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俳句の街松山の句碑巡り 8 篠原 梵

2013年10月10日 | 伊予松山歴史散策

篠原 梵
明治43年4月15日、愛媛県伊予郡南伊予村(現伊予市)に、警察官である父篠原特五郎、母ちさとの長男として生まれる。昭和50年10月17日、65歳で逝去。大正6年、南宇和郡御荘町平城尋常小学校に入学、大正9年松山市立第四尋常小学校(現東雲小学校)に転入学した。父が警察官をやめ、商売(米穀・塩販売)をしたい気持ちが固まり、以後、松山に居着く事になる。松山中学・松山高等学校を経て、昭和9年3月31日東京帝国大学文学部卒業、昭和13年、中央公論社に入社、のち中央公論の編集長、理事、取締役を経て、中央公論事業出版の社長となる。昭和50年10月、家族とともに郷里松山に帰省中肝硬変発病、僅か一週間の入院生活で松山の病院で死去した。雪枝夫人(劇作家・村田修子)も追悼遺稿集「葉桜」の編集を終えたあと、昭和51年9月5日、石手寺の梵の句碑建立も見ずに死去した。
梵の作品は、鋭い感覚、斬新な知性、しなやかなリズムなどで当時の俳壇を驚かせた。「梵」という俳号は、松山で子供のことを「ボンや」と呼んだことに因むという。梵は、同郷の友人にも恵まれ、特に大喜多秀(愛媛大学、松山大学教授・哲学)とは小学校以来の学友であり、また俳句の八木絵馬(明治大学教授・英語)とは中学以来の学友であった。句集(年々去来の花)別冊(経路・昭和49年)などがある。墓地は、松山市祝谷 常信寺。


句は、「葉桜の中の無数の空さわぐ」
葉桜の動きを空間に置き換えた新鮮な感覚は世人に愛され、葉桜の句として他を圧倒します。石手寺境内にあり俳人も大勢いる。
梵の句碑は、この一基のみである。
所在は、松山市石手二丁目・石手寺境内の愛媛ビルマパゴダの前にある。


市内、唯一つの句碑、「葉桜の中の無数の空さわぐ」の裏面。
昭和51年10月17日、一週忌建立と、刻印されている。


四国霊場第51番、石手寺正面で国道317号沿いにある。88ヶ所札所の中でも参拝者が最も多い札所の一つである。では、ここから篠原梵の句碑まで案内しよう。


正面から長い参廊を歩く。


参廊の奥に国宝「石手寺二王門」がある。昭和27年11月22日、指定。
この門は、文保2年(1318)に建立した。松山市内の建造物では一番古い建物である。全国の楼門の中でも屈指の優れた建物と評価されている。中でも正・背面にある蟇股(かえるまた)、側面の間斗束(けんとづか)が凄い。


二王門を潜ると右手に三重塔が見える(国指定重文、昭和40年5月27指定)。


正面奥に石手寺本堂があり右側に弘法大師堂がある。石手寺は、真言宗豊山派の古刹。本堂は昭和40年5月27日、重文に指定。


篠原梵の句碑は、本堂手前左に愛媛ビルマパゴダがありその前に句碑はある。


二王門前で、女性の歩きお遍路さんが食事を取っておいでた。長歩きご苦労様。

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