EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

坂本龍馬ゆかりの地「寺田屋」

2017年05月17日 | 伊予松山歴史散策

石清水八幡宮を参拝して、京阪電車伏見桃山駅で下車、伏見区の鍾馗さんを散策し、黄桜酒造レストランで昼食を取った。その後、龍馬通りを歩き、寺田屋に久しぶりに行ってみた。

現在の寺田屋は、事件当時の「弾痕」「刀傷」と称するものや「お龍が入っていた風呂」なるものがあり、当時そのままの建物であるかのような説明がされている。しかしながら、現在の寺田屋の建物は明治38年に登記されており、特に湯殿がある部分は明治41年に増築登記がなされているなどの点から、専門家の間では以前から再建説が強かった。

平成20年になってから、京都市は当時の記録等を調査し、同年9月24日に、幕末当時の建物は、鳥羽伏見の戦いの戦火で焼失しており、現在の京都市伏見区南浜町263番地にある建物は、後の時代に当時の敷地の西隣に建てられたものであると公式に結論した。・・と資料にある。この事を眼中に置きながら見学した。旧寺田屋は、現在の史跡公園に建っていた事になる。

なお、坂本龍馬を表記するとき「龍馬と竜馬」と表記する場合があるが私は龍馬と書きます。

次回のブログは、大阪城西の丸庭園を掲載します。

黄桜「カッパカントリー」を出て左折すると龍馬通りである。

途中、龍馬通りには掲示板があった。

龍馬通りの掲示板。

 

龍馬通りを右折すると寺田屋である。

寺田屋史跡公園の入口。

園内には、休憩用の縁台置かれてあったが、雨上がりであったので、「濡れています気負付けて下さい。」と注意書きが置かれてあった。

季節は、5月10日、綺麗なつつじが咲いていた。

寺田屋騒動の記念碑とその前に坂本龍馬の像が建立されていた。

寺田屋騒動は、2件の事件を言う。

  1. 文久2年(1862)に発生した薩摩藩の尊皇派志士の鎮撫事件。
  2. 慶応2年(1866)に発生した伏見奉行による坂本龍馬襲撃事件。

寺田屋騒動記念碑で、明治27年建立。

薩摩藩主、島津久光により殺害された急進派の薩摩藩士9名を追慕して建立。

篆額は、有栖川宮熾仁親王で、「薩摩九烈士遺蹟志」と揮毫されている。

寺田屋史跡公園側から見た現在の寺田屋。

寺田屋の女将、お登勢さん、「文政12年(1829)~明治10年(1877)9月7日」の100年記念で、昭和52年9月7日に建てられた。

お登勢さんが亡くなった年は、西南戦争が起こった年である。

寺田屋とは関係ないことですが・・(私が住む松山市は、藩政時代、伊予松山藩15万石であった。)

伊予松山藩は、鳥羽伏見の戦いから苦境にたたされ、幕府からは阻害され、新政府からは、朝敵とされ苦難の道を歩むことになる。

伊予松山藩の子供「秋山好古・仙波太郎、新田長次郎、加藤拓川、秋山眞之・正岡子規、勝田主計、井上要、その他多くの子供たちは、自分の事は自分の力で自立しなければならない。何処からの支援もなかった。そのため一生懸命に勉強し努力したそうです。」

独立自尊の精神で、世の中、社会に出て活躍した。

寺田屋の内部見学の出口。

寺田屋の正面。

寺田屋は、鳥羽伏見の戦いの戦火で焼失し、現在の寺田屋は、史跡公園の西側に明治40年頃建てられたと資料にある。当時の寺田屋の図面、設計図に基づき忠実に建てられたのであれば、復元であるが、それ以外の事で建てられたのであれば、旧寺田屋風建物となる。

現在の寺田屋玄関。

角度を変えての寺田屋正面。

角度を変えての寺田屋。

昭和36年、100年祭を記念して建立とある。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする