今年、子規・漱石・極堂生誕150年を迎え、松山市では色んな記念行事が開催されている。その一つとして、俳誌「ほとゝぎす」の創設者、柳原極堂(慶応3年2月11日~昭和32年10月7日)生誕150年を記念し、顕彰団体「松山極堂会」が、記念の句碑を4月30日に松山市北立花町の井手神社境内に建立しその除幕式が行われた。
極堂、本名は正之、正岡子規(慶応3年9月17日~明治35年9月19日)と同年生まれで明治30年には、俳句雑誌「ほとゝぎす」(後のホトトギス)を創刊。子規の死後も顕彰に尽力した人物である。明治29年、子規から号を「極堂」とするようにいわれ、 以後これに従った。
その生涯はまさに子規の後ろ姿を追いかけるものであったと言われている。
松山市北立花町の井手神社境内に建立された句碑は、極堂の辞世の句「吾生(わがせい)は へちまのつるの 行き處(どころ)」の句碑で、「松山極堂会」の高橋俊夫会長は、「今年は子規・漱石」生誕150年が注目されているが、同じく生誕150年の極堂の功績も知ってほしい」と語られた。
除幕式を待つ会場の井出神社。
明治29年、子規から号を「極堂」とするよういわれ、以後これに従った。明治30年、子規と共に月間俳誌「ほとゝぎす」を創刊。その後、海南新聞の編集長になり、松山市会議員にも四度選ばれる。 明治39年には伊豫日々新聞を再刊して社長になり、20年間新聞発行を続ける。氏の生涯は子規研究およびその顕彰に捧げられた。 昭和32年に松山市名誉市民の称号を贈られる。
除幕が行われ挨拶をされる、高橋俊夫、松山極堂会会長。
除幕式に参列された関係者。
除幕された、句碑。
極堂の辞世の句「吾生(わがせい)は へちまのつるの 行き處(どころ)」の句。
祭壇には、柳原極堂の遺影が飾られていた。
句碑の傍に設置された説明版。
平成29年4月30日、井手神社境内に建立され、除幕しお披露目された柳原極堂の句碑。
極堂の辞世の句「吾生(わがせい)は へちまのつるの 行き處(どころ)」。
極堂の句碑は、井手神社鳥居の直ぐ右側に建立されているが、左側には、正岡子規の句碑がある。二人の句碑が向かい合っている形で建立された。子規の句碑は、「薫風や大文字を吹く神の杜」が建立されている。
句碑の裏面で建立の経緯が書かれている。
今朝改めて、写真を撮りに行くとご婦人が、除幕式を終えた真新しい句碑をご覧になっていた。
画像に、子規の句碑と記載している所に、子規の句碑、「薫風や大文字を吹く神の杜」が建立されている。
私が句碑の写真を撮っていましたら、奈良県橿原市から来られた方が盛んに神社の写真を撮っておられ、伺うと、その方の家紋が「橘」で同じ橘の社紋の全国の神社を訪れていると話された。井手神社の社紋が橘です。
なお、井手神社は、松山三大夏祭りが開催される由緒ある神社の一つです。
建立された井手神社の北側にある、俳誌「ほとゝぎす」創刊の地があった。(極堂の居住地)
その俳誌「ほとゝぎす」創刊の地の説明版。
俳誌「ほとゝぎす」創刊の地、松山市北立花8番地に記念碑が建立されている。
極堂は、「ほとゝぎす」創刊し、子規を懸命に支援顕彰し続けた人であった。それ故にその生涯はまさに子規の後ろ姿を追いかけるものであったと言われている。
俳誌「ほとゝぎす」は、明治30年1月、子規の俳句運動を後援するため、極堂は俳誌「ほとゝぎす」を創刊した。
部数は300部で、1部6銭、20号までこの地で発行し、21号から高浜虚子が東京で受け継いだ。