足立重信が改修した湯山川(石手川)「岩堰」
加藤嘉明は、慶長7年1月15日徳川家康の許可を受け勝山に新たな城の普請の第一歩として周辺の平野部に城下町を造る事にした。家臣の足立半右衛門重信に命じて湯山川の大改修に着手嘉明は、湯山川の流域を南に変更し、その末流を伊予川(重信川)に合流させ、湯山川(石手川)を城の外堀としての構想を持っていた。そして右岸に新田と城下町を造り、城は山城と、平城との長所を取り入れた平山城を建造する構想を描いていた。勝山の麓に三ノ丸を配し武家屋敷を設け城西、城南、城東に商家町を置き、城北に寺院を建立、城下町建設には武家屋敷の地割をした。そしてゆくゆく現在の和気浜と城とを運河を構築構想を持っていた。武家屋敷の地割については次の機会に、実際に散策して記載する事にする。
今回は、湯山川改修の発端である「岩堰」から改修の新しい石手川を画像で見てみよう。
改修前の湯山川(石手川)は定まった流域はなく、自然の流れに従って流れており、大雨が降ると一面湖の様になり、人が生活したりする事は出来なかった。此れを定義の川として改修し流れを南に変更、そして湯山川から石手川と河川名を変更した。この工事は松山城築城と並行して行われた。松山城の築城開始年月日は、松山市役所発行の「松山城」に記述があるが、湯山川改修開始、竣工の記述はなく知りたい所である。
貴重な絵図で、湯山川と改修後の石手川、松山城、湯築城との位置が良く分かる。
湯山川の流れは、石手寺前と原信正宅との間を過ぎ、湯築城の南を流れ、松山商業高校の北を西下して、市役所北から八股に出て三番町の妙清寺(現在山田町に移転)辺りを通過して、西山、岩子山、高岡山等の麓を走り鯛崎の鼻より南吉田浜に出て瀬戸内海に流れていた。川底は浅かったそうだ。
この図は、元伊予松山城監守、住田さん家族から頂いた。
新岩堰橋で、足立重信はこの地点から湯山川の改修、付け替え大工事に取り掛かった。
この辺りは両岸とも岩場で工事は大変であった。私が小学校の頃遠足でよく行った場所で、現在よりも以前の方が景観は良かった。
岩を削り川幅を広げた。岩は、和泉層群に属し、砂岩や泥岩で上流右岸には酸性疑灰岩が観察できると説明がある。
この辺りの川幅は狭いが、深さがあり、赤羽橋の直ぐ下流から川幅は広くなる。
奥に見える橋が、岩堰に掛かる通称赤橋で、大正13年に建造され景観建造物に指定されている。
岩堰橋(通称、赤橋・あかばし)、平成15年9月1日、景観形成重要建造物指定。
長さ18,2m、幅1,4mの釣橋。
赤橋から下流を見た所、奥にコンクリート製の護岸が見えるがその地点から石手川の川幅は広くなる。
湯山川から石手川に改修された。足立重信は、改修に当たり屋敷に模型の石手川を造り水の流れを研究し、考案したのが「鎌出し」であった。
この画像は何時頃の画像か不明だが、付近の子供たちは岩堰で水遊びをしている。
近年は各学校にプールが完備されたのと、危険だから遊泳禁止となっている。
新岩堰橋の直ぐ上流にある「寺井堰」の記念碑で、ここから石手川の水を引き石手寺の前を流れ、ふなや旅館の中庭を通り、道後の街は暗渠とし護国神社の前を流れる。山頭火が詠んだ句「濁れる水のながれつつ澄む」昭和15年9月8日、一草庵の前を流れる大川をみて作った。この大川は、寺井堰からの水流である。
石手川の堰は上流から、一之井手堰、草葉堰、寺井堰、徳力堰、小坂堰、斉院樋
堰、仲村堰、佐吉樋堰、石樋堰、蔵ノ町埋樋堰、縦淵堰、立待堰、乙井堰、の14ヶ
所ある。
藤岡 翁頌功の碑で、昭和4年5月、秋山好古が揮毫し建立された。
赤橋を渡った南岸に建立されている。
藤岡勘左衛門は、嘉永5年10月2日・末広町、勘三郎の子で伊予鉄道会社創業に参画し、松山商工会を起し会長に推され、銀行の創始・市場の開設・伊予がすりの販路の拡張に努める等地方の実業界の発展に尽くした。また趣味多く茶花道・謡曲・調理・・
和歌俳句を楽しみ、石手川の岩堰遊園地を開き晩年好んでここで遊んだ。昭和3年12月没、76歳 湊町円光寺に葬られている。
足立重信が考案したのが「鎌出し」で現在二ヶ所しか残っていない貴重な歴史的建造物である。
末広橋から上流を撮った石手川、現在は川幅よりも護岸の方が広く改修されている。
右岸に(画像右)小さな土手が右岸から川面に向けて直進に伸びているのが大川文蔵が石手川改修時に考案した「曲出し」で末広橋から、伊予鉄道石手川橋梁の間にその名残が多く残されている。
改修した石手川もその後度々氾濫し、特に延宝元(1673)年に洪水、享保6(1721)年7月大氾濫して堤防が決壊、家屋889軒、死者72人、田畑水没3,716町、石高にして3万5、065石を喪失、藩は今までの様な川さらいによる一時的な間に合わせでは効果なしと判断し抜本的な大改修をする事になった。
享保8年(1723年)大川文蔵は、第5代伊予松山藩主、松平定英の命を受け石手川の大改修に当たった。その時に考案した「曲出し」で末広橋から、伊予鉄道石手川橋
梁の間に残されている。
曲出しとは、河身に対して直線的に突き出し流水の調節をする工法で、流水を中央に集中し、水勢が強くなり川底の堆積を防止する事が出来た。
今見られる石手川はこの時に完成したもので、その後大雨の時でも水害は少なくなったが、それでも決壊はあった。特に明治19年9月22日の大雨では200mもの堤防決壊があり死者、田畑の流出等々大被害があった。その後、昭和51年9月(1976) 台風17号による大雨で左岸が欠損河川敷上の住宅12戸流出が流失し、石手寺前の遍路橋の橋桁が流失した。私はこの時仕事の帰りに住宅が流出する現場を見たが水の勢いは恐ろしいなと思った。
その後画像の様な堤防に改修に改修を積み重ねて現在の石手川になり水害は無くなった。
大正初期の岩堰。岩を削って水路を南に変更した。
昭和初期の石手川で、堤防には鬱蒼と樹々が繁っていた。
昭和20年7月26日、松山大空襲で石手川右岸(北側)から松山城周辺は焼け野原となり、焼け出された住民の為に堤防の樹々を伐採し市営住宅、県営住宅を建設した。昭和40年後半までありその後住宅撤去され石手川緑地公園として整備され現在に至っている。
石手川は、加藤嘉明が湯山川を改修したがその昔、石井川と井出川の合流したものであった。嘉明は、石井川の「石」と井出川の「手」の字を連結して「石手川」と改称したとも伝えられている。
加藤嘉明は、慶長7年1月15日徳川家康の許可を受け勝山に新たな城の普請の第一歩として周辺の平野部に城下町を造る事にした。家臣の足立半右衛門重信に命じて湯山川の大改修に着手嘉明は、湯山川の流域を南に変更し、その末流を伊予川(重信川)に合流させ、湯山川(石手川)を城の外堀としての構想を持っていた。そして右岸に新田と城下町を造り、城は山城と、平城との長所を取り入れた平山城を建造する構想を描いていた。勝山の麓に三ノ丸を配し武家屋敷を設け城西、城南、城東に商家町を置き、城北に寺院を建立、城下町建設には武家屋敷の地割をした。そしてゆくゆく現在の和気浜と城とを運河を構築構想を持っていた。武家屋敷の地割については次の機会に、実際に散策して記載する事にする。
今回は、湯山川改修の発端である「岩堰」から改修の新しい石手川を画像で見てみよう。
改修前の湯山川(石手川)は定まった流域はなく、自然の流れに従って流れており、大雨が降ると一面湖の様になり、人が生活したりする事は出来なかった。此れを定義の川として改修し流れを南に変更、そして湯山川から石手川と河川名を変更した。この工事は松山城築城と並行して行われた。松山城の築城開始年月日は、松山市役所発行の「松山城」に記述があるが、湯山川改修開始、竣工の記述はなく知りたい所である。
貴重な絵図で、湯山川と改修後の石手川、松山城、湯築城との位置が良く分かる。
湯山川の流れは、石手寺前と原信正宅との間を過ぎ、湯築城の南を流れ、松山商業高校の北を西下して、市役所北から八股に出て三番町の妙清寺(現在山田町に移転)辺りを通過して、西山、岩子山、高岡山等の麓を走り鯛崎の鼻より南吉田浜に出て瀬戸内海に流れていた。川底は浅かったそうだ。
この図は、元伊予松山城監守、住田さん家族から頂いた。
新岩堰橋で、足立重信はこの地点から湯山川の改修、付け替え大工事に取り掛かった。
この辺りは両岸とも岩場で工事は大変であった。私が小学校の頃遠足でよく行った場所で、現在よりも以前の方が景観は良かった。
岩を削り川幅を広げた。岩は、和泉層群に属し、砂岩や泥岩で上流右岸には酸性疑灰岩が観察できると説明がある。
この辺りの川幅は狭いが、深さがあり、赤羽橋の直ぐ下流から川幅は広くなる。
奥に見える橋が、岩堰に掛かる通称赤橋で、大正13年に建造され景観建造物に指定されている。
岩堰橋(通称、赤橋・あかばし)、平成15年9月1日、景観形成重要建造物指定。
長さ18,2m、幅1,4mの釣橋。
赤橋から下流を見た所、奥にコンクリート製の護岸が見えるがその地点から石手川の川幅は広くなる。
湯山川から石手川に改修された。足立重信は、改修に当たり屋敷に模型の石手川を造り水の流れを研究し、考案したのが「鎌出し」であった。
この画像は何時頃の画像か不明だが、付近の子供たちは岩堰で水遊びをしている。
近年は各学校にプールが完備されたのと、危険だから遊泳禁止となっている。
新岩堰橋の直ぐ上流にある「寺井堰」の記念碑で、ここから石手川の水を引き石手寺の前を流れ、ふなや旅館の中庭を通り、道後の街は暗渠とし護国神社の前を流れる。山頭火が詠んだ句「濁れる水のながれつつ澄む」昭和15年9月8日、一草庵の前を流れる大川をみて作った。この大川は、寺井堰からの水流である。
石手川の堰は上流から、一之井手堰、草葉堰、寺井堰、徳力堰、小坂堰、斉院樋
堰、仲村堰、佐吉樋堰、石樋堰、蔵ノ町埋樋堰、縦淵堰、立待堰、乙井堰、の14ヶ
所ある。
藤岡 翁頌功の碑で、昭和4年5月、秋山好古が揮毫し建立された。
赤橋を渡った南岸に建立されている。
藤岡勘左衛門は、嘉永5年10月2日・末広町、勘三郎の子で伊予鉄道会社創業に参画し、松山商工会を起し会長に推され、銀行の創始・市場の開設・伊予がすりの販路の拡張に努める等地方の実業界の発展に尽くした。また趣味多く茶花道・謡曲・調理・・
和歌俳句を楽しみ、石手川の岩堰遊園地を開き晩年好んでここで遊んだ。昭和3年12月没、76歳 湊町円光寺に葬られている。
足立重信が考案したのが「鎌出し」で現在二ヶ所しか残っていない貴重な歴史的建造物である。
末広橋から上流を撮った石手川、現在は川幅よりも護岸の方が広く改修されている。
右岸に(画像右)小さな土手が右岸から川面に向けて直進に伸びているのが大川文蔵が石手川改修時に考案した「曲出し」で末広橋から、伊予鉄道石手川橋梁の間にその名残が多く残されている。
改修した石手川もその後度々氾濫し、特に延宝元(1673)年に洪水、享保6(1721)年7月大氾濫して堤防が決壊、家屋889軒、死者72人、田畑水没3,716町、石高にして3万5、065石を喪失、藩は今までの様な川さらいによる一時的な間に合わせでは効果なしと判断し抜本的な大改修をする事になった。
享保8年(1723年)大川文蔵は、第5代伊予松山藩主、松平定英の命を受け石手川の大改修に当たった。その時に考案した「曲出し」で末広橋から、伊予鉄道石手川橋
梁の間に残されている。
曲出しとは、河身に対して直線的に突き出し流水の調節をする工法で、流水を中央に集中し、水勢が強くなり川底の堆積を防止する事が出来た。
今見られる石手川はこの時に完成したもので、その後大雨の時でも水害は少なくなったが、それでも決壊はあった。特に明治19年9月22日の大雨では200mもの堤防決壊があり死者、田畑の流出等々大被害があった。その後、昭和51年9月(1976) 台風17号による大雨で左岸が欠損河川敷上の住宅12戸流出が流失し、石手寺前の遍路橋の橋桁が流失した。私はこの時仕事の帰りに住宅が流出する現場を見たが水の勢いは恐ろしいなと思った。
その後画像の様な堤防に改修に改修を積み重ねて現在の石手川になり水害は無くなった。
大正初期の岩堰。岩を削って水路を南に変更した。
昭和初期の石手川で、堤防には鬱蒼と樹々が繁っていた。
昭和20年7月26日、松山大空襲で石手川右岸(北側)から松山城周辺は焼け野原となり、焼け出された住民の為に堤防の樹々を伐採し市営住宅、県営住宅を建設した。昭和40年後半までありその後住宅撤去され石手川緑地公園として整備され現在に至っている。
石手川は、加藤嘉明が湯山川を改修したがその昔、石井川と井出川の合流したものであった。嘉明は、石井川の「石」と井出川の「手」の字を連結して「石手川」と改称したとも伝えられている。
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