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松山市城東地区歴史散策 7 赤穂から贈られた「はぜの木」

2010年07月22日 | 往年の名車 メグロ
松山市城東地区歴史散策 7 赤穂から贈られた「はぜの木」

元禄14年(1701)3月14日、江戸城本丸・松の廊下において、赤穂藩主である浅野内匠頭長矩が、吉良上野介義央に起こした刃傷事件により、即日切腹のうえ領地没収という厳罰に処せられた。赤穂藩家老の大石内蔵助良雄は、翌年7月28日、京都円山に集まった19人の浪士とともに、吉良邸への討ち入りを決意。同士を集めて密かに準備を始めた。

元禄15年12月14日、赤穂藩士大石良雄以下47人が吉良上野介義央の屋敷に討ち入り仇を果たした。
元禄16年2月4日、伊予松山藩預かりの赤穂浪士10名は三田の松山藩中屋敷藩邸(現 イタリア大使館)において幕命により切腹した。

10士の名前は

大石主税良金   16歳
堀部安平武庸   34歳
中村勘助正辰   48歳
不破数右衛門正種 34歳
千馬三郎兵衛光忠 51歳
木村岡右衛門貞行 46歳
岡野金右衛門包秀 24歳
菅谷半之丞政利  44歳
貝賀弥左衛門友信 55歳
大高源五忠雄   32歳
この時伊予松山藩主、松平隠岐の守定直は義士たちを武人の鏡として丁重にあつかった。後にこの事を知った播州赤穂の人たちは赤穂の特産である櫨(ハゼ)の木を感謝の記念として松山に送り届けてきた。

松山藩ではこれを石手川の堤防と湯築城跡の外堀に植えた。
春は鮮やかな新緑で、秋は辰砂色の紅葉で松山の四季を彩り赤穂義士の快挙への思いの様子が伺える。今は残るのは画像の木のみとなった。
ちなみに、菅谷半之丞政利は、伊予郡松前町の生まれであり、杉野十平次は松山市興居島の人であり、中村勘助正辰の娘「るり」は大洲新谷に嫁いで来た。

そして、大高源吾と木村岡衛門の介錯をした宮原久太夫は、松山に帰った後、自家の菩提寺である興聖寺に供養のため大高・木村両士の墓を建立した。
終戦までは浪士の討ち入り当日赤穂義士供養が行なわれていたが戦後中断していたのであるが昭和39年から復活され、最近は義士祭として盛大に行われている。
大高源吾は、子葉と号し辞世の句「梅でのむ茶屋もあるべし死出の山」は句碑となっている。
子規は、鶯や主税今年年十七  の句を詠んでいる。

なお、興聖寺は伊予松山藩第2期藩主、蒲生忠知の菩提寺として由緒ある寺である。
昨年5月11日赤穂城紀行に行く前に赤穂市観光協会に松山に贈られて来た櫨の木の由来を照会しているが未だ連絡が無い。

「平成21年4月22日赤穂市観光協会に照会しているが回答がいまだ来ていない。」

赤穂城跡見学の後、大石神社に伺いこの事を伺うも判明できず社務所の職員さんから赤穂八幡神社に大石内蔵助良雄のお手植えの櫨が保存されているから宮司に聞いてくださいと朗報をえたので伺った。熊本に贈った事は聞いて居るが、伊予松山に贈ったというのは今日始めて聞きましたと言った。

画像は、播州赤穂から贈られて来た「櫨・ハゼ」の木で、場所は湯築城跡外堀の南側に保存されていて、管理は地元の道後水利組合が行っている。




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