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伊豫松山 札之辻界隈散策 2

2012年08月23日 | 伊予松山歴史散策
先日札之辻跡界隈を散策したが、今日は松山城北郭周辺を散策した。
加藤嘉明は、慶長5年(1600)9月15日関ヶ原の戦いで東軍の武将として伊豫正木城(松前城)から出陣した。

その留守の不意を突き中世伊豫守護、河野家の家臣であった旧村上水軍の村上元吉が軍を率いて9月14日伊豫三津浜に上陸し河野氏の領地であった伊豫の奪回に来た。

加藤嘉明の留守を護っていた、重臣、佃十成の留守部隊は夜襲を掛け村上軍を撃破した。戦いは凄まじいもので両軍共に多くの戦死者が出た。現在松山市古三津地区に多くの祠があるのはこの時の戦死者を祀るものである。
もしも村上軍が領地を奪回しておれば、加藤嘉明は関ヶ原から帰る領地が無かった。

嘉明は、徳川家康から関ヶ原の戦いでの武勲を認められ伊豫国20万石を拝領し、家康の許可を得て慶長7年(1602)1月15日に築城を開始、同7年10月新城下に仮御殿が完成し、松前城から家臣及び住人を連れて新城下に居を移した。其の時この地を松山とすると嘉明は公に称し、これが現在の松山市である。

伊豫松山城築城に際し、村上元吉軍を撃破し留守を護った功績を鑑み城北山麓に「佃十成の為に高石垣で郭を造り与えた。・・これが北郭(佃郭)である。
今回この周辺を散策した。


伊豫松山城鳥瞰復元図で左側に北郭がある


第13代松平勝成時代の伊豫松山城古図


留守を護った佃十成は功績により、6000石と高石垣に本邸を与えられ「佃郭」と言われていたが、加藤嘉明が会津若松転封の時従い伊豫松山を離れ、蒲生時代に「北郭」に変わった、大正9年この地に第6尋常小学校が建設されることなり取壊された


伊豫松山城古図・・上部に北郭が見える


北郭があった所「現在」


北郭跡の前は松山市の市道で一番広い道路が建設されている(平和通り)


平和通りには画像の様な句碑が沢山建立されていて、多くの俳人達が句碑散策に来ている


句碑裏面には、句の説明がある


愛媛県立松山北高等学校正門(旧北豫中学校)
北郭から北側には、多くの学校が建設されていて現在は文京地区と呼ばれている・・中でも秋山好古が大正13年から昭和5年まで校長として務めた北豫中学と新田長次郎が創った松山高等商業学校(現・松山大学)がある・・すぐ近くには、勝山中学校・清水小学校がある


秋山好古が校長時代に建設した校舎、今も使われている


大正初めの北豫中学


大正12年4月2日に開校した愛媛県立城北女学校の正門と門柱で、後方の校舎は昭和22年開校した松山市立勝山中学校である(勝山中学は、城北女学校の跡地に設置された)・・なお城北女学校は、昭和24年北豫中学と統合され県立松山北高等学校である


愛媛県立城北女学校の正門は、平成15年9月1日松山市指定の「景観形成重要建造物」に指定されている


北豫中学の東に、歩兵第22連隊の城北練兵場があった・・現在も画像の石碑が残っている・・城北練兵場の跡は、愛媛大学・松山東中学校・東雲小学校・日本赤十字松山病院になっている


昭和3年11月3月松山市立清水小学校創立記念、同年11月10日昭和天皇即位の礼を記念し、清水小学校の教職員が醵金をし「天壌無窮」の記念碑を建立した・揮毫は同校の近くにあった北豫中学校長秋山好古に依頼した、昭和20年11月松山にGHQが進駐し・・GHQ最高司令官・ダグラス・マッカーサー通達が発令、軍人が揮毫した石碑の撤去命令でこの石碑は撤去され平成7年まで同校の用具室に保管されていたが、愛媛県護国神社の宮司がこれを発見し同年10月同神社境内に再建立された・・石碑が割れているのは撤去作業時によるものである
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