日露友好のかけ橋 2
松山市民の尊い行為に感謝するためにロシヤの作家V・グザーノフは捕虜兵士の精神的支柱であったV・A・ボイスマン大佐の胸像を建立することを提案し、ロシヤ側でE及びN・ジーコフ、A・ジーロフ、V・キーリン及び彫刻家V・ムハチョーフの諸氏の協力により像が寄贈される運びとなり地元では、これを「日露友好のかけ橋」とされている。
画像は、平成6年10月、ロシヤから寄贈されたV・A・ボイスマン大佐の胸像この右に、昭和41年4月20日に松山市がV・A・ボイスマン大佐の墓碑を再建立した。
参考事項:V・A・ボイスマン大佐は、日露戦争で秋山眞之が作戦参謀として戦った日本海開戦のロシヤ海軍太平洋第二艦隊・第三艦隊(通称、バルチック艦隊)の戦闘艦、ヘルスベート艦艦長で、明治38年9月21日松山の収容所で亡くなった。
松山市民の尊い行為に感謝するためにロシヤの作家V・グザーノフは捕虜兵士の精神的支柱であったV・A・ボイスマン大佐の胸像を建立することを提案し、ロシヤ側でE及びN・ジーコフ、A・ジーロフ、V・キーリン及び彫刻家V・ムハチョーフの諸氏の協力により像が寄贈される運びとなり地元では、これを「日露友好のかけ橋」とされている。
画像は、平成6年10月、ロシヤから寄贈されたV・A・ボイスマン大佐の胸像この右に、昭和41年4月20日に松山市がV・A・ボイスマン大佐の墓碑を再建立した。
参考事項:V・A・ボイスマン大佐は、日露戦争で秋山眞之が作戦参謀として戦った日本海開戦のロシヤ海軍太平洋第二艦隊・第三艦隊(通称、バルチック艦隊)の戦闘艦、ヘルスベート艦艦長で、明治38年9月21日松山の収容所で亡くなった。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます