加藤嘉明は、慶長5年(1600)9月15日関ヶ原の戦いで東軍として3000人の兵を連れて伊予から参戦し武勲を挙げ徳川家康から伊予国20万石を拝領した。
松前城が手狭となり慶長7年(1602)徳川家康の許可を受け現在地「勝山」に加藤嘉明が新たな城を築城開始。翌8年(1603)新しい城下に家臣と松前の住人達と共に居を移した。町を松山と命名した。
築城に要した年月は実に26年を費やした。この間松山の住人特に農民年貢の取立ては厳しく生活に苦労した。
完成は、寛永4年(1627)2月幕府から40万石で会津に転封を命ぜられた。松山城完成1年前の出来事であった。・・嘉明は会津城転封を断ったが聞き入れられなかった。
嘉明が会津に転封後出羽国の上ノ山城主であった蒲生忠知が伊予松山藩主に任ぜられた。忠知は有名な蒲生氏郷の孫である。忠知は近江国日野の地を併せて24万石を領有した。未完であった二ノ丸を忠知が手掛けて松山城は完成した。当時二ノ丸に城主の居住である御殿があった。・・大奥と表があった。現在は御殿の復元はされてなく基礎のみが復元されていてこれを「平面復元」と呼んでいる。
画像は、二ノ丸で桜が少ない。
多聞櫓門、二ノ丸御殿入口
画像は二ノ丸御殿跡で、本丸南西の山裾を海抜39mの高さに造成され、松山城最後の築城工事を蒲生忠知によって完成された。二ノ丸御殿は(藩邸)平成元年から整備が行われ多聞櫓・四足門・渡塀等々一部が復元されたが、御殿そのものは復元されず礎石のみの復元となっている。(平面復元)・・画像右側が表御殿で、左側が奥御殿跡である。
多聞櫓と南続塀
多聞櫓の内部は現在、管理事務所と展示室・休憩所として利用している
二ノ丸にある数少ない桜で未だ幼木である・・奥の門は藩政時代には無かった門で二ノ丸通用門戸して(展示物等々汎用の為に造られた)
二ノ丸跡には、城東中学校があった。昭和二十五年から三十三年間にわたって、松山中心部の子供たちのほとんどが通った学び舎であった。 桜横にある石碑は学校の沿革が刻まれている。
三ノ丸と二ノ丸を区切る石垣でその上下に桜が植栽されている
画像は登り石垣(日本城郭最大)
二ノ丸は、御殿をはじめ面積が広く二ノ丸を防御する為に高さ5m長さ233mの日本城郭最大の登り石垣を南北に構築しその上に続塀と要所要所に櫓を造り防御した。北面の登り石垣の石は取壊されたが、南面の登り石垣は現存している。
二ノ丸石垣の下にある桜
二ノに丸から本丸に登城する路で奥に見える石垣は松山城で最も高い石垣がある
二ノ丸下から本丸天守を望む・・この桜の下でよく花見をするが、この日は何故か花見客はいなかった。
松前城が手狭となり慶長7年(1602)徳川家康の許可を受け現在地「勝山」に加藤嘉明が新たな城を築城開始。翌8年(1603)新しい城下に家臣と松前の住人達と共に居を移した。町を松山と命名した。
築城に要した年月は実に26年を費やした。この間松山の住人特に農民年貢の取立ては厳しく生活に苦労した。
完成は、寛永4年(1627)2月幕府から40万石で会津に転封を命ぜられた。松山城完成1年前の出来事であった。・・嘉明は会津城転封を断ったが聞き入れられなかった。
嘉明が会津に転封後出羽国の上ノ山城主であった蒲生忠知が伊予松山藩主に任ぜられた。忠知は有名な蒲生氏郷の孫である。忠知は近江国日野の地を併せて24万石を領有した。未完であった二ノ丸を忠知が手掛けて松山城は完成した。当時二ノ丸に城主の居住である御殿があった。・・大奥と表があった。現在は御殿の復元はされてなく基礎のみが復元されていてこれを「平面復元」と呼んでいる。
画像は、二ノ丸で桜が少ない。
多聞櫓門、二ノ丸御殿入口
画像は二ノ丸御殿跡で、本丸南西の山裾を海抜39mの高さに造成され、松山城最後の築城工事を蒲生忠知によって完成された。二ノ丸御殿は(藩邸)平成元年から整備が行われ多聞櫓・四足門・渡塀等々一部が復元されたが、御殿そのものは復元されず礎石のみの復元となっている。(平面復元)・・画像右側が表御殿で、左側が奥御殿跡である。
多聞櫓と南続塀
多聞櫓の内部は現在、管理事務所と展示室・休憩所として利用している
二ノ丸にある数少ない桜で未だ幼木である・・奥の門は藩政時代には無かった門で二ノ丸通用門戸して(展示物等々汎用の為に造られた)
二ノ丸跡には、城東中学校があった。昭和二十五年から三十三年間にわたって、松山中心部の子供たちのほとんどが通った学び舎であった。 桜横にある石碑は学校の沿革が刻まれている。
三ノ丸と二ノ丸を区切る石垣でその上下に桜が植栽されている
画像は登り石垣(日本城郭最大)
二ノ丸は、御殿をはじめ面積が広く二ノ丸を防御する為に高さ5m長さ233mの日本城郭最大の登り石垣を南北に構築しその上に続塀と要所要所に櫓を造り防御した。北面の登り石垣の石は取壊されたが、南面の登り石垣は現存している。
二ノ丸石垣の下にある桜
二ノに丸から本丸に登城する路で奥に見える石垣は松山城で最も高い石垣がある
二ノ丸下から本丸天守を望む・・この桜の下でよく花見をするが、この日は何故か花見客はいなかった。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます