EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

秋山好古 揮毫石碑紀行 40番目「今治市大西町 山之内」

2009年12月11日 | 往年の名車 メグロ
秋山好古 揮毫石碑紀行 40番目「今治市大西町 山之内」
 
秋山兄弟生誕地に今治市史談会菅氏の情報である。

石碑の由来:碑石建立は、好古と親交があった近藤大作氏が揮毫を好古に依頼して建立したと言われている。

碑石の石材は花崗岩であり、碑石裏面に建立に関係した建設者36名と世話人8名の氏名が刻印されているが判読は困難である。
碑石の周囲には桜が4本、松が2本植樹されている。
碑石の前に平成19年に大西町史談会が設置した説明版がある。

碑文解釈:衆心和暢化乃(しゅうしんわちょうかだい)成(せい):衆心⇒みんなの心が 
和暢⇒やわらぎのどかであれば(のびやか) 
化⇒教育は
乃⇒まさに(間違い無く)  
成⇒実ってゆく    
                               
   出展調査中


秋山好古揮毫の石碑写真集P28に掲載してある。
平成19年3月31日写真取材に行った。

1.碑   文:  衆心和暢化乃成
2.所 在 地:  今治市大西町山之内小山  「山之内薬師堂境内」
3.揮 毫 者:  好古
4.建 立 者:  建設連名:代表 近藤 大作
5.建立年月日:  昭和 3年 1月
6.石碑大きさ:  高さ 3m 30㎝ 横幅 1m 60  厚さ 13㎝
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秋山好古 揮毫石碑紀行 39番目「松山市和気二丁目」

2009年12月11日 | 往年の名車 メグロ
秋山好古 揮毫石碑紀行 39番目「松山市和気二丁目」
 
坂の上の雲ミユージアムからの情報である。

石碑の由来:伊豫十二景は、大正15年6月海南新聞社(現 愛媛新聞社)主催で読者の投票によって選定された愛媛県の名所名勝である。

2ヶ月の投票期間に120余の候補地があがり総投票数70万5315票の中から伊予史談会幹事6名の立会いのもと開票され結果第一位に鹿島・二位以下は、白猪の滝・極山の薬師・歌仙の滝・砥部銚子の滝・麻生金毘羅権現・久万の台・宮内天満宮・仙波ヶ嶽・重信川口・重信橋・和気浜の順である。13位から24位までは「裏伊豫十二景」として発表された。


秋山好古揮毫の石碑写真集P26に掲載してある。
平成19年3月13日写真取材に行った。

1.碑   文 :  伊豫十二景之碑 和氣
2.所 在 地:  松山市和気二丁目・和気海岸
3.揮 毫 者:  好古
4.建 立 者:  和氣村青年團
5.建立年月日:  昭和2年10月
6.石碑大きさ:  高さ1m78㎝ 横幅83㎝  厚さ45㎝
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秋山好古 揮毫石碑紀行 38番目「静岡県静岡市 洞慶院」

2009年12月11日 | 往年の名車 メグロ
秋山好古 揮毫石碑紀行 38番目「静岡県静岡市 洞慶院」
 
秋山兄弟生誕地運営委員会 宇都宮委員長のご子息から情報のである。

この石碑も刻印が浅く写真撮影は困難を要した。石碑の前に軽自動車が駐車して
あり持ち主を探し移動してもらうのに時間が掛かった。遠路松山から取材に来た
のに。その時間を利用して住職に石碑と好古の関係を聞くも代が変わっているの
で不明との由・・残念。

石碑の由来:題額「忠魂」は、陸軍中将従三位勲二等功三級 豊邊新作で、大正6年5月15日付けで騎兵監となる。(騎兵監は、教育総監の隷下にあり騎兵に関する人事・調査・研究を担う役職で豊邊新作は、好古の後任である。)

住職談話:建立者・三浦金蔵は、静岡市の出身である。記念碑建立の由来は、住職も代が変わっていて不明・・碑の裏面記載事項しか分からないとの由、裏面に建立の経緯が書いてあるが風化激しく判読困難。
石碑の題額「忠魂」も文字の刻印が浅く写真では見えない。


帰りは、以前からの願望で富士山を一周して帰った。この日の天候は曇りで翌日は朝から雨、御殿場から左回りで一周、朝霧高原で雨は上がったが富士山は雲の中である。
田貫湖畔で一泊し、翌朝素晴らしい富士山が見えいい写真が撮れた。車で行ったので疲労困憊であったが富士山を見て疲れも和らいだ。


秋山好古揮毫の石碑写真集P8に掲載してある。
平成19年5月16日写真取材に行った。

1.碑   文 :   愛馬追悼碑
2.所 在 地:  静岡県静岡市葵区羽島1840番地 洞慶院・参道入口
3.揮 毫 者:  陸軍大将正三位勲一等功二級  秋山 好古
4.建 立 者:  陸軍騎兵大尉従六位勲五等功五級 三浦 金蔵
5.題   額:   「忠魂」 陸軍中将従三位勲二等功三級  豊邊 新作
6.建立年月日: 大正 8年 4月 3日
7.石碑大きさ:  高さ 1m 65㎝ 横幅 82㎝  厚み 13㎝
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秋山好古 揮毫石碑紀行 37番目「中島町 姫ヶ浜」

2009年12月11日 | 往年の名車 メグロ
秋山好古 揮毫石碑紀行 37番目「中島町 姫ヶ浜」
 
松山市役所からの情報である。

石碑裏面に、 石工・油田 恵とあり、日清・日露戦役で戦死された方々の慰霊のため、御大典記念に碑を建立した。碑石は、戦地方面に向き裏面に数名の姓名が記載あるが、刻印が浅いのと風化で判読不能である。
好古揮毫との経緯は不明である。



秋山好古揮毫の石碑写真集P40に掲載してある。
平成18年10月30日写真取材に行った。

1.碑   文 :  忠魂碑
2.所 在 地 :  松山市中島町 「姫ヶ浜」
3.揮 毫 者 :  陸軍大将 秋山好古
4.建 立 者 :  記載なし
5.建立年月日 :  昭和3年11月「御大典為記念」
6.石碑大きさ :  高さ1m 64㎝ 横幅 74㎝  厚さ 26㎝
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秋山好古 揮毫石碑紀行 36―1番目番外

2009年12月11日 | 往年の名車 メグロ
秋山好古 揮毫石碑紀行 36―1番目番外
「東京世田谷区児童遊園地」
 
36番石碑の傍にある碑で番外として紹介する。

明治22年この地に騎兵第一連隊がおかれ、大正11年に西 竹一(昭和7年1932年に開催のロサンゼルスオリンピック馬術競技の金メダリストであり、陸軍中佐、先の大戦で、戦車第26連隊長を務め硫黄島にて戦死した。)が配属されて来た。その後陸軍騎兵学校へと進み卓越した馬術を身に付けた。

今年5月17日千葉県習志野市大久保町に、秋山好古顕彰碑が建立除幕式に陸軍中佐・「西 竹一」の後輩である元騎兵連隊所属・田中賢一氏(91歳)が、除幕式に陸上自衛隊習志野駐屯地第一空挺団儀礼ラッパ演奏隊の奏でる中、好古顕彰碑に向って最敬礼をされた。

田中さん曰く「好古が率いる日本騎兵隊が世界に誇るコサック騎兵隊を破る事が出来たのは、好古の卓越した統率力と、永沼中佐と二人で創り上げた挺身隊の活躍があっての事」と言われた。

さて、石碑の話に戻るとして、36番で紹介した石碑の左横に大きな碑がある。これは好古が建立したに日清戦争の鎮魂碑と、名和長憲が建立した日露戦争時の鎮魂を合祀して両名が再建した。

碑文は「明治27・8年及37・8年戦役 表忠碑」揮毫は、陸軍中将大勲功4級 仁親王とあり、裏面には、戦病死された氏名と、明治28年9月 陸軍騎兵中佐 秋山好古建立 明治28年9月陸軍騎兵中佐男爵 名和長憲 再建と連名で記載されている。

騎兵第一連隊跡に建立された石碑は、騎一会事務局「渋谷区上原」が管理していたが代表者が死亡し会が消滅、平成16年11月18日以後連絡不能、その後は世田谷区役所が管理している。

敷地は、財務省関東財務局管財部の管理地で、財務省から何時撤去命令が出るか分からない。右にある好古揮毫・建立石碑に付いては、命令が出た時点で世田谷区役所の指示に従い秋山兄弟生誕地に引取る事を公文書で申請している。



秋山好古揮毫の石碑写真集に掲載してない。
平成18年10月6日写真取材に行った。

1.碑   文 :明治27・8年及37・8年戦役 表忠碑
2.所 在 地:東京都世田谷区池尻4丁目「官有地」 池尻4丁目児童遊園
3.揮 毫 者:陸軍中将大勲功4級 仁親王
4.建 立 者:陸軍騎兵中佐 秋山好古建立 陸軍騎兵中佐男爵 名和長憲再建
5.建立年月日:明治28年9  明治39年11月 
6.石碑大きさ:計測してない
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