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市内電車・一日松山散策 その4 八股榎大明神

2013年05月04日 | 伊予松山歴史散策
一日松山散策最後は、南堀端と東堀端の角にある(松山市役所前)八股榎大明神と、松山城北山麓にある大杉神社に行ってみた。
先ずは、八股榎大明神である。松山市役所前の堀端に赤い鳥居や赤い幟が何本も上っている。此処に大きな榎(えのき)がある。木に住んでいるお袖狸で、昔松山城の森に居り今から180年位前に此処堀端の大榎に移って来た。初め、お袖は、榎の陰から通行人を眺めるのを楽しみにしていたがやがて、商売繁盛・病気回復・縁談・・等など、どんな願い事にもご利益があると有名になった。

小幟や 狸を祀る 枯れ榎  子規
餅あげて狸を祀る古榎紙の幟に春雨ぞ降る  子規
百歳の狸住むてふ八股のちまたの榎いまありやなしや 子規・・
と故郷の風物を偲んだ俳句や短歌も作られている。
昭和11年春、伊予鉄道の城南線を複線化にする工事のやめに、堀の一部が埋め立てられ、お袖の大榎が邪魔になることから切り倒しにかかったところ、工事をする人達が次々に怪我をしたり病気になったり思わぬ事が続出、これはきっとお袖狸の祟りに違いないという事になり誰も仕事をしないようになった。

この始末を毎日堀之内の陸軍第22連隊から見ていた憲兵隊が「狸の祟り等とは片腹いたい。日本軍人の名誉に掛けても切り倒して見せよう。」と仕事を始めると、片腹どころか、両腹が痛み出す兵隊が次々と出るので手を引いてしまった。伊予鉄道は複線計画を暫く中止しないとならぬ様になりかけて時、救い主が現れた。
市内の熱心なお袖狸信仰家が、榎移転を買うて出て、先ず榎の前でお祀りをして、石井村の天山(現 松山市天山町)にある喜福寺へ運び、しかし古木であった為移植して間もなく枯れてしまった。一方住家を無くしたお袖狸は、国鉄大井駅近くのに現れ大評判、狸景気でおお賑わいたが、昭和22年元の古巣(松山城の堀端・市役所前)三代目大榎に帰り住んだと言われている。
お袖さんには多くの伝説があるが、有名なのは元松山市長、安井雅一さんがお袖さんの御産を取り上げ、それから安産の守りとして名を挙げ、安井病院もはやったというのんきな時代の話よ。
神霊学の研究者であった田内逸文(たうちはやふみ)さんがお袖狸の霊を呼び戻した時、両手を袖に入れてぴょんと踊り出た、酒が好きで、冷やで5合飲んだそうな。

古い話には伊予松山藩に佐竹の麟さんという若侍がおって、お袖狸に悪戯されたのに腹を立てて、毎日タンポ槍で榎の空洞をかき回す。さすがのお袖も「松山で怖いものはないけんど、佐竹の麟さんにはかなわん」いうて閉口しとったと。

                                      (松山市教育委員会発行 松山の伝説より)
画像は、現在の八股榎大明神である。



南堀端(松山城三之丸外堀)一番奥に赤いものが見えるが此処が八股榎大明神で、その奥の白い建物は松山市庁舎である。
この堀は、昭和20年11月に進駐してきた米軍司令官が、衛生上よくないので堀を埋め立てると命令が下った。地元住民や市長たちの嘆願で埋め立てが中止になった。しかし県会議事堂西側の駐車場(元・愛媛県県警本部庁舎)は埋め立てられた一部である。


外堀から見た松山城天守、船で堀の清掃をしている。この右側に八股榎大明神の社がある。


松山市役所の前にある八股榎大明神。


それでは、社をお参りしてみよう。先ずは鳥居の前で一礼。


社は非常に小さく整然としていて綺麗に清掃されていた。
この木が「大榎」で注連縄が掛けられていた。八股榎大明神の御神木で、お袖狸が住み就いたといわれの榎。
榎を移転したと言われる松山市天山町の喜福寺に行って見たい。なにか言い伝えがあるかもしれない。


御神木をお祀りしてある本殿。
大祭が11月8日と案内されていたので是非大祭に参列したい。
先日行った時はご婦人が綺麗に社を布で拭いていた。この前は伊予鉄道市内電車が行き交い、また国道11号、33号線があるためかなりの誇りが降り注いで来るので、小まめな気配りがないと清潔さが保たれない。小さな管理をする小屋があった。


お袖さんをお祀りされている社。


八股榎大明神の主に管理運営をされている「田中さん」で、信仰の深い方達が奉仕活動で管理をされているそうです。管理費用は、お賽銭と信仰のご喜捨と田中さんの資金で行っているそうです。ご苦労様。


伊予鉄道複線工事のとき、榎を伐採するときに腹痛や病人が出たというもそれを克服して無事複線工事も完成し、今や復元した坊ちゃん列車も八股榎大明神の前を走行している。
画像撮影は伊予銀行本店北側から撮った。右に松山市役所本庁舎、その南隣接して日本銀行松山支店がある。・・その昔そんな事があった事など知る人も少なくなくなった。


八股榎大明神の右横に「松山電信発祥の地」の石碑が建立してある。


松山電信発祥の地の石碑北側に河東碧梧桐の最初の句碑がある。

さくら活けた 花屑の中からの一枝拾ふ 梧桐

河東碧梧桐は、虚子と子規門の双璧であった。子規没後「日本俳句」の選者を継ぎ、やがて非定型自由の俳句を唱えた。この句碑は、昭和6年松山刑務所(現・県立中央病院)内に虚子の句碑とともに情操教育のため建てられたが、昭和28年8月、17回忌にこの地に移された。現在は句の文字が判読困難、松山市は文字に隅を入れるなどして読みやすくして欲しい。
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