規縁の子規堂がある。


義士祭が行われた興聖寺境内



木村岡衛門・大高源吾のお墓にお供え物を献上、その横に介錯をした宮原久太夫のお墓がある。



木村岡衛門と大高源吾、二人の墓所で興聖寺の住職が読経を挙げながら関係者が供養をした。


松山市の有識者、地元商店街関係者が一同に集まり、興聖寺本堂で供養を行い献句も行った。


討入そばを頂きながら当時の義士達を偲んでいた。
そばを食べながら、この時代は忠義心がありいい時代であったが、昨今忠義のちもなくなり殺伐とした世の中になった。
せめて、祖先を敬い親、先輩を労わる気持ちを持って欲しい・・・と言っていた。


木村岡右衛門は、漢詩に秀でていて、吉良邸討入の際、兜頭巾の裏に漢詩を縫い込んでいたと伝えられる。その漢詩の記念石碑
また、大高源吾は、宝井其角に俳諧を学び、俳号を「子葉」と号し元禄16年2月4日伊予松山藩邸で切腹を命ぜられ、その死に臨んで次の句を遺して清く自刃した。

「梅てのむ  茶屋も有りへし死出の山」


伊予松山藩江戸屋敷で、大石主税等10名を預かり丁重に持て成した御礼にと
播州赤穂から贈られた「ハゼ」の木、道後湯築城跡外堀土塁に植え地元の道後土地改良区が今も大切に保存管理している。
一昨年、赤穂市に何故松山に御礼としてハゼの木を贈ったのか文書で照会したが理由が分からないので調査の上連絡するとあったが、未だ回答がない。



平成14年12月14日、討ち入り300年記念祭が挙行された時松山随一の繁華街「銀天街」で義士行列をした。













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現存12天守紀行「近世に創建された現存する天守」

2010年12月12日 | 往年の名車 メグロ
現存12天守紀行「近世に創建された現存する天守」

現在、全国に現存する城は殆ど近世の城郭で織田・豊臣政権下に誕生し、全国統一の過程のなか創建された。
関ヶ原の戦い後諸大名は配置替えにより新領地に入り大名達は直ちに新城を築城する大名また居城の大改修を行った。
1615年一国一城令の城郭統制が発布され中世の城は姿を消し近世城郭だけが修理を続けながら明治維新まで維持管理されていき、近世城郭の構成は、天守・石垣・礎石建物・瓦葺・枡形虎口で櫓や門は、全部画一的となった。
江戸時代164の城があったが明治時代になり廃城令が発布され殆どの城は取り壊され残るのが19天守である。
太平洋戦争で6天守が焼失、北海道松前藩の天守は失火で焼失し、現在全国に現存する天守は12天守である。
12天守は、昭和4年3月28日国宝保存法の制定により国宝に指定されたが昭和25年5月文化財保護法が制定された事により国法と重要文化財に指定変更された。
国宝に指定されたのは、松本城・犬山城・彦根城・姫路城で、重要文化財に指定変更されたのは、弘前城・丸岡城・松江城・備中松山城・丸亀城・高知城・宇和島城・伊予松山城である。
私は、時間の余裕みながら12天守を紀行して来た、平成7年9月6日から紀行を初め、平成20年5月9日最後の訪問、弘前城で紀行は終わった。
画像は、私が訪ねた12天守です。

先ずは、日本100名城 第4番 重要文化財:弘前城天守です・・平成20年5月9日に訪れた。

弘前城を建造したのは、津軽家二代目藩主信枚で、江戸時代弘前藩津軽氏10万石の居城として1611年に河岸段丘(か がん だんきゅう)17mに築城され津軽地方の政治経済の中心地となった。
天守は、本丸西に五層で創建されたが1627年に落雷で焼失1810年に本丸東の辰巳櫓を取り壊して同じ場所に新築したのが現存する天守である。
現在は、弘前公園として観光名所となり、弘前市により管理されている。
天守と桜のコントラストが美しく日本屈指の桜の名所として日本桜名所100選に選ばれている。
外様10万石 独立式天守 3層3階層塔型 重要文化財9棟
青森県弘前市下白銀町1番地

次は、日本100名城 第29番 国宝:松本城天守・・平成19年11月20に訪れた。

藩政時代最後の(140年間)城主戸田氏(譜代)6万石の居城松本城は、五重六階の天守で、姫路城とともに桃山文化を代表する現存天守として2基しかない貴重なものである。
創建は、1597年頃で現存する大・小天守が完成し1636年に辰巳付櫓と月見櫓が増築され今のバランスがとれた天守の姿となりこれを複合連結式天守と呼ぶ。
姫路城は白亜総塗込めの純白美に対し、松本城は黒漆を外壁に塗った黒く輝く天守で、別名、「烏城」「鵞(が)湖(こ)城(じょう)」とも言う。鵞湖とは諏訪湖の雅称である。
譜代6万石 連結複合式望楼型 5層6階 国宝5棟
長野県松本市丸の内4番地1

次は、日本100名城 第36番 重要文化財:丸岡城天守・・平成20年4月13日に訪れた。

丸岡は戦国時代、織田信長配下の勇将・柴田勝家の養子・柴田勝豊が治めていた。
藩政時代は、5万石・有馬氏(外様⇒願い譜代)の居城で160年間支配し明治維新をむかえる。
丸岡城天守は、1576年に「まるこの丘」と呼ばれる標高17mの丘に高さ12,6m、二層三階の初期望楼型独立式で築城され、軒下や壁面が白木造りとなっている。
 また、荒々しい野面積みの石垣が残り、瓦は全国的に見ても珍しい石瓦で葺かれていている。(笏谷石・しゃくだにいし・で造られているのは、全国でも珍しい)
天守は、昭和9年に国宝に指定されるが、昭和23年福井地震のため倒壊し、
昭和30年に倒壊した天守の廃材を用い、元通り修復再建され現在は国指定の重要文化財となっている。
外様5万石 独立式 2層3階望楼型 重要文化財1棟
福井県坂井市丸岡町霞1番地59
 
次は、日本100名城 第43番 国宝:犬山城天守・・平成19年11月19日に訪れた。

尾張徳川の附家老である成瀬正成が3万石で入り尾張藩を補佐する犬山成瀬氏の居城で、天文6年(1537年)に現在の天守最古の天守を持つ城として国宝に指定されている。
犬山成瀬氏はあくまでも身分は尾張藩の徳川家を補佐する重臣という立場であり、独立した大名として見られることはなかったが、慶応4年(1868年)1月、新政府の維新立藩により、犬山城の成瀬家は正式に犬山藩主となり、尾張徳川氏の尾張藩から独立した。数年前まで犬山城は成瀬家個人の所有物であったが現在は財団法人として管理している。
譜代3.5万石 独立式 3層4階地下2階望楼型 国宝1棟 
愛知県犬山市大字犬山字北古券65番地2

次は、日本100名城 第50番 国宝:彦根城天守・・平成19年5月12日に訪れた。

彦根藩35万石井伊氏の居城で、築城は1603年から20年の歳月を掛けて金亀山(こんきやま・標高50メートル)に徳川家康が公儀奉行3名と12の大名家に築城助役を命じ天下普請として竣工させ、外様をはじめ西国の諸大名を監視する事が目的として築城した。
天守は小型であるが、現存天守の中で最も多くの破風で作られ、種類も入母屋、唐、切妻破風、火灯窓を付け多様で絢爛である。
維新後廃城を免れたのは、秀麗な偉容としての天守が特に文化財的な意義を高く評価する大隈重信は、地元の熱い保存要請を受け明治天皇が北陸行幸のとき保存を直訴して残った。
昭和27年3月29日国宝に指定された。
譜代23万石 複合式 3層3階地下1階望楼型 国宝2棟 重要文化財5棟
滋賀県彦根市金亀町1番地1

次は、日本100名城 第59番 国宝&世界遺産指定:姫路城天守・・昭和40年に最初訪れ最近は、平成19年11月22日に訪れた。

姫路城天守は、標高46mの姫山にあり、天守が築かれたのは、1580年羽柴秀吉が西国攻略の根拠地として入城し、現在の大天守のある位置に三層の天守を構えたのが最初で、1601年から8年の歳月をかけて池田輝政(52万石)が天守を解体して姫山に五層六階地下一階の現存天守を築城した。
現在、大天守と三つの小天守を結ぶ渡櫓が国宝で、あとの建造物は重要文化財となっている。中濠以内は国の特別史跡に指定されている。
地階から東西の二本の心柱で建物の主軸となって支えているのは見事である。
平成5年には日本を代表する城として世界遺産に登録された。
譜代15万石 城郭の形式は、平山城で天守の形態は、連立式 5層6階地下1階望楼型の連立式である。
国宝8棟 重要文化財74棟
兵庫県姫路市本町68番地
日本三代連立式天守「姫路城・和歌山城・伊予松山城」

次に、日本100名城 第64番 重要文化財:松江城天守・・最初は平成15年9月6日に行き、最近は平成21年7月22日に訪れた。

松江藩18万6千石・松平氏の居城で天守は、標高28,4mの亀田山にあり優美な五層六階の望楼型で正面南側に付櫓が付属する複合式天守で平山城である。
元来天守は生活の居でなく厠はないが私の知る所では、松江城と姫路城にある。
松江城天守には、立派な鯱が上っている。
親藩18,6万石 複合式 5層6階望楼型 重要文化財1棟
島根県松江市殿町1番地5

次は、日本100名城 第68番 岡山県高梁市にある、重要文化財:備中松山城天守・・平成15年7月22日と平成21年9月26日に訪れた。

備中松山藩5万石、天守は標高430mの小松山山頂にあり二層二階で典型的な山城の天守で日本で一番高いとこにある。
天守1階には籠城戦を意識した長囲炉裏があります。・・天守に囲炉裏があるのはここだけではないでしょうか。
大手門から見る高石垣は凄い。
明治2年伊予松山藩との混同をさけるため高梁藩と改称された。
譜代5万石 複合式 2層2階層塔型 重要文化財3棟
岡山県高梁市内山下1番地1

次は、日本100名城 第78番 重要文化財:丸亀城天守・・度々訪れたが、最近は平成21年9月27日に訪れた。

丸亀藩5万1千石・京極氏の居城・江戸時代に創建され現存する12城天守の一つで香川県丸亀市にある丸亀城「天守」である。この天守は日本で一番小さな天守と言われているが石垣が日本で一番と評される高石垣で有名である。それに大手一ノ門「渡り櫓門」と大手二ノ門「高麗門」それから枡形の規模は江戸城の大手門に匹敵するくらい立派な造りである。5万1千石の城郭の大手門にしては規模が大きい。弘前城・高知城と並び日本三代大手門と言われる。
城の形式は平山城で標高66mの亀山にある。
外様5,15万石 独立式 3層3階層塔型 重要文化財3棟
香川県丸亀市一番丁

次は、日本100名城 第84番 重要文化財:高知城天守・・最近は、今年平成22年10月12日に訪れた。

土佐藩24万石・山内一豊(やまうちかつとよ)「地元ではやまのうちかずとよ・とは読まない」氏の居城で関ヶ原の戦いの翌年1601年9月から築城された。
天守は、標高44,4mの大高坂山に三層六階、白亜総漆喰塗りで最上階に望楼の廻縁(めぐりえん)があり望楼式天守と呼ばれる古式型で天守の高さ18,5mである。
天守は、1727年焼失。現存天守は1747年8月当初のまま再建された。
弘前城・丸亀城と並び日本三代大手門と言われる。
城の形式は平山城である。
今年10月12日、三ノ丸の石垣が修復完了したので見学に行った。高知城の石垣は殆どが穴太積で、今回の修復工事も安土城の石垣を手がけた安太積みの技法を継承している、滋賀県大津市坂本の安太衆第14代粟田純司氏が積んだのでこれを是非見たく行ったのである。
外様24万石 独立式 4層6階望楼型 重要文化財15棟
高知県高知市丸の内一丁目2番地1

次は、日本100名城 第83番愛媛県宇和島市にある、重要文化財:宇和島城天守・・最近は、平成19年9月20日に訪れた。

宇和島藩10万石・伊達の居城で、仙台藩伊達政宗の長庶子秀宗が就封以来維新まで9代続いた城郭で市街の中央、海抜80mの城山にある。
宇和島城は、1601年藤堂高虎により築かれたが、高虎が今治に転封となってのち、奥州仙台藩主伊達政宗の長庶子秀宗が10万石を賜り1615年に入城した。
2代宗利の時に天守以下城郭の大修理を行い、1671年に完成し現天守はその時のものである。
三重三階総塗籠式の層塔型天守で、昭和35年に大修理を行っている。
なお藤堂高虎時代の天守は、天守台はなく自然の岩山の上に築かれた望楼型であったが、伊達氏二代目藩主宗利が再建した天守は、天守台が造られ新式の層塔型と大きく変わった。
城郭の形式は、平山城で天守の形態は、層塔型である。
外様10万石 独立式 3層3階層塔型 重要文化財1棟
愛媛県宇和島市丸之内

最後は、私の地元日本100名城 第81番、重要文化財:伊予松山城天守

伊予松山藩15万石・松平氏の居城で、初代藩主加藤嘉明が1602年から25年の年月を掛けて築城し完成1年前に会津若松藩に転封、二代目藩主蒲生忠知が1629年6月入城し松山城は完成した。
二代目藩主蒲生忠知は1634年参勤交代時京都で病に係り逝去嗣子がなく断絶在藩7年4ヶ月であった。
三代目藩主は、徳川家康の弟久松定勝の長男、定行が藩主となり1635年7月に入城し明治維新まで松平15代在藩した。
定行は、家康(異父兄弟)の勧めで久松から松平と姓を変えて維新前に元の久松の姓にもどす。
天守は、三代目定行の時に加藤嘉明が創建した天守(1672年)を解体し現在の形の三層の天守に造り替え、その後落雷で焼失(1784年)現天守は、1854年(安政元年)再建された現存する12天守の中で一番新しい今から157年前の天守である。
天守は、門・櫓を従えて連立式天守を形成(連立式天守三名城:姫路城・和歌山城・伊予松山城)で三層三階江戸後期層塔式天守である。
城の形式は平山城である。
現存12天守で唯一徳川家の紋所「三つ葉葵」の紋章が付いている城である。
親藩15万石 連立式 3層3階地下1階層塔型 重要文化財21棟
愛媛県松山市丸之内
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スペシャルドラマ「坂の上の雲」主人公の墓所

2010年12月11日 | 往年の名車 メグロ
スペシャルドラマ「坂の上の雲」主人公の墓所

NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」第1部が昨年11月29日から放映され第2部が今年12月5日から放映されています。
数年前に主人公達の墓所を訪ねてみたので画像で紹介しよう。

先ず秋山好古の墓所です。


所在地は、東京都港区南青山2-32-2(管理事務所)にある。
好古は、生前墓造るな、銅像、石碑等も建立してならない、そして家も要らないと・・兎に角質素な生活をして大往生した人物である。
生前の意志を受けて家族は、秋山家の墓を造り家族と共に青山霊園に眠っている。好古が生前墓を造るなと言った墓は、「陸軍大将従二位勲一等功二級秋山好古」と肩書きを書いた墓を造るなでした。
なお、松山市鷺谷墓地にある墓は青山霊園からの文骨である。



青山霊園の秋山家の墓誌碑

画像は、松山市鷺谷墓地にある好古の墓所(青山霊園からの文骨)


秋山眞之が一番尊敬した人物が、兄・秋山好古であった。
その好古が墓を造ってないので、眞之も秋山家の墓に家族と一緒に眠っている。
所在地は、神奈川県鎌倉市十二所字太刀洗512にある。



鎌倉霊園にある秋山眞之家の墓誌碑


子規の墓所所在地、東京都北区田端4-18-4
大龍寺

正岡子規は、生前 「静かな寺に葬って欲しい」と、日頃から弟子に話しており、武蔵野台地の端にあり、林に囲まれて静かなこの寺が選ばれたそうです。
真ん中に子規の墓石、右に母八重、左に律の墓がある。
律は、昭和16年、72歳で亡くなったが、律がその最後を記した「律刀自病床覚」にはよると、律は最後に「もう連れて帰って下さい」と残したという。律の墓は、生前からの希望であった兄・子規の墓の傍らに建てられた。


一番左側『子規碑』があり、病没4年前、明治31年7月13日に友人河東銓に宛てた書簡の中に有る墓碑銘が刻まれています。はじめは昭和9年の33回忌に作られた自筆の銅板の墓碑銘だったのですが、昭和11年2月に盗難にあい、同年9月に石に刻みなおしています。
子規が生前自らのことを記した文である。


「正岡子規又ノ名ハ虎之助又ノ名ハ升又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺祭書屋主人又ノ名ハ竹ノ里人伊豫松山ニ生レ東京根岸ニ住ム父隼太松山藩御馬廻加番タリ卒ス母大原氏ニ養ハル日本新聞社員タリ明治三十□年□月□日没ス享年三十□月給四十圓」

上記の記述が刻印されている。



東京青山霊園に「海軍中佐廣瀬武夫」の墓所がある。
墓は兄・海軍少将 廣瀬勝比古が建立、武夫の左に兄の墓がある。
兄弟仲良く同じ大きさの墓石が建っている。
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道後村めぐり「第30番 瀬戸風峠」からの風景

2010年12月10日 | 往年の名車 メグロ
道後村めぐり「第30番 瀬戸風峠」からの風景

今日(12月10日)松山市は師走になってから一番の冷え込みで最低気温は1,7度まで下がった。
しかし日中は気温は13、3度まで上がり風がなかったため気温よりも暖かく感じた。

夕方久しぶりにカメラ持参で「道後村めぐり・第30番瀬戸風峠」に行ってみた。
既に6名のカメラマンが伊予松山城天守に落ちる太陽を撮りに来ていた。
残念ながら天守に落ちる夕日を大きな雲が邪魔をしていい写真が撮れなかった。
その画像を見て下さい。



道後村めぐり第30番瀬戸風峠から見た松山市街地



午後4時50分伊予松山城天守に落ちようとする夕日・・松山城天守がシルエットになった



午後5時すぎ雲に邪魔をされ夕日は雲隠れ・・残念また次の機会に



大気の条件がよければこのような映像が撮れる
撮影者:松山市、山本氏



日が落ち夕暮れを迎える52万人都市松山



すっかり日が落ちた夜の松山市街地
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道後村めぐりの年末大掃除

2010年12月09日 | 往年の名車 メグロ
道後村めぐりの年末大掃除

いで湯と文学の里 「道後村めぐり」が松山道後温泉界隈にスタンプとその地名の説明版が設置されている。
コースは、歴史を尋ねる、文化・文学を中心に、二つのコース30ヶ所があり各ポイントには記念の俳句スタンプが置いてある。

すべてのスタンプを本に押して、道後村役場村民課に持参すれば、道後村名誉村民証と道後温泉本館の入浴券、記念品が贈られます。
地図上には存在しない「道後村」は、いにしえの風情を残す道後界隈につけられた愛称です。
なお、道後村は大正12年3月31日までは存在していた公称名称である。

今日(12月9日)行った清掃は、第13番放生園で、道後村めぐり事務局から清掃に付いての説明があり、3番鷺谷墓地から29番常信寺を経て30番瀬戸風峠の間の清掃を、道後温泉旅館関係者、道後温泉商店街関係者、松山市観光協会所属観光ボランティアガイド、旅行会社の皆さんが参加して行った。

このコースには、NHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』 で登場するスポットもありますので松山に来られたら是非道後村めぐりをしてみてください。


事務局から清掃に付いて説明があり「道後村めぐり」の清掃に出発。
後ろに見えるのは、道後温泉駅前の「からくり時計」


道後村めぐり第30番瀬戸風峠から見た松山市街地で中央の丘(勝山:132m)が伊予松山城





秋山好古の墓所・・今日綺麗に清掃され献花もされた
ここは、道後村めぐり第3番鷺谷墓地でここに秋山好古の墓所がある、東京の青山霊園にある好古の墓所か
らの文骨である。



道後村めぐりスタンプ箱、此れは第3番のスタンプ箱で蓋を開けるとなかにスタンプとスタンプ台(インク)が置いてある



道後村めぐりスタンプ帳
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