江戸幕府は、元和元年(1615年)に一国一城令が発せられ、多くの城郭が廃城となった。幕末には276藩となり、城持ち大名が135藩あった。
明治新政府は明治6年1月14日廃城令を公布し、これに対して伊予松山から大久保利通内務卿に対して民の憩いの場として保存嘆願が提出され、木戸孝允内務卿が許可した。その後18ヶ所から保存嘆願書が提出され政府は、19の城(天守)の保存を認めた。(松前・弘前・松本・犬山・丸岡・大垣・名古屋・和歌山・彦根・姫路・岡山・松江・備中松山・福山・広島・丸亀・高知・宇和島・伊予松山の各城)その内先の大戦戦災で、広島・福山・岡山・和歌山・大垣・名古屋・松前天守は不審火で焼失し現在は、弘前・松本・犬山・丸岡・彦根・姫路・松江・備中松山・丸亀・高知・宇和島・伊予松山の各城(天守)で、これを現存天守と言っている。
現存天守の中で国指定の重要文化財指定の建造物が一番多く現存するのは、国宝姫路城(国宝8棟・重文74棟)で次いで多く現存するのが伊予松山城である。
伊予松山城は、昭和10年5月13日、国宝に指定されたが、昭和25年5月制定された重要文化財保護法制定により重要文化財に指定された。指定された城郭建造物は、21棟である。内訳は、天守を含む櫓7棟、城門7棟、続き塀7棟である。
今回重文21棟を数回に分けて画像で辿ってみる。
ではロープウエイ山頂駅から攻めてみよう。
戸無門
ロープウエー山頂駅から登城すると眼前に本丸一の高石垣が現れ、待合番所跡に出る。ここは東雲口からと二ノ丸からの登城道の合流する地点であった。東は揚木戸門、西は大手門によって仕切られ、大手に入口筒井門に迫る重要地であった。それに沿って行き右旋回した道は、石塁と石垣の隘路となってその奥に戸無門が現れる。
門の形式は、高麗門で本瓦葺、慶長年間の創建である。全国の城郭でも非常に珍しい。戸が無いのは、ここまで進入した敵を一応通過させ次の筒井門・隠門の攻防戦において一挙に撃破する構えである。
戸無門、内側で筒井門に通じる枡形から。
隠門
次に筒井門の東側に隠門がある。大手で最も重要な筒井門・隠門の構えに遭遇する。石垣で隠され寄り手に秘匿された形で隠門が設けられている。
筒井門は昭和24年、狂人の放火により焼失。昭和45年復元された。隠門は、城内建造物のうち、乾櫓・野原櫓に次ぐ古い建築物で筒井門復元工事の時に戸無門と共に修理が行われた。門の形式は、櫓門形式で本瓦葺。
隠門続櫓
隠門の上に、隠門続櫓がある。一層櫓で本瓦葺。筒井門と接続しており、戸無門を通過し、筒井門に殺到した敵に予期せぬ側面急襲を加え一挙に撃退する構えで、櫓内部は、武器弾薬の保管となっていて壁は銃撃されても耐えられる分厚い土に固形物を混ぜ造り上げている。
紫竹門
脇戸附高麗門で本瓦葺。隠門を過ぎると、太鼓門、太鼓門西塀・太鼓櫓が現れるが、この建物は昭和20年7月26日の松山大空襲の戦火で焼失し戦後復元した城郭建造物なので重文指定外なので今回は省略する。
紫竹門は、乾門から東進すると左手に本檀石垣がそびえ、右手には乾門東続櫓からの屏風折れ石垣の屈曲した上に続塀があって、その奥に本丸広場の入口を防御する門、東西続塀ともに本丸広場を内側とし搦手乾門側を寄手側とした構えになっている。・・観光者はこの構えを不思議に感ずる方が多い。
紫竹門内側
紫竹門西塀
本丸を防御する最重要な紫竹門と共に西塀は本丸地形の影響を受け縄張りに最も苦心した場所である。この門に接する西塀は、馬具櫓から渡塀(今は復元されてない)と、搦手乾門続櫓からの屈曲した続塀に出会う本丸防御の重要諸点、ここを破られると本壇へと敵は侵入進撃して来る。
長さ14、47m、狭間10ヶ初、本瓦葺。
紫竹門西塀内側
紫竹門東塀
本丸を防御する最重要な紫竹門と共に東塀・西塀は本丸地形の影響を受け縄張りに最も苦心した場所である。この門に接する西塀は、馬具櫓から渡塀(今は復元されてない)と、搦手乾門続櫓からの屈曲した続塀に出会う。また東塀は、その内側が本壇入口通路、一ノ門にと繋がる。
長さ16、57m、狭間11ヶ初、本瓦葺。
野原櫓
紫竹門から外に出ると本丸西広場に出ると野原櫓が見えてくる。
野原櫓は、乾櫓の東に位置し本丸西北を防備するための櫓である。西は乾櫓方向、東は小筒櫓方向の石垣に対し横矢掛りの構えとなっている。この櫓は騎馬櫓とも称し、築城当時に新しく建築された本丸では一番古い建物で、2層一部1層の建物であるが、下層の大入母屋屋根の中ほど、一回り小型の2階を載せた形となっている。これは戦国時代豪族が、その居館の屋根上に望楼を乗せ見張り様に用いていた。その望楼が次第に拡張されて、犬山城に見られるわが国独自の天守建築に発展したとする、天守望楼起源説の一過程を示すものとして注目される貴重な櫓である。造りは、2層2階(一部1層)櫓、本瓦葺。
注1:野原櫓の名称は、古町にあった豪商、野原氏が寄進したので、野原櫓と言われたとの諸説がある。
注2:小筒櫓は、野原櫓の東側に位置し2層櫓で、本丸北側を防備するための櫓であったが今は復元されていない。
乾櫓
乾櫓は、本丸搦手を防備するための櫓で、乾門を過ぎて本丸西広場に出ると西方に乾櫓がある。2層一部矩折1層のこの櫓は三面を本丸石垣に托し、その北面は山麓に面し隣接する野原櫓に横矢掛りをみせ、西面は乾門の上にあり、南面は乾門前の枡形を射撃するという多くの任務を課せられた櫓である。この建物は、松前城時代のものを移築したもので城内一番古い建物である。本丸の西北隅すなわち乾の隅に立つのでこの名前がある。
2層2階(一部1層)隅櫓、本瓦葺。
次回は、本壇にと進入してみよう。
明治新政府は明治6年1月14日廃城令を公布し、これに対して伊予松山から大久保利通内務卿に対して民の憩いの場として保存嘆願が提出され、木戸孝允内務卿が許可した。その後18ヶ所から保存嘆願書が提出され政府は、19の城(天守)の保存を認めた。(松前・弘前・松本・犬山・丸岡・大垣・名古屋・和歌山・彦根・姫路・岡山・松江・備中松山・福山・広島・丸亀・高知・宇和島・伊予松山の各城)その内先の大戦戦災で、広島・福山・岡山・和歌山・大垣・名古屋・松前天守は不審火で焼失し現在は、弘前・松本・犬山・丸岡・彦根・姫路・松江・備中松山・丸亀・高知・宇和島・伊予松山の各城(天守)で、これを現存天守と言っている。
現存天守の中で国指定の重要文化財指定の建造物が一番多く現存するのは、国宝姫路城(国宝8棟・重文74棟)で次いで多く現存するのが伊予松山城である。
伊予松山城は、昭和10年5月13日、国宝に指定されたが、昭和25年5月制定された重要文化財保護法制定により重要文化財に指定された。指定された城郭建造物は、21棟である。内訳は、天守を含む櫓7棟、城門7棟、続き塀7棟である。
今回重文21棟を数回に分けて画像で辿ってみる。
ではロープウエイ山頂駅から攻めてみよう。
戸無門
ロープウエー山頂駅から登城すると眼前に本丸一の高石垣が現れ、待合番所跡に出る。ここは東雲口からと二ノ丸からの登城道の合流する地点であった。東は揚木戸門、西は大手門によって仕切られ、大手に入口筒井門に迫る重要地であった。それに沿って行き右旋回した道は、石塁と石垣の隘路となってその奥に戸無門が現れる。
門の形式は、高麗門で本瓦葺、慶長年間の創建である。全国の城郭でも非常に珍しい。戸が無いのは、ここまで進入した敵を一応通過させ次の筒井門・隠門の攻防戦において一挙に撃破する構えである。
戸無門、内側で筒井門に通じる枡形から。
隠門
次に筒井門の東側に隠門がある。大手で最も重要な筒井門・隠門の構えに遭遇する。石垣で隠され寄り手に秘匿された形で隠門が設けられている。
筒井門は昭和24年、狂人の放火により焼失。昭和45年復元された。隠門は、城内建造物のうち、乾櫓・野原櫓に次ぐ古い建築物で筒井門復元工事の時に戸無門と共に修理が行われた。門の形式は、櫓門形式で本瓦葺。
隠門続櫓
隠門の上に、隠門続櫓がある。一層櫓で本瓦葺。筒井門と接続しており、戸無門を通過し、筒井門に殺到した敵に予期せぬ側面急襲を加え一挙に撃退する構えで、櫓内部は、武器弾薬の保管となっていて壁は銃撃されても耐えられる分厚い土に固形物を混ぜ造り上げている。
紫竹門
脇戸附高麗門で本瓦葺。隠門を過ぎると、太鼓門、太鼓門西塀・太鼓櫓が現れるが、この建物は昭和20年7月26日の松山大空襲の戦火で焼失し戦後復元した城郭建造物なので重文指定外なので今回は省略する。
紫竹門は、乾門から東進すると左手に本檀石垣がそびえ、右手には乾門東続櫓からの屏風折れ石垣の屈曲した上に続塀があって、その奥に本丸広場の入口を防御する門、東西続塀ともに本丸広場を内側とし搦手乾門側を寄手側とした構えになっている。・・観光者はこの構えを不思議に感ずる方が多い。
紫竹門内側
紫竹門西塀
本丸を防御する最重要な紫竹門と共に西塀は本丸地形の影響を受け縄張りに最も苦心した場所である。この門に接する西塀は、馬具櫓から渡塀(今は復元されてない)と、搦手乾門続櫓からの屈曲した続塀に出会う本丸防御の重要諸点、ここを破られると本壇へと敵は侵入進撃して来る。
長さ14、47m、狭間10ヶ初、本瓦葺。
紫竹門西塀内側
紫竹門東塀
本丸を防御する最重要な紫竹門と共に東塀・西塀は本丸地形の影響を受け縄張りに最も苦心した場所である。この門に接する西塀は、馬具櫓から渡塀(今は復元されてない)と、搦手乾門続櫓からの屈曲した続塀に出会う。また東塀は、その内側が本壇入口通路、一ノ門にと繋がる。
長さ16、57m、狭間11ヶ初、本瓦葺。
野原櫓
紫竹門から外に出ると本丸西広場に出ると野原櫓が見えてくる。
野原櫓は、乾櫓の東に位置し本丸西北を防備するための櫓である。西は乾櫓方向、東は小筒櫓方向の石垣に対し横矢掛りの構えとなっている。この櫓は騎馬櫓とも称し、築城当時に新しく建築された本丸では一番古い建物で、2層一部1層の建物であるが、下層の大入母屋屋根の中ほど、一回り小型の2階を載せた形となっている。これは戦国時代豪族が、その居館の屋根上に望楼を乗せ見張り様に用いていた。その望楼が次第に拡張されて、犬山城に見られるわが国独自の天守建築に発展したとする、天守望楼起源説の一過程を示すものとして注目される貴重な櫓である。造りは、2層2階(一部1層)櫓、本瓦葺。
注1:野原櫓の名称は、古町にあった豪商、野原氏が寄進したので、野原櫓と言われたとの諸説がある。
注2:小筒櫓は、野原櫓の東側に位置し2層櫓で、本丸北側を防備するための櫓であったが今は復元されていない。
乾櫓
乾櫓は、本丸搦手を防備するための櫓で、乾門を過ぎて本丸西広場に出ると西方に乾櫓がある。2層一部矩折1層のこの櫓は三面を本丸石垣に托し、その北面は山麓に面し隣接する野原櫓に横矢掛りをみせ、西面は乾門の上にあり、南面は乾門前の枡形を射撃するという多くの任務を課せられた櫓である。この建物は、松前城時代のものを移築したもので城内一番古い建物である。本丸の西北隅すなわち乾の隅に立つのでこの名前がある。
2層2階(一部1層)隅櫓、本瓦葺。
次回は、本壇にと進入してみよう。