EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

ブルーインパルス(青い衝撃)についての学習

2017年10月13日 | 伊予松山歴史散策

9月30日、愛媛国体開会式で祝賀飛行をしたブルーインパルスの雄姿が私の脳裏に強く残り少し勉強しようと思い色んな資料を紐解いてみました。

ブルーインパルスの前身は、旧日本海軍航空隊の戦闘機分隊長だった小林淑人大尉が、国民の前で曲技飛行を実施したのが始まりで、昭和8年源田実が戦闘機分隊に配属され、編隊特殊飛行チームを受け継ぎ、編隊特殊飛行チームは「源田サーカス」という通称が定着していたそうです。

その後、戦争の激化と共に編隊特殊飛行は行なわれなくなり、戦後(サンフランシスコ講和条約以降が戦後と私は考えている。)昭和25年、朝鮮戦争勃発の時マッカーサー元帥の指示により警察予備隊が組織され、昭和27年10月15日、浜松に航空学校が設立、昭和29年5月松島基地で飛行訓練が始まり、同年7月1日、航空自衛隊が発足しました。

そして源田実の尽力で、現在のブルーインパルスが誕生し、航空自衛隊本来の活動以外の一つとして「ブルーインパルスの」展示飛行を行うことになったとあります。

有名になった展示飛行は、昭和39年東京オリンピック開会式で五輪を描き、昭和45年の大阪万国博覧会では、"EXPO'70" の文字を描き、平成10年、長野オリンピックでも展示飛行をしました。

この様に航空自衛隊の航空祭や国民的な大きな行事などで、華麗なアクロバット飛行(展示飛行)を披露する専門のチーム、それがブルーインパルスで、正式名称は、宮城県松島基地にある第4航空団に所属する「第11飛行隊」、最初の名称は、浜松基地の近くを流れる天竜川にちなんで、天竜の愛称となる予定であったが、「インパルス・ブルー」とした。しかし語呂が悪く、逆にして「ブルーインパルス・(青い衝撃)」としたそうです。

私の同級生も、5人が航空自衛隊に入隊、一人は殉職、二人は除隊し他の職種に付き一人は、定年退官後もいい技術を身に着けていたため後輩の指導者として岐阜各務原基地で活躍していました。

画像は、私の学生時代の後輩、東京都武蔵村山市在住の小島氏が、平成27年11月3日、航空自衛隊入間基地祭で撮影した画像で、承諾引用しました。

青と白の6機の機体が、大空で飛行する様は壮大です。

9月30日、愛媛国体開会式で祝賀飛行をしたブルーインパルスを見ようと、開会式会場近くのいろんな場所から多くの松山市民が初めてブルーインパルスを観戦しました。天候は快晴であったので最高の祝賀飛行を見る事が出来ました。

画像には、ブールインパルスの飛行形態をアップしてますが、私にはその名前が分かりませんので説明は記載しておりません。

撮影した小島氏の撮影技量に敬服、何といっても好天気の条件下で撮影出来たことが一番です。

なお、最後の3枚は私が撮影した画像です。

ブルーインパルスの飛行場所で、展示飛行が行われるのは、各地の航空自衛隊の基地で行われる「航空祭」が主で、国民的な行事への参加とあります。愛媛国体開会式で祝賀飛行は、国民的な行事に該当しての飛行であった。展示飛行が出来る視界は、目視で8Km以上が必要でそれ以下では行われないそうです。

ブルーインパルスの国体での展示飛行は、平成24年8月の「ぎふ清流国体」、平成25年9月の「スポーツ祭東京 2013」、平成26年10月の「長崎がんばらんば国体」、平成27年9月の「紀の国わかやま国体」、平成28年年9月の「希望郷いわて国体」の各開会式で祝賀飛行をしています。そして平成29年9月の「愛顔(えがお)つなぐえひめ国体」の5回目の展示飛行が行われました。

愛媛県では平成11年5月に行われた「瀬戸内しまなみ海道開通式典」での展示飛行以来、18年ぶりの実施でした。

青空をバックに、白いスモークを出しながら迫って来る機体迫力満点。

画像の飛行形態は、「デルタ・ダーティ・ローパス」で、9月30日、第72回国民体育大会・愛媛国体開会式で祝賀飛行をした飛行形態です。会場の司会者が、ブルーインパルスが祝賀飛行を披露します。演目は「デルタ・ダーティ・ローパス」と言う飛行演目ですと司会者から説明がありました。天皇皇后両陛下も開場から観閲されました。

平成27年11月3日、航空自衛隊入間基地祭の様子。

多くの親子ずれの航空愛好者が伺えます。青空背景に行われるアクロバット飛行、空挺団の落下傘訓練披露、日頃の航空自衛隊の訓練から体得した技量を国民に知って頂くいい機会、そして我が国を空から防衛する最前線で活躍している航空自衛隊。上空で展示飛行するパイロットは、花形であるが、地上部隊の支援があっての事。

千葉県習志野陸上自衛隊「第一空挺団」から、航空自衛隊入間基地祭に応援飛行。

千葉県習志野陸上自衛隊最強部隊として名高い「第一空挺団」。部隊は、日本で唯一の空挺部隊であり、精鋭揃いの猛者が所属しています。陸上自衛隊でも特別視されるこの最強エリートといわれています。隊員になるには、厳しい制約がありそれをクリアした精鋭部隊だそうです。

習志野駐屯地の中に秋山好古が揮毫した「軍馬慰霊の碑」が建立してあります。

此れからの画像は、平成24年10月31日、秋山兄弟生誕地の研究員を引率して研修に伺った陸上自衛隊習志野駐屯地での画像で私が撮影したものです。

平成24年10月31日、第一空廷団(千葉県船橋市)の正面玄関で、習志野駐屯地正面玄関門柱左には「第一空廷団」の表示板があります。

習志野駐屯地正面玄関右側門柱には「陸上自衛隊習志野駐屯地」と「航空自衛隊習志野分屯基地」の表示板があります。

陸上自衛隊習志野駐屯地の正面玄関で撮影、駐屯地内部の建物、施設等々が写らない様に・・が撮影条件でした。

画像左端は、秋山好古の孫、秋山哲兒さんです。

陸上自衛隊習志野駐屯地内の「空挺館・旧御馬見所」前に、秋山好古が揮毫した「軍馬慰霊之碑」があります。その前で、秋山兄弟生誕地の研究員が研修に行った時の画像です。秋山好古が昭和5年3月、北豫中学校(現、愛媛県立松山北高等学校)校長を辞任し東京に帰り、習志野からの依頼で「軍馬慰霊之碑」を昭和5年10月5日に揮毫し、石碑の建立は同年11月、この時好古は、陸軍病院で逝去していた。この文字が好古の絶筆となりました。大正時代この地に陸軍騎兵学校があり、好古は第二代目の陸軍騎兵学校長を務めていました。秋山好古ともご縁のある地です。

 

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