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松山市城東地区歴史散策 6 湯築城跡

2010年07月22日 | 往年の名車 メグロ
松山市城東地区歴史散策 6 湯築城跡

ここ湯築城は、14世紀前半から16世紀後半:「南北朝時代~安土桃山時代」にかけて、約250年間に渡り伊予の守護であった河野氏の居城として存続した湯築城跡です 「今からから約672年前・京都に室町幕府が開幕した頃・ヨーロッパでは
100年戦争が始まった頃に湯築城が出来た。」
 天正13年(1585年)に豊臣秀吉の四国平定により、小早川隆影との抗戦により開城した。

城郭は、外堀で囲まれている内側すべてが湯築城跡なので、市街地に中世の城跡がこのような遺跡が、このような形で現存している事自体が日本でも珍しい事で本当に貴重なものであり、 中世の城跡が、市街地にあるものは、殆ど外堀は埋め立てられ、土塁は取り壊され宅地として開発されておるが、この湯築城は戦国時代の様子がタイムカプセルの様に現存している事が貴重な史跡である。

 この城の構造は、外堀が周囲を囲み、その内側に土塁が取り巻いており、 そして真中には小高い山があり、その回りにも堀があり、発掘調査により堀りの外側に土塁の痕跡があったので山を二重の堀と・土塁で取り囲んだ平山城といった形状で、堀・土塁がかなり大きい規模で残っており全国的に比較しても大きい規模であることが特徴である。

 そしてこの城が造られた時期は、文献によると南北朝期(14世紀前半・1335~1338年頃、足利尊氏が征夷大将軍になった。)とされておりますが、南北朝期に築城さられた当時は、丘陵部を利用した山城の形態であったと思われる。
その後今のような形になったのは戦国期になってからで、発掘調査の結果16世紀前半、1535年、ポルトガル人が、種子島に漂着し鉄砲を伝導した頃・に外堀を掘って城を拡張したとある。
 今から約475年まえの事である。

湯築城跡には戦後、道後動物園が作られていたが移転に伴い、愛媛県が計画した、日本庭園整備のため昭和63年に発掘調査をしたところ湯築城跡の遺構・遺物が極めて良好な状態で残っていましたので、その保存を求める県民の強い要望もあり、日本庭園計画を中止し文化財を生かした公園として整備し平成14年4月12日に開園した。
 動物園のあった場所の発掘調査の結果を基に、武家屋敷や土塀を復元し、
一般公開している。


広さは、外堀を含む・南北350m・東西295m・面積8,6ha 8町6反 東京ドーム1,7倍の広さで、丘陵の高さ約31m、発掘調査されて史跡公園として開園された面積は、2、9ha、
平成14年9月20日国指定の史跡公園に指定を受けた。

日本100名城第80番目に指定されている。


画像は、伊予の守護大名、河野通盛が築城した湯築城跡

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