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秋山好古揮毫石碑紀行 42 今治市大三島町の碑

2016年01月30日 | 伊予松山歴史散策


今治市役所大三島支所産業建設課、越智課長様が秋山兄弟生誕地まで来て頂き石碑の情報を頂きました。越智課長様には昨年態々秋山生誕地にお越し頂きありがとうございました。


1.碑    文 :招魂碑
2.所 在 地  :今治市大三島町野々江甲6536番地  「野々江八幡神社」
3.建立年月日  :不明
4.揮 毫 者  :陸軍大将 秋山好古
5.建  立者  :不明
6.碑石大きさ  :高さ・1m91㎝ 横幅・89㎝ 厚み・ 8cm
7.参考 事項  :秋山好古が揮毫し石碑として建立されている碑は52基発見されているが、招魂碑はこれ1基のみである。戊辰戦争、日清戦争時に戦死された方々の霊を招いて祀る事に招魂碑を建立して慰霊をしていた。日露戦争後は、忠魂碑となり、招魂碑と言う言葉を使わなくなる。
靖国神社も初めは、東京招魂社と言っていた。明治5年東京招魂社が建てられ、明治12年、靖国神社に改称、地方の招魂社は、昭和14年、護国神社に改称された。
今治市大三島町野々江の招魂碑の建立された年月日は不明であるが、石碑裏面に野々江地区から日清・日露戦争に出征し戦死された7名の方々の名前が刻印されているから明治後期か大正初期ではないか?。


招魂碑裏面で、野々江地区から日清・日露戦争に出征し戦死された7名の方々の名前が刻印されている。野々江は、当時越智郡岡山村野々江と称していた。


今治市大三島町野々江甲6536番地に鎮座する「野々江八幡神社」で正面には立派な大島石で造った社号碑が建立されている。
野々江八幡神社は、大山祇神社の南約1kmにあり、旧越智郡岡山村の村社である。
大三島町は、昭和30年3月31日、越智郡鏡村と宮浦村が合併し町制施行し、大三島町となる。その後昭和31年9月23日、岡山村が合併。
平成17年1月16日、大三島町は、今治市、菊間町、大西町、波方町、玉川町、朝倉村、吉海町、宮窪町、伯方町、上浦町、関前村と合併して今治市となり、大三島町の自治体としては消滅した。


社殿には石段を上り行くが、注連石の右側に「招魂碑」は建立されている。


野々江八幡神社の拝殿と本殿。


平成20年1月15日、今治市役所大三島支所・産業建設課、越智課長さんのご案内で野々江八幡神社の招魂碑の取材に行きました。その後、越智課長さんのご案内で越智喜平さん宅をご案内頂き秋山好古揮毫の扁額等々を拝見させて頂きました。


越智氏は、大三島町(旧岡山村)から公用で度々松山に伺い、秋山好古に揮毫をお願いした時、好古はあなたの気質が気に入ったと言われ揮毫してくれたと先代から聞いておりますと言われた。・・この時好古は余程ご機嫌が良かったのだろう!!






秋山好古が揮毫した、軸物収納の箱書き。


岩倉氏の扁額も見せて頂きました。
肩書に、従三位男爵 岩倉具?と謹書してあった。
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