EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

秋山好古生誕165年祭開催

2024年01月15日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

秋山信三郎好古生誕165年祭で挨拶をされる「秋山好古令曽孫 秋山 健」様

(画像は、令和6年1月9日、常盤同郷会提供)

地元紙「愛媛新聞」秋山好古生誕165年祭 開催記事。

 

令和6年1月8日、松山市歩行町二丁目3番地6・秋山兄弟生誕地・公益財団法人常盤同郷会 武道場で開催された 秋山信三郎好古生誕165年生誕祭の様子です。

何時もなら、私は、記録写真係として参加しておりますが、今回は体調を崩し参加出来ておりません。これからの画像は、秋山好古生誕160年祭の時の画像を掲載いたしております。(平成31年1月6日私が撮影)

 

                                  秋山好古生誕165年祭 開催 次第

                  記

式次第

1、開催日時  令和 6年1月8日 午前 9時30分 式典

2、場  所  松山市歩行町二丁目3番地6

        秋山兄弟生誕地 (公益財団)常盤同郷会 武道場

3、開催内容と時間

        秋山好古165年祭(安政6年1月 7日生)

        生誕祭式典次第

4,開式の辞

5,国歌斉唱  国旗に注目・君が代斉唱

6,主催者挨拶 公益財団法人常盤同郷会 理事長 山崎 薫

7,来賓祝辞  愛媛県知事代理 県観光スポーツ文化部スポーツ局長 江里 寿樹 様

        松山市長代理 坂の上の雲まちづくり部長 家串 正治 様

        秋山好古令曽孫 秋山 健 様

8,記念談話  ロシア兵墓地保存清掃の今日的意義 菅田 顕 様

        勝山中学校のロシア兵墓地奉仕活動への取組について

             松山市立勝山中学校2年 中村 凛胡さん

        常盤同郷会賞 受賞者スピーチ(令和3年度受賞:現20歳)

             愛媛医療センター付属看護学校2年 福島 麻央さん

        常盤学舎OBスピーチ

             愛媛県立松山北高等学校新任教諭 菊池 祐児さん

9,来賓紹介

10、鏡開き

11、秋山兄弟武道場 柔道部・合気道部 稽古始奉納

12、閉式の辞

祝賀餅つき大会(秋山兄弟生誕地の庭で)

 餅つき杵つき始:来賓の希望者・一般参加の希望・合気道部員希望者・柔道部員希望者が餅をつき参加者全員に餅5個を袋に入れて配布しました。

(秋山好古165年祭 式次第等資料は常盤同郷会事務局からの提供です。)

これから掲載する画像は、平成31年1月6日開催した秋山好古生誕祭160年祭の時の画像です。

(平成31年1月6日私が撮影)

秋山兄弟生誕地正面入口。(画像は、平成31年1月6日 開催160年祭の時)

主催者挨拶:公益財団法人常盤同郷会 理事長 山崎 薫

秋山好古生誕祭(画像は、平成31年1月6日 開催160年祭の時)

ご挨拶をされる、中村時広愛媛県知事(画像は、平成31年1月6日 開催160年祭の時)

中村時広愛媛県知事は、松山市長時代「小説・坂の上の雲」を基軸としたまちづくりを構築され、それを野志松山市長が継承され観光地「坂の上の雲松山」として全国にその名を轟かせた。

NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」が、平成21年11月29日から平成23年12月25日3年間に渡って放映され、松山の街は賑わった。・・その仕掛け人が中村時広愛媛県知事で、「この壮大な物語は、伊予・松山から始まる。」・・であった。

視聴者からの強い要望で、秋山兄弟生誕地が中心となり、再放送の署名運動が行われ、平成26年10月5日(日)~平成27年3月29日(日)毎週日曜日正午~45分間全26回、BSプレミアムで再放送された。

ご挨拶をされる、野志克仁松山市長様

秋山信三郎好古生誕祭(画像は、平成31年1月6日 開催160年祭の時)

祝賀餅つき大会。

秋山信三郎好古生誕祭(画像は、平成31年1月6日 開催160年祭の時)

祝賀餅つき大会。

秋山兄弟生誕地研究員・合気道・柔道部父兄会の皆さんが餅に仕上げる。

秋山好古生誕祭(画像は、平成31年1月6日 開催160年祭の時)

大勢の参加者で祝賀餅つき大会は行われた。(秋山兄弟生誕地の庭で)

秋山好古生誕祭(画像は、平成31年1月6日 開催160年祭の時)

視聴者からの強い要望で、秋山兄弟生誕地が中心となり、再放送の署名運動が行われ、3万人を超える署名簿を添付してNHK松山放送局に「NHKスペシャルドラマ坂の上の雲再放送」の陳情した時の写真。

右から、竹田祥一愛媛県議会議員・野志克仁松山市長・中村時広愛媛県知事・宮村泰司NHK松山放送局副局長・平松昇公益財団法人常盤同郷会理事長・宇都宮良治同常務理事。

秋山兄弟生誕地に、再放送決定速報がNHK松山放送局から届き速報でこの事を掲示した。

地元新聞も速報で記事を出した。

松山市の商店街では、各店舗ごとにポスターを掲げ祝った。

松山市の商店街では、各店舗ごとにポスターを掲げ祝った。

 

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令和に改元され早くも6年、新しい年を迎えて 初詣

2024年01月11日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

神社の社号額・石碑の文字全て三輪田米山揮毫です。

神社入口に、大きな注連(しめ)石(いし)と社号碑があり左に「魚躍」右が「鳥舞」で、書道家三輪田米山の揮毫で、米山は、日尾八幡神社神官三輪田清敏の長男、名は「常貞」で号を「米山」と称しました。

社号碑「県社日尾八幡大神」・注連石に「鳥舞」「魚躍」は明治13年10月、米山60歳の時の揮毫で、書家米山の切っ掛けとなった代表の書「鳥舞・魚踊」です。

日尾八幡神社前には、後藤酒造「久米の井」があった。(一昨年3月で酒造業から撤退)此処によく行き酒を飲んでは揮毫していたそうです。

日尾八幡神社周辺の神社の社号碑や注連石は米山が揮毫した碑が沢山あります。
明治時代の軍人で、陸軍の三太郎と言われた一人に「仙波 太郎・中将」がいたが、現在の松山市福音寺町の出身で、三輪田米山塾で教えを受けたそうです。

※ 陸軍の三太郎とは、宇都宮 太郎(陸軍大将)・桂 太郎(第11代内閣総理大臣)・仙波 太郎(陸軍中将・衆議院議員)です。

なお、日尾八幡大神の楼門の「社号額」の揮毫は、三輪田米山です。

1月2日午後、我が家の氏神様である日尾八幡神社に初詣に行って来ました。

例年は、1月3日箱根駅伝の総合優勝を確認して初詣に行くのが私の行動ですが、1月3日は、降雨予報が出ていたので2日に行きました。

私の正月の過ごし方は、例年通りで、元旦は、実業団駅伝、2日・3日は、関東大学箱根駅伝をTV観戦して総合優勝を確認して、3日の午後3時頃日尾八幡神社に初詣に行きますが、今年の3日は午後雨天の天気予報でしたので、本年は2日関東大学箱根駅伝往路の結果をTV観戦し終えてからお参りに行きました。

1月2日は画像の通りいい天気でした。

この日、松山の外気温は14、1度でした。(我が家で測定)

なお、愛媛県出身のランナー4人が力走、1区では、宮岡幸大選手、法政大学(宇和島東高)・同じく1区を走った巻田理空選手、神奈川大学(松山商業高)2区を走った梅崎蓮選手、東洋大学(宇和島東高)・4区では、久保昇陽選手、日本大学(松山商業高)各選手が懸命に走った。

               日尾八幡神社の楼門

氏神様である「日尾八幡神社」の所在は、松山市南久米町、旧国道11号線沿いに位置し、松山市小野地区・久米地区・石井地区の一部の氏子を祭事する神社です。

なお、日尾八幡大神の楼門の「社号額」の揮毫は、三輪田米山です。

私の中学時代の同級生が日尾八幡神社の娘さんで、現在は結婚し東京都杉並区に在住している。2年に一度開催していた中学の同期会には何時も出席してくれていました。

楼門に飾られた立派な大きな「注連縄(しめなわ)・門松・そして国旗(日章旗)」です。

近年各家庭では、国民の祝祭日に国旗を揚げて祝するという気概がなくなり、国旗を掲揚する家庭が激変しました。・・何故でしょうか?・・皆さん何故だと思われますか。

さーこれから158段の長い石段を上り拝殿に行きお参りをいたします。

158段の長い石段、中程から拝殿を望む。・・一休み!!

158段の長い石段の中程に、あまり知られてない小さな社があります。
それは「黒田霊社」です。

祭神は、黒田九兵衛霊

県社日尾八幡大神縁起に「黒田霊社の由来」の項があり次の様に伝えています。

黒田霊社の由来:

慶長5年9月15日関ヶ原の戦に伊豫国松前城主加藤嘉明は東軍に属し3,000人の将士を率いて美濃(関ヶ原)に進軍した。

その虚に乗じて西軍の雄、芸州毛利輝元は家臣、村上掃部、能島内匠、曽根兵庫、宍戸善右衛門等を将として松前城を襲わしめた。

芸軍凡そ三千余騎、百余艘の兵船に分乗して芸州軍は興居島に到り、さらに三津浜に上陸して民家に宿営したのが慶長5年9月18日のことで、伊予の関ヶ原と言われる激戦があった。
この時、松前城の城代、佃次郎兵衛十成はひそかに兵を率い夜に乗じて三津に押し寄せ民家に火を放して陣営を破り、大いに芸軍をなやまし敵将村上・曽根・能島らをはじめ数多の将士を打ち取ったが、残兵はなおも逃れて久米村如来院(現・松山市南久米町、日尾八幡神社直ぐ傍)に立てこもった。

これを追撃する佃十成の軍に黒田九兵衛という勇士がいた。

衆に抽んでて如来院に馳せ付け悪鬼の如き勢をもってその門を破り、うち出す弾雨の中を物ともせず門内に討ち入り、数多将兵を打ち取りなおも奮戦を続けるうち、惜しいかな敵弾を受け戦死をとげた。即ち予に言う久米の戦いである。
この豪勇の士、黒田九兵衛を祀った墳を黒田塚と呼び、里人が病を患い苦しむ時この塚に線香をたむけて祈れば必ず平癒すると言い、これを崇めて一社の神に祈ったのがこの黒田霊社である。

昭和35年4月刊行「日尾八幡大神縁起」より引用。

この戦いで、敗北していれば関ヶ原の戦いに東軍として戦い、武勲を挙げた加藤嘉明は帰る城がなかった。留守を守った城代、佃次郎兵衛十成に対し、嘉明は、松山城築城の際「北之郭」を造り之を与えこの功績に答えたのである。
松山城の北之郭は、佃次郎兵衛十成、一代だけの居住であった。

158段の長い石段を登り詰めると日尾八幡神社神の拝殿があります。

参拝される、日尾八幡神社の拝殿の様子で、今年は賽銭箱が新調されておりました。

「令和6年能登半島地震」でお亡くなりになられた方々のご冥福と、そして被災されました皆様方の一日も早いご復興と平穏な日々が訪れますように心からお祈りいたしました。

私に出来る事は限りがあり、微々たる事しか出来ませんが義援金等でご支援させて下さい。

拝殿右側に「役目を終えた昨年の御札の「納札所」が創られていました。

旧お札や注連飾りは、1月15日の小正月に火祭りとして行われる「どんど焼き」として神職が神社境内で行います。

拝殿左側、春日大社入口には、おみくじを頂く特設を設置、今年の正月も気温が高く好天で巫女さんも楽であっただろう!!ご苦労さまです。

おみくじを頂き、内容を確認して、おみくじを結んでいました。

楼門左には、大きな石碑「忠魂碑」が建立されています。

旧愛媛県温泉郡久米村から、日清・日露・大東亜戦争に出征され戦死された方々の慰霊碑です。

忠魂碑は、明治100年記念として昭和35年10月23日建立されました。

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令和 6年 新年のご挨拶

2024年01月03日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

        (画像説明:現存12天守の一つ「伊豫松山城・日本三大連立式天守」)

皆様 新年明けましておめでとうございます

謹んで新春のお祝詞を申し上げます

平成21年7月15日に開設いたしました私のお粗末なブログ、昨年もご覧頂ありがとうございました。

今年も拙いブログですが継続して行きますのでご覧頂き、そして是非ご批判頂きますと共にご指導ご鞭撻の程よろしくお願い申し上げます。

元日早々の地震発生「令和6年能登半島地震」そして昨日(1月2日)羽田空港での飛行機事故と多難な年明けとなりました。

この度の令和6年能登半島大規模地震により犠牲となられた方々に心よりお悔やみ申し上げますとともに、被災されました皆様に心よりお見舞い申し上げます。

被災地域の皆様の安全確保、そして一日も早い復旧・復興を心よりお祈り申し上げす。

お身体にはくれぐれもお気を付けて下さい。

私に出来ることは限りがありますが、義援金等で支援したいと思います。

羽田空港での接触事故に際し、お亡くなりになられた方々のご冥福と、お怪我をされた方々の一日も早いご回復をお祈りいたします。

そして絶賛したい下記のこと!!

緊急脱出に乗客367名を手際よく誘導された客室乗務員さん達、阿吽の呼吸で行動された行為に敬意を表します。(日頃幾ら訓練されていても出来ないことを100%ミスなく行われた・・凄いことです。)

令和 6年 1月3日

    (画像説明:十代目 坂東三津五郎さんお勧めの伊豫松山城の風景)

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松山の偉人伝 その1 井上 要&秋山 好古

2023年12月13日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

井上要は、実業家、政治家で、教育分野にも理解のあった愛媛県政財界の中心人物であった。

慶応元年、伊予国喜田郡菅田村(現・大洲市)庄屋の有友平衛の長男に生まれ、同村士族井上家の養子となる。その後松山市大字豊坂町2丁目(現・柳井町3丁目)に居を設け活動した。

明治39年伊予鉄道の社長となり、伊予水力電気、松山電気軌道などを合併して伊予鉄道の基盤をつくり、松山商工会議所会頭などを歴任した。

四国初の松山高等商業学校(現・松山大学)の創立にも尽力した。昭和8年、伊予鉄道電気会社会長と、松山商工会議所会頭を辞職、退職金を県立図書館建設資金に寄贈し、松山の発展に貢献した偉人三傑の一人と言われ、

伊予鉄道を創立したのは小林信近であったが、小林は同社の生みの母、井上は育ての父であると言われた。

また、道後にグラウンドを建設してスポーツ振興に大きく貢献し、伊予教育義会会長でもあった井上要は、各分野に於いて卓越した手腕から四国の渋沢栄一とも言われたた。(渋沢栄一とも親交があった。)

昭和18年3月18日、三津浜町新浜の別宅で逝去、享年79歳であった。

晩年の井上 要

四国で初めての創立、松山高等商業学校(現・松山大学)開校、北豫中学の運営、愛媛県立図書館の開館等々教育に貢献した晩年の井上要。当時の指導者たちは私利私欲をすて郷土の発展のために心身財ともに献身的な働きをされた。

下記の事項は、井上要の功績の一部である。

北豫中学校長、加藤彰(あき)廉(かど)が松山高等商業学校(現・松山大学)初代校長として就任することになり、北豫中学では理事会を開催し、後任の校長に何方にお願いするかが議論された。井上代表理事は、後任の校長には、秋山好古陸軍大将しかないと考えていた。理事会では、予備役とはいえ陸軍大将を田舎の中学校長にお願いするのは大変失礼な事であるからと就任依頼をしないことで一致した。しかし井上要代表理事は他の理事の反対を押し切って、東京四谷に居た秋山好古を訪ねて次のように要請したのである。

「いま、北豫中学校の校長の適任者がいないのでこまっております。暫しの間、名前だけで結構ですので出して頂き、将軍が松山にお帰りになった時、学校に来て生徒達と遊んで頂くだけで結構です。どうかお名をお貸し下さい。」・・と願い出た。

すると好古は、それではいかんだろう!!私は中学校の事は何も知らんが、外に人がいなければ校長の名前は出してもよい。何でも奉公するよ・・との言葉を頂いた。応答は10分で好古校長就任の金的を撃ち落とし使命を果たした。井上は、鼻高々と松山に帰りこれを報告した。好古は、井上理事に「大正13年2月20日頃松山に帰るからと伝えた。」

新年度に入る前に、秋山大将は、親友の新田長次郎氏と連れだって期を違えず北豫中学校に登校したのであった。時まさに、大正13年3月の事であった。

秋山校長が就任した初年度の卒業証書。(秋山兄弟生誕地所蔵)

大正12年、元帥に推薦されるも秋山大将はこれを辞退した。大元帥(大正天皇)は大変驚かれた。(元帥を辞退したことは謎である。)

大元帥は、特旨として官位従二位を与えた。陸軍大将がそれも元帥を辞退して、肩書である、官位従二位を持つ校長は全国に誰も居なかった。

伊豫の松山、田舎の中学校校長に就任することは考えられぬ出来事で、当時日本の大きな話題になり珍事で、各新聞に大きく報道された。暫くのあいだそして松山に帰られた時学校に来て頂き、生徒と触れ合ってくださるだけでいいのが、なんと大正13年3月から昭和5年3月31日までの6年間、それも無遅刻無欠勤(公務で主張以外)で登校し校長を努めた。

担任の教師が休むと休講自由時間となるが、秋山校長は、自ら教壇に立ち授業を進め、休講にしなかった。

明教館(伊豫松山藩藩校)で基礎教育を身に付け、大阪高等師範学校で、陸軍士官学校で、陸軍大学校で学んだ知識を駆使して授業をした。(校長が教壇に立ち授業をする・・前代未聞である。)

当時こんな各種の学校で学んだ人物は秋山好古だけで、凄いことは元帥に推薦されるもこれを辞退、その人物が北豫中学校長である事であった。(軍人時代教育総監に抜擢されている。)

この様な事態なので、北中に入学する生徒が多くなり、校舎を増築伊豫松山の青少年教育のそれも文武両道の教育振興に尽力したのであった。

北中校長時代、教師からそして生徒達から、軍人時代の話をせがまれても一切話しはしなかった。私は、教育者であって軍人ではないときっぱりと断ったそうだ。

好古校長は、足の具合が悪くなり昭和4年3月31日付で北豫中学校長の辞任届けを提出するも井上要代表理事は受理せず、辞任は1年延期となった。

約束通り、昭和5年3月31日をもって校長を辞任した。

上記の事は、全て井上要氏が計画した方針に載せられて秋山好古が歩んだ晩年の出来事であった。母の教えも大きかった「大きくなったら、世のため・人のため・そして故郷のため」に尽くせる人となるように」と躾育てられた。その通りに生き抜いた好古の人生であった。
 その原点は、親友である新田長次郎と共に熟読した「福沢諭吉の学問のすゝめ」であった。

有名な一文に『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』二人の座右の銘は「独立自尊」で、そして秋山好古の信条は「簡単明瞭・質素・倹約」男系の子供・孫達は慶應義塾大学で学んでいる。

追記:

全国中学校長会議は、東京で開催されていたが、何時も上京し会議に列席、その時は常に謙虚な態度で、少しも大将などという顔おせず、会議次第に従え、他の校長達に対しても終始同僚として相接したので他の校長たちは、将軍を敬慕し、その人格に非常な尊敬を感じていた。

会議は、常に日比谷の府立第一中学校(現・東京都立日比谷高等学校)で行われ、休憩時や昼休みには他の校長たちと一緒に運動場に出て生徒達と過ごした。

生徒達は、「あれ誰だ」「あれは秋山大将だよ」と生徒達にささやかれた。

東京の新聞には、次の事が報じられた。「元帥を辞退し、錦をステテ故郷の中学校長となった秋山大将、三日にして第一中学生と化す。」「若い学生のあの純眞さが尊い。あれはそのまま成長させねばならぬ。私の学校には千人ほどの学生がいますよ」・・とさも心地よく語ったと新聞は報じた。 

井上 要は、多種多様にわたり松山の発展に尽力した偉人である。

北豫中学校長在任6年間、文武両道の教育を行い伊豫松山の青少年教育に多大なる尽力をした。

東京に帰る時大阪の新田長次郎氏宅を訪ね一夜を語り明かし、そしてその夏新田長次郎が経営する北海道の牧場を訪ね飼育指導をした。

同年11月4日、東京の陸軍軍医学校病院に於いて逝去、享年72歳であった。

 この事を知った新田長次郎は、信さんは私に別れの挨拶をしに大阪に来てくれたのであったか!!もっといろんな話をしたかったと号泣されたそうだ。

画像は、秋山兄弟生誕地所蔵

北豫中学校長時代の秋山好古。(秋山兄弟生誕地所蔵)

画像は、秋山好古、昭和5年3月31日付で、北豫中学校長を辞任し東京に帰る時、同年5月親友の新田長次郎宅を訪れた。・・大阪の新田長次郎宅で永久の二人の最後の写真である。

秋山好古は、同年11月4日逝去 享年72歳であった。新田長次郎、昭和11年7月17日逝去80歳であった。

愛媛県立松山北高等学校(旧・北豫中学)正門傍に建立されている井上要像。

題額「井上要君像」の揮毫者は不明であるが、銅像の彫刻家は、横江 嘉純の作で、銅像裏面に「昭和13年11月 元社團法人 北豫中學會 建」と揮毫されている。

昭和11年1月11日 井上要が銅像建立委員長となり道後公園内に秋山好古騎馬像が建立されたがこの像も横江 嘉純の作である。

参考事項:

横江嘉純は、富山県出身の彫刻家で明治20年5月3日生まれ、東京美術学校(現、東京芸術大学)卒、有名な彫刻家である。

井上要翁頌徳碑

昭和17年12月19日県立図書館前に建立、除幕式が行われた。

昭和50年図書館が堀之内(松山城三ノ丸)に新設移転時に梅津寺パーク入口に移設された。「井上要翁頌徳碑」の揮毫は、徳富蘇峰で徳富蘆花の兄である。

道後公園の西側に建立したあった秋山好古の騎馬像と、その前に、秋山眞之の立像があった。しかし残念に昭和19年、大東亜戦争の金属供出で秋山兄弟の銅像は供出された。左奥に見えるのが秋山眞之の銅像。

秋山好古は、生前「銅像創るな・石碑もいらぬ・家も要らない・墓も創るな」と言い残し昭和5年11月4日:東京陸軍病院で逝去 72歳の大往生、教師で社会人となり、教師で世を終えた。・・軍服と言う甲冑を着ていた時期が長かったが中身は、大阪高等師範学校仕込の筋金入りの教育者であった。

画像の騎馬像は、昭和11年松山の関係者がもうそろそろ銅像を創っても好古さん、許してくれるだろうとの事で道後公園の西側に建立した。しかし残念に昭和19年、大東亜戦争の金属供出で潰された。画像は、建立当時の秋山好古騎馬像である。

井上要は、秋山好古騎馬像建立委員長となり銅像製作をした。

道後公園にあった好古騎馬像である。

秋山将軍を北豫中学校長に迎え入れた井上要は将軍の死後、生前の高徳を慕い同志とはかり自ら建立委員長となり銅像製作を東京の彫刻家、横江嘉純に依頼設計共々一任した。

像は最初立像の予定であったが、「騎兵の秋山か」「秋山の騎兵か」と言われた将軍の銅像を馬から下ろす事は、好古の真面目と真骨頂とを失うものとの意見多く遂に騎馬像に改められた。横江氏は、深く好古の人格と偉勲に感銘し物資の報酬を超越し芸術的良心を将軍の性格行跡を極め特に馬に関しては専門家に就いて熱心に研究、好古の副官であった山内少将を度々乗馬モデルとしてその努力は驚くものであり、風貌姿勢等は好古の近親者の詳細綿密な注意と指導とにより度々改更修整を経て一つ一つ実物とほぼ同じ銅像が出来たのである。

昭和11年1月11日近親者をはじめ、北豫中学校職員生徒600名、松山連隊兵500名、地方官民有力者多数参列、銅像建設委員長式辞・陸軍大臣・第11師団長、県知事・市長の祝辞、遺族代表秋山信好氏の答辞、銅像の台石には、同郷の後輩、陸軍大将川島義之の筆による頌(しょう)功(こう)分が刻まれてあった。

(川島義之は2・26事件当時の陸軍大臣)

秋山兄弟生誕地にある秋山好古騎馬像は、昭和11年(1936)道後公園「中世の城郭跡・湯築城」内に騎馬像が建立されたが、先の大戦中に金属供出でつぶされた。幸いそのレプリカの一つが県立松山北高等学校に保存されていたので其れを参考に原作者の子孫の監修も受けて当時と同じ大きさに復元した。

 製作地は、富山県高岡市で、重さ:800Kg、高さ:3m、台座巾:2,5mのブロンズ像である。

 好古の乗馬姿は、ヨーロッパ諸国を視察の際フランスに立ち寄った、山形有朋に直訴し、その後日本の騎馬隊の原型となった、フランス式の乗馬姿勢である。(ドイツ式は、見た目には綺麗な姿勢だが、長時間乗馬すると非常に疲れるし日本人の体型に合わなかった。)

秋山兄弟生誕地の建造物は、昭和20年7月26日、松山大空襲により焼失されたが、井戸と秋山両将遺邸之石碑が残った。なお、松山に対する空襲は、昭和20年3月18日から15回に渡り攻撃された。(海軍松山航空隊には、源田実大佐率いる第三四三海軍航空隊精鋭部隊がいたから)

画像は、平成18年1月18日復元された秋山兄弟生誕地である。

秋山両将遺邸之碑

昭和12年7月、秋山両将遺邸保存会 代表者:井上要が秋山兄弟と深い関わりのあった人たちが後世の人々にその功績を伝えるために建立した。

この石碑は、本来生家の表にあったが、この度の整備事業で、秋山好古騎馬像、秋山眞之胸像を生家前に建立するため、石碑は裏側に移設した。石碑に罅があるのは、平成13年3月24日、15時28分に発生した芸予地震、震度5強の揺れで倒壊し、その時に出来たもので、修復し再建立したものである。この石碑は、花崗岩で熱に弱く、松山大空襲の時周囲の火災の熱をかぶり、石の組織が弱くなっていて、芸予地震で倒壊した時に罅割れを起こした。

では、秋山両将遺邸之碑をご紹介いたしょう。

 

秋山両将遺邸之碑 

1.碑   文 :  別途説明(碑文の要約等参照)

          撰文、井上 要

2.所 在 地:  松山市歩行町二丁目3番地6、秋山兄弟生家裏

3.揮 毫 者:  題額、陸軍大将 南次郎

4.建 立 者:  記載無し

5.建立年月日:   昭和12年7月 秋山両将遺邸保存会 代表者:井上要

6.碑石大きさ:   高さ2m70㎝ 横幅1m50㎝  厚さ30㎝

7.石碑の由来:   井上要他秋山兄弟と深い関わりのあった人たちが後世の人々にその功績を伝えるために建                                 立した。

  8.題額を陸軍大将 南次 郎に揮毫依頼した。その経緯は不明である。

                        秋山両将遺邸之碑  陸軍大将 南 次郎

                        昭和十二年七月 秋山両将遺邸保存会 井上 要撰幷書

碑文
陸軍大将従二位勲一等功二級秋山好古君海軍中将従四位勲二等功二級秋山眞之君兄弟生誕ノ地タル松山城東中歩行町ノ邸宅ハ天保年間考久敬翁ノ構築ニ係リ環堵蕭然トシテ素朴ヲ極ム大将ノ晩年帰リテ北予中学校長ノ任ニ就クヤ旧屋中ニ起臥シ僅ニ墻壁ヲ修治セシノミ今ヤ両将既ニ館ヲ捐ツ遺邸ノ漸ク朽廃ニ帰セントスルヲ憂ヒ同志ノモノ其保存ヲ計ラントスルニ際シ久松伯爵及ヒ山下亀三郎新田長次郎氏等資ヲ投ジテ之ヲ助成シ旧邸ヲ購ヒ修補ヲ施シ且両将ノ遺品ヲ蒐集シテ永ク其徳風ヲ傳ヘントス而シテ其保護管理ハ挙テ松山同郷会ニ託シタリ同会ハ青年教養ノ為メ中将ノ創設セル所ニシテ大将モ亦曾テ舎長タリシヲ以テナリ是ニ於テ同会ハ更ニ其西隣ノ地ヲ求メテ会館ヲ移シ以テ旧邸管理ノ任ニ便スルコトヽセリ若シ夫レ両将ノ人格勲業ハ赫々トシテ人ノ耳目ニアリ復タ縷説ヲ要セザルナリ

 昭和十二年七月 秋山両将遺邸保存会 井上 要撰幷書

秋山両将遺邸之碑・題額揮毫:陸軍大将南次郎

秋山両将遺邸之碑の説明

秋山両将(あきやまりょうしょう)遺邸之碑(いていのひ)    陸軍(りくぐん)大将(たいしょう)南次郎書(みなみじろうしょ)

陸軍(りくぐん)大将(たいしょう) 秋山(あきやま)好古(よしふる)君(くん) 従(じゅう)二位(い)(官位十六階中、上から四番目)勲(くん)一等(とう)(国に尽くした功績の等級)功(こう)二級(きゅう)(軍人に対する勲章の等級)海軍(かいぐん)運中将(ちゅうじょう)秋山(あきやま)眞之(さねゆき)君(くん) 従(じゅう)四位(い)(官位十六階中、上から八番目)勲(くん)二等(とう)(国に尽くした功績の等級)功(こう)三級(きゅう)(軍人に対する勲章の等級)秋山(あきやま)真之(さねゆき)君(くん)兄弟(きょうだい)生誕(せいたん)ノ地(ち)タル松山(まつやま)城東(じょうとう)中(なか)歩行(かち)町(まち)ノ邸宅(ていたく)ハ天保(てんぽ)年間(ねんかん)考(こう)(亡父)久敬翁(ひさたかおう)ノ構築(こうちく)ニ係(かか)リ環堵(かんと)蕭然(しょうぜん)(狭い住居が貧しくてもの寂しいさま)トシテ素朴(そぼく)ヲ極(きわ)ム大将(たいしょう)ノ晩年(ばんねん)帰(かえ)リテ北豫(ほくよ)中学(ちゅうがく)(現松山北高等学校の前身)校長(こうちょう)ノ任(にん)ニ就(つ)クヤ旧屋(きゅうおく)(古家)中(ちゅう)ニ起臥(きが)(生活)シ僅(わずか)ニ墻壁(しょうへき)(囲いの壁)ヲ修(しゅう)治(じ)(修理)セシノミ今(いま)ヤ両将(りょうしょう)既(すで)ニ館(やかた)(立派な屋敷)ヲ捐(す)(すてる、)ツ遺邸(いてい)(のこる住宅)ノ漸(ようや)ク(だんだん)朽廃(きゅうはい)(荒廃)ニ帰(き)セントスルヲ憂(うれ)ヒ同志(どうし)ノモノ其(その)保存(ほぞん)ヲ計(はか)ラントスルニ際(さい)シ久松(ひさまつ)伯爵(はくしゃく)久松定謨(ひさまつさだこと)及(およ)ヒ山下亀三郎(やましたかめさぶろう)  新田長次郎氏(にったちょうじろうし)等(など) 資(し)(資金)ヲ投(とう)シテ之(これ)ヲ助成(じょせい)(シ)テ旧邸(きゅうてい)ヲ購(あがな)(買う)ヒ修補(しゅうほ)(つくろいおぎなう)ヲ施(ほどこ)シ且(かつ)両将(りょうしょう)ノ遺品(いひん)ヲ蒐集(しゅうしゅう)シテ永(なが)ク其(その)徳風(とくふう)(立派な心がけや功績)ヲ傅(つた)ヘントス而(しこう)シテ其(その)保(ほ)護(ご)管(かん)理(り)ハ挙(あげ)テ松山同郷會(まつやまどうきょうかい)(財団法人常盤同郷会の前身)ニ託(たく)シタリ同會(どうかい)(松山同郷会)ハ青年(せいねん)教養(きょうよう)ノ為(た)メ中将(ちゅうじょう)(秋山眞之)ノ創設(そうせつ)セル所(ところ)ニシテ大将(たいしょう)(秋山好古)モ亦(また)曽(かつ)テ舎長(しゃちょう)(常盤舎の監督、東京都文京区本郷四―一〇―一)タリシヲ以(も)テナリ是(これ)ニ於(おい)(碑文の字は俗字)テ同會(どうかい)(松山同郷会)ハ更(さら)ニ其(その)西隣(にしどなり)ノ地(ち)ヲ求(もと)メテ會舘(かいかん)(松山同郷会の道場、建物)ヲ移(うつ)シ以(もっ)テ旧邸(きゅうてい)管理(かんり)ノ任(にん)ニ便(べん)スルコトトセリ若(も)シ夫(そ)レ両将(りょうしょう)ノ人格(じんかく)勲業(くんぎょう)(功績)ハ赫々(かっかく)(光り輝くさま)トシテ人(ひと)ノ耳目(じもく)ニアリ復(ま)タ縷説(るせつ)(こまごまと説明すること)ヲ要(よう)セザルナリ

昭和十二年七月 秋山(あきやま)両将(りょうしょう)遺邸(いてい)保存會(ほぞんかい) 井上(いのうえ) 要(かなめ)撰(せん)(著)并(へい)書(しょ) 

碑文の要約

秋山好古、秋山眞之両将軍の旧邸は、天保年間、父久敬翁がこの地に建立したと伝えられる。
兄弟はこの質素な家に生まれ育ち、好古将軍は退役後ここに住み北豫中学校の校長として子弟の教育に尽した。
秋山兄弟はすでに亡くなられたので、兄弟とゆかりの深い伯爵久松定謨、山下亀三郎、新田長次郎らが資金を集め西隣地も購入し、その管理を常盤同郷会に委嘱した。
両将軍の功績は、あらためて記す必要のない程偉大であり、誰もが知るところである。
昭和12年7月 秋山両将遺邸保存会 井上 要

 

秋山両将遺邸之碑に記載してある人物紹介

1,陸軍大将南次郎:(1874年8月10日~1955年12月5日、81才没、大分県豊後高田市生れ、陸相、朝鮮総督、貴族院議員、A級戦犯となる)

2,陸軍大将秋山好古:(1859年1月7日~1930年11月4日、71才没、松山藩士秋山久敬三男、北予中学校校長は1924年4月~1930年7月、墓所は青山霊園(松山市鷺谷共同墓地は分骨)

3,海軍中将秋山眞之:(1868年3月20~1918年2月4日、49才没、松山藩士秋山久敬五男、1887年松山同郷会を結成、1890年海軍兵学校を首席で卒業、1905年連合艦隊首席参謀)墓所は鎌倉霊園

4,久松伯爵(定謨(さだこと):(1867年9月9日~1943年2月19日、75才没、松山藩最後の藩  主(定昭)の嗣子(しし=あとつぎ)、 陸軍少将、 東京に学生寮「常盤舎」を設立、1921年松山城の麓に萬翠荘を建築、模範農園を設置)伊予松山城存続に尽力 久松家第17代当主

5,山下亀三郎:(1867年4月9日~1944年12月13日、77才没、元宇和郡河内村出身、1882年上京し明治法律学校に学ぶ、実業家、山下汽船創設者、参議、山下実科高等女学校(現吉田高校)、第二山下実科高等女学校(現三瓶高校)を設立)

6,新田長次郎:(1857年5月29日~1936年7月17日、79才没、元温泉郡山西村出身、実業家、1885年製革業を創業、1902年緑綬褒章を受章、1911年大阪市難波に私立有隣尋常小学校(現、大阪市立栄小学校)を設立、1923三年私立松山高等商業学校(現、松山大学)を設立、温山と号す)

7,井上要:(1865年5月5日~1943年3月18日、77才没、元喜多郡菅田村出身、実業家、有友兵衛の長男として生る、1883年井上コンの養嗣子となる、1885年独学して代言人試験に合格、1888年東京専門学校(現早稲田大学)に留学、1906年元伊予鉄道社長、1890年県会議員、同年12月同議長1902年衆議院議員、1903年11月愛媛進歩党を結成、1913年伊予水力電気会社社長を兼務し

て1916年伊予鉄道会社と合併、1927年松山商工会議所会頭、1933年69才で伊予鉄道電気会社会長と松山商工会議所会頭を辞職、退職金を県立図書館建設資金に寄贈、伊予教育義会会長、北予中学校理事、松山高等商業学校理事、道後グランドを造成、伊予史談会を援助、高浜不去庵で悠々自適の生活、徳富蘇峰の撰になる頌(しょう)徳(とく)碑(ひ)は梅津寺公園にある)秋山好古を北豫中学校校長に就任以来した。

                                         以  上

 

平成18年1月18日復元された秋山兄弟生家の座敷である。

参考事項

千葉県船橋市にある「東邦大学習志野キャンパス(薬学部・理学部)」に陸軍大将 南次郎揮毫の立派な石碑が建立されている。

平成24年10月31日、東邦大学習志野キャンパス事務局の許可を得て撮影した。

陸軍大将 南次郎揮毫の石碑で、「武勇・信義・質素・忠節・禮儀」の文字が刻まれている。

東邦大学習志野キャンパス(薬学部・理学部)は、陸軍最初の“快速兵団”として 騎兵第1・第2旅団が創設され, 第13~第16騎兵連隊が置かれた。

南次郎は、騎兵13連隊第6代目の連隊長で歴代連隊長の中で一番厳しい連隊長であった。

特に礼節に厳しかった。また、騎兵連隊の中で一番の精鋭部隊で、平時の時は近衛師団に編入され、有事となれば騎兵第1旅団の配下となった。

騎兵隊は、昭和17年になって戦車部隊に改編された。

現在、騎兵第13連隊跡~騎兵第16連隊跡は下記の通りとなっている。

騎兵第13連隊跡:東邦大学習志野キャンパス(薬学部・理学部)

騎兵第14連隊跡:日本大学生産工学部

騎兵第15連隊跡:東邦大学付属東邦中学校・東邦大学付属東邦高等学校

騎兵第16連隊跡:現在空地

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松山観光コンベンション協会所属 松山観光ボランティアガイドの会・研修講演会

2023年11月28日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

松山の城下町は、関ヶ原の戦いで武勲を挙げた加藤嘉明が、徳川家康から伊豫の地20万石を拝領し、慶長7年(1602)1月15日勝山城(現、松山城)の建設を起こした。嘉明が旧松前城(正木城)から慶長8年10月家臣及び住民とともに居を新城下町に移しこの地を「松山」と言う名称が公にされた。これが松山市の始まりで、現在の50万都市に発展して、中四国で3番目の人口を抱える都市に発展した。(広島市・岡山市・松山市)

現在(令和5年11月1日)人口は、502,197人である。

松山市の観光地は、松山城と道後温泉の二ヶ所で、松山城は、現存12天守の一つ、江戸時代最後に創建された一番新しい天守である。

道後温泉は、日本書紀にも出てくる、日本最古の温泉といわれて(日本三古湯:道後温泉・有馬温泉・白浜温泉)いる。

そして、西暦596年10月、聖徳太子が道後に来浴され、明媚な風光と良質の温泉を推賞され、その感動を文章に表し、湯の岡(現在の道後公園辺り)に石碑を建てたことが

「伊予国風土記逸文」に記述されている。その石碑は現在不明となっており道後温泉別館 飛鳥乃湯泉の中庭に、聖徳太子の石碑を復元建立されている。

さて、松山市の観光拠点は、公益財団法人・松山観光コンベンション協会が、松山市内に5ヶ所観光案内所を設置しており松山の観光について、外国語パンフレット等もご用意しておりますので、ぜひ観光案内所をご利用ください。

なお、道後観光案内所には、観光業務担当で、道後温泉界隈は初め、市内観光の豊富な知識だけでなく観光者に案内をする言葉遣い、態度その仕草に温かみを持つ女性職員が携わっている。観光者の接客に温もりを感じ、楽しい旅を続けられる雰囲気が醸し出ている。

旅人も道後松山に来てよかったな!!と思う。

この態度は、幼少時に培わった躾で、人間3歳までに性格が殆決まると言われる。昭和の時代家庭教育学級が各自治体の教育委員会で開催されていた。この女性のご両親は良い家庭教育をされて育てられたと私は感じている。

(教育の三本柱:学校教育・家庭教育・社会教育で、家庭教育の専門家は両親である。)

なお、

道後観光案内所の所在は、伊予鉄道道後温泉駅前にあるビル「道後温泉観光会館」の1階にある。(カラクリ時計の直ぐ隣のビル)

松山観光コンベンション協会所属の松山観光ボランティアガイドの会ガイドも駐在しており希望者には、ガイドが現地に赴き観光案内をしている。

松山観光コンベンション協会所属の一組織として松山観光ボランティアガイドの会がある。

同会には、7つの部会があり(道後ガイド事業部・松山城ガイド事業部・FMG事業部・交流事業部・研修事業部・広報事業部・当番表作成チーム)各部は部長、副部長が事業に携わり取り扱う事務は全て奉仕活動である。

同会の現在の会員数は、108名が在籍しており、活動全て奉仕で主な活動は、観光ボランティアガイドである。

私もその一人で、松山城観光ガイドを行っている。(先日まで道後温泉ガイドを担当していたが現在活動休止している。)

先日、研修事業部会から、令和5年9月より「明治松山の偉人」と題して研修会(勉強会)を開催することになった。第3回目の研修会の講演を、11月13日(月)午後1時30分から演題は「秋山好古揮毫の石碑」に付いて話をするよう依頼があり講話をした。

公聴対象者は、松山観光ボランティアガイドの会員限定で、20名の会員があり私の拙い話を聞いていただいた。

時間は、1時間の予定が40分超過して1時間40分の話をした。

この講演会目的は、松山観光ボランティアガイドの会員がガイド活動をする一助になればとの趣旨で始めたことである。

画像は、その時のものである。

平成17年1月18日秋山兄弟生誕地整備事業が完成し、当日NHK朝の大型ニュース番組「おはよう日本」で現地から中継で全国放送された。

秋山兄弟生誕地所在地:〒790-0801 松山市歩行町二丁目3番地6

東京都世田谷区池尻にある石碑で秋山好古揮毫の石碑は現在全国に53基発見されている中で一番古い石碑である。

明治29年6月30日建立で、秋山好古が騎兵第1連隊長として日清戦争に出征、優秀な隊員15名が戦死した。その哀悼の意を表すために好古が揮毫し好古自身が石碑を建立した。

建立地は、国有地で国は関知しないと言っている。現在は世田谷区が管理している。

民間に土地が譲渡されるとこの石碑は撤去命令が出る。

53基の内一番新しい石碑。

平成21年5月17日千葉県習志野市大久保商店街に建立された秋山好古の顕彰碑である。

建立者は、習志野騎兵連隊史跡保存会である。

好古は、騎兵第1旅団長として習志野から出征し、この地に凱旋した。

除幕式には、森田千葉県知事も参列された。

平成21年5月17日、千葉県習志野市大久保商店街に建立された秋山好古の顕彰碑である。

建立者は、習志野騎兵連隊史跡保存会である。

石碑の形は、日本騎兵の育ての親と言われた秋山好古なので馬の形をしている。

日清戦争で第1騎兵連隊隊員として出征、そして戦死した15名の一人、添田賢次郎隊員の実父、添田保吉が建立した哀悼碑で、石碑上部の篆書と碑文は秋山好古の揮毫である。

石碑の所在地は、神奈川県平塚市広川。

秋山好古が明治29年6月30日建立した世田谷区池尻にある石碑裏面に、添田賢次郎隊員の名前が揮毫されている。

日清戦争で第1騎兵連隊隊員として出征、そして戦死した15名の一人、内田與作隊員の実父、が建立した墓で墓石名を秋山好古が揮毫した。

石碑の所在地は、長野県安曇野市豊科。

秋山好古が明治29年6月30日建立した世田谷区池尻にある石碑裏面に、内田與作隊員の名前が揮毫されている。

石碑の所在地は、千葉県船橋市薬円台三丁目20番1号、陸上自衛隊習志野駐屯地にある。

この地は、陸軍騎兵学校の前身である陸軍乗馬学校があった。明治21年東京市麹町区元衛町に創立、同24年に東京府荏原郡目黒村上目黒(現在の目黒区大橋二丁目)に移転、明治31年陸軍騎兵実施学校となり大正5年12月千葉県千葉郡二宮町(現在地船橋市)に移転、翌6年9月陸軍騎兵学校と改称された。習志野は、日本騎兵の中枢だったため軍馬慰霊碑が騎兵学校に建立された。日本騎兵の父と言われた第2代目騎兵学校長・秋山好古大将が揮毫して建立された。

題字は、好古が入院直前、昭和5年10月5日の筆で此れが秋山好古の絶筆である。石碑は、昭和5年11月に建立された。

軍馬慰霊の碑の前にある「軍馬慰霊の塔」

203高地は、当初あまり重要視されなかったが、旅順港停泊中のロシア海軍太平洋第一艦隊(通称旅順艦隊)に砲撃しようとする際、着弾を観測する兵を配置するのに最適な場所であると気づいた日本海軍連合艦隊の作戦参謀であった秋山眞之少佐が、この高地を攻略することを進言し日露戦争を決する重要な鍵を握る場所になった。

明治37年9月20日の総攻撃戦闘に新潟県中蒲原郡横越村の大町助作一等兵士も参加、露軍鉄條網切断の任に当たり目的は達成したがそのあと敵弾に当たり戦死した。

第8中隊所属の斉藤源次郎上等兵は、奉天に前進中盛京省田義屯地点に於いて露軍と激戦奮闘したが敵弾を受け壮烈な戦死を遂げた。

また清田幾平伍長は、ローゼンガルトフカの激戦で戦死した。

三名の陸軍兵士は、新潟県新潟市沢海地区(当時・新潟県中蒲原郡横越村)から出兵し名誉の戦死をされ村葬として明治37年12月3日に葬儀が行われた。

神田又一横越村長、阿倍浩新潟県知事、第15旅団長斉藤徳明大佐、他多数の関係者が参列し壮大に行われた。

大正2年7月に沢海地区の戦死者の英霊を祀り、後世に残して行くために忠魂碑を建立した。

揮毫は、当時高田市に駐屯していた第13師団長秋山好古中将に横越村長神田又一氏、横越村会議員大町為作氏が碑文「忠魂碑」を依頼したものである。現在も忠魂碑の前で慰霊祭が行われており、以上建立の経緯に付いては、当時横越コミュニティ協議会会長(現在北方文化博物館館長)・神田勝郎氏の詳細なる調査により判明した。

日本海側に秋山好古揮毫の石碑発見で一躍大きな話題となりNHK松山放送局も取材に新潟市に行った。

1.碑   文 :  忠魂碑

2.所 在 地:  新潟県新潟市江南区沢海二丁目15番30号 日枝神社

3.揮 毫 者:  陸軍中将 秋山好古

4.建 立 者:  賀表講

5.建立年月日:  大正2年7月 

6.碑石大きさ:  高さ 2m70cm 横幅 1m48cm 厚さ 42cm

秋山好古揮毫石碑「忠魂碑」新潟市市民文化遺産に認定される。

新潟市民文化遺産制度は下記の通りです。

「新潟市の郷土の宝を再認識を促す」 を目的で、認定基準は「郷土の歴史や文化を象徴しているもの「世代を超えて地域で 受け継がれ、今後も保存すべき貴重なもの」とする・・が対象です。

 対象となる文化遺産は「建造物・旧跡・記念碑・芸能・有形・無形文化財の等々」だそうです。

特記事項として、新潟市江南区横越地区遺族会の皆さんは、現在も忠魂碑の前で毎年慰霊祭を開催されており、私も平成22年9月6日の慰霊祭に参列させて頂きました。

平成26年当時、市民文化遺産制度を制定していた自治体は、岩手県遠野市・京都市・新潟市の3市のみであった。
松山市にある秋山兄弟生誕地の関係者の一人としてこの度の市民文化遺産認定は本当に嬉しい事であります。

昭和3年清水小学校開校記念と御大典記念に建立された天壌無窮の石碑が校庭に建立された。

GHQ(連合軍最高司令部・日本の戦後処理をする最高機関)が行った⇒5代改革の一つ、教育改革の中で、教育施設内及びその周辺にある軍人が揮毫した石碑・扁額・軸物の撤去命令が各都道府県に通達された。

これに該当した好古揮毫の石碑が2基、扁額が2枚ありました。 

この石碑は、松山市立清水小学校が昭和3年に開校され、奇しくも同年、昭和天皇即位の御大典が行われた。この事を記念して、同校の20数名の先生方が醵金をして校庭に建立した。昭和20年11月GHQの命令を受けた松山進駐軍第24師団司令官・トーマスD、ドレーク陸軍大佐から撤去指示が出され撤去された。

同校の用具室に保管してあった石碑を、平成7年10月、渡部校長の許可を得て愛媛懸護國神社・波(は)爾(に)荘(さかえ)宮司の努力で護國神社境内に再建立された。石碑が割れているのは、撤去作業時に破損したものである。秋山好古は当時、北豫中学校長在任中で、清水小学校の直ぐ近くにあった。醵金建立した先生方の名前は石碑裏面に刻印してあったが、風化が激しく殆ど読み取る事が出来ない。

平成7年10月、愛媛懸護國神社境内に再建立された「天壌無窮」の石碑。

天壌無窮とは、天地とともにきわまりのないこと。永遠に続くこと。(広辞苑)古が揮毫した

宇和島市吉田町・安楽寺に再建立された「忠魂碑」

旧、愛媛県北宇和郡喜佐方村立喜佐方小学校(現、宇和島市立喜佐方小学校)前に建立されていた石碑。

日清・日露戦争で名誉な戦死をされた方々の忠魂碑である。昭和20年11月、GHQの命令で石碑が撤去されることになった。安楽寺・奥山住職は、身の危険もかえりみず「私が罪を被るから、我が寺に引き取り保存する」と断言されそれ以来、安楽寺がこの石碑を守り現在に至っている。

安楽寺の奥様に聞きました。・・

「好古にこの忠魂碑の揮毫依頼をしたのは、亀三郎さんですか」と、安楽寺奥山住職の奥様曰く、「そうでしょうね」と答え、さらに「現代の人々は、この時代のことなど関心がなくなりました。

NHKで坂の上の雲が放映されるので、時代を振り返り、良いものはどしどし取り入れて立派な国づくりの一助になればいいですね」と述べられた。

昭和48年5月27日、喜佐方公民館傍に、日清・日露・大東亜戦争で戦死された英霊を祭る忠霊塔が建立され、関係者の一人が、安楽寺住職に、忠魂碑はもういらないのではないかと言葉を漏らすと、奥山住職は激怒されたそうだ。忠霊塔と、この忠魂碑は訳が違うのだ、貴方は忠魂碑の意味が分かってないと言われたそうです。

大正14年12月6日、第一女子・昭宮(てるのみや)成子(しげこ)内親王御誕生記念に愛媛県立松山農学校(後の、愛媛大学農学部付属農業高等学校・現、愛媛大学付属高等学校)から揮毫依頼を受け秋山好古が揮毫した「質実剛健」の扁額である。

この扁額は、職員室に掲示されていたが、昭和20年11月、GHQの命令で扁額は撤去されることになった。

撤去された扁額は、額から外され箱に入れられ保管していたが、平成17年10月、私の知人である愛媛大学農学部付属高等学校の久山副校長先生から、秋山兄弟生誕地に寄贈しますが如何されますかと連絡があり、寄託の形で譲り受け、新たに額を新調し、現在、秋山兄弟武道場に掲示し来館者に閲覧してもらっている。

注:愛媛県立松山農学校は、現在の愛媛県警松山東警察署にあった。

研精而不倦、途中でやめることなく、何処までも勉強し尽くす・・の意味の扁額で、愛媛県立伊予農業高等学校の職員室に掲示してある。

この扁額も、昭和20年11月、GHQの命令で扁額は撤去されることになった。

平成25年3月20日、愛媛県立伊予農業高校の日山先生から秋山兄弟生誕地経由で私に連絡があった。大洲市長浜の三島神社に秋山好古揮毫の石碑がありますがご存知ですかと、日山先生も個人的にいろいろな石碑の調査をされているようでした。この石碑未調査であったので同年4月4日、現地に行った。そしてその後、伊予農業高等学校にお礼に行くと、職員室に秋山好古揮毫の扁額が掲示してあった。

私が伺った当時の校長、岩村校長先生曰く、校長先生も代が変わりどの様な経緯で秋山好古さんに揮毫を依頼したのかは不明ですが、GHQの命令で撤去され、当時の校長先生が、自宅に持ち帰り保管され、日本の主権が回復したあと、もとあった学校に掲示し現在に至っていますと伺った。

いろんな方々が廃棄するのでなく、その時の関係者が心を籠めて揮毫し、建立し、掲示され大切に保存されていたものを、それを引き継ぎ、現在も存続しているこの気持ちが大切であり、これぞ日本人魂であると感じた。

終戦後、日本を占領下にしたGHQの一番の目的は、「日本人から愛国心を奪い、日本人の精神を弱体化させる事」 が重要な使命任務で、よくGHQの洗脳政策とも言われた。

GHQは、いろんな大きな改革を行い連合軍最高司令長官・マッカーサー元帥は、戦後日本の処理を行った。

最高司令長官「マッカーサー元帥」は朝鮮動乱での作戦面でトールーマン大統領と意見が衝突し、昭和26年4月11日、最高司令長官・マッカーサー元帥は解任され、昭和26年4月16日、羽田から日本を去った。日本在籍6年8ヶ月であった。

昭和39年4月5日逝去84歳であった。

昭和26年4月19日、米国上下議会で退任演説「老兵は死なず ただ消え去るのみ」有名な言葉である。

そして、最後の言葉に「戦後日本国民は、近代史に記録された中では、最も大きな改革を体験してきた。私は占領軍の4個師団を朝鮮に送りましたが、日本に生じる”力の空白”については何の不安もありませんでした。結果は、まさに、私が確信していた通りでした。

日本ほど穏やかで秩序のある勤勉な国は知りません。

また、日本ほど将来人類の進歩に貢献することが期待できる国もないでしょう。・・と退任演説で語られた。

 

 

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