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松山義士祭 4 大高源吾忠雄

2014年12月17日 | 伊予松山歴史散策
木村岡右衛門に続いて、大高源吾も見てみたい。木村岡右衛門同様に名前は知っているが、詳しい人物像は知らないので再び興聖寺の所蔵の資料で調べてみた。
大高源吾は、吉良邸討ち入り時は裏門隊として攻め入った。生まれは、寛文12年(1672年)木村同様に浅野家に仕えた。役職は、金奉行・膳番方で、家禄は、20石扶持とある。大高源吾は、俳句を嗜み、子葉の俳号を持ち、俳諧通して宝井其角らと付き合いがあった。気品のある武士であったと伝えられている。元禄15年12月14日笹売り姿で両国橋上、宝井其角に偶然に出会い、其角の「年の瀬や水の流れと人の身は」と掛けられ「あした待たるるその宝船」と返したと言うエピソードは、講談の名場面である。
母、貞立尼は小野寺十内の姉、十内の養子、幸右衛門は、大高源吾の実弟、岡野金衛門は、従兄弟と義士一家である。
刃傷事件の時、内匠頭に従い出府中であったが、急ぎ赤穂へ戻り、弟、従兄弟らと共に盟約に加わった。
大石内蔵助の命を受けて、急進派説得のため原総右衛門らと江戸に下ったが、逆に意気投合して上方急進派となる。丸山会議後内蔵助の意を受け、貝賀弥右衛門と共に同士を訪ね神文返しを行う。綿屋膳右衛門に26両を排用して俳諧「二つの竹」を上梓し、その後江戸に向かい元禄15年10月18日到着。
茶人山田宋偏のもとに弟子入りし、吉良邸の茶会開催から上野介在邸の情報を入手する。討ち入りには竹梯子に伝わり塀を乗り越え一番乗り。
伊予松山藩での切腹は10人の最後であったが、最初の大石主税が潔く切腹したと聞くと晴れやかになったと記されており、若い主税を思いやる優しさもあった。
切腹に臨んでちょっとお筆を拝借したいと書いたのが有名な辞世の句「梅で飲む 茶屋もあるべし 死での山」である。
赤穂義士の中で武のスターが堀部安兵衛なら、文のスターが源吾である。
伯父の小野寺十内が妻に送った手紙に「源吾も大太刀とって、薙刀のようなるを持ち、下には紅の両面の小袖を着、上には両面の広幅小袖を着申し候」とあり、源吾の出で立ちは、ぼたんに狂う唐獅子のような華やかさえあったと伝えられている。
他に「日の恩や たちまち砕く 厚氷」義挙引上げの途中の酒屋で詠じた「山を抜く 力も折れて 松の雪」の句がある。


 大高源吾忠雄 ★ 裏門隊について

出身・生国:播州赤穂
20石の微禄ながら文武にすぐれ大石内蔵助の信頼が厚かった。 容貌は「いもづらで猪首」であったらしいが、俳諧に秀で参勤交代の合間に詠んだ詩集を出す技量を有し、 宝井其角と交流があったことが分かっている。
 生年月日:寛文12年(1672年)
 没年月日:元禄16年2月4日 (1703年)
享 年:32歳
戒 名:刃無一剣信士(泉岳寺)
禄 高:20石五人扶持
身 分:膳番元方 ・ 腰物方 ・ 金奉行
性 格:辞世句
酒を愛した大高源吾
「梅で呑む 茶屋もあるべし 死での山」
句意 : 冥土にもあると言われている「死出の山」にもきっと梅の花を見ながら酒を飲むことのできる茶屋もあるだろう。
「山を裂く 力も折れて 笠の雪」
討入りの時、金革短冊の表に名前、裏にこの句を書いて討ち入った。


お預け処:伊予松山藩松平隠岐守定直の江戸中屋敷(現在、イタリヤ大使館)で元禄16年2月4日 (1703年)木村岡右衛門貞行と大高源吾忠雄両名切腹、2名の介錯をした伊予松山藩士、宮原久太夫のお墓とその左側に、同じ大きさで、木村岡右衛門貞行と大高源吾忠雄両名の墓石が建立されている。墓石は当時のままである。宮原久太夫は、藩主の許しを得て伊予松山にある宮原家の菩提寺、興聖寺、宮原家の墓の直ぐ傍に建立した。


大高源吾の有名な辞世の句の句碑。


辞世の句、大高子葉「梅でのむ 茶屋も有るべし 死出の山」の説明板。
松山市教育員会が設置。


右側:木村岡右衛門貞行の戒名「刃通普剣信士(泉岳寺)」菩提の石碑。
左側:大高源吾忠雄の戒名:「刃無一剣信士(泉岳寺)」菩提の石碑。


木村岡右衛門貞行と大高源吾忠雄両名の辞世の句の石碑と、元禄16年2月4日、切腹し、戒名:大高源吾、刃無一剣信士 木村岡右衛門、戒名:刃通普剣信士、菩提の石碑、お預けとなった伊予松山江戸中屋敷の石碑が最近建立された。


木村岡右衛門貞行と大高源吾忠雄両名の辞世の句の説明板。


木村岡右衛門貞行と大高源吾忠雄両名菩提の石碑と木村岡右衛門貞行の辞世の詩の石碑、大高源吾忠雄の辞世の句碑の前に大勢の人達が両名の墓参の後に辞世の句を二人の生涯を偲んでいた。


此処からの画像は、泉岳寺である。以前私が墓参の行った時撮った。
東京都港区高輪二丁目11番1号にある泉岳寺。
義士祭は、年二回、12月と4月に行っており、本家本元の義士祭が盛大に行われている。


泉岳寺にある大石内蔵助良雄の銅像。
手には連判状を持ち、赤穂を向いて建っている。


浅野内匠頭長矩の墓。


大石内蔵助良雄の墓で、その前に義士たちの墓がある。
年中義士の墓には、花と線香が絶えないと言う。


泉岳寺にある義士の墓石の説明板。


赤穂浪士吉良邸討ち入りに多大な支援をしたと言われている、天野屋利兵衛の立派な石碑も建立されている。
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