論理は形式が整っているだけではダメ

2011-05-19 21:43:58 | 塾あれこれ
論理にルートは必要です。
が、形が整っていればそれでよし、とはいきません。
ギリシャの昔から言われていることですね。

原発はやめよう、という論理もあれば
原発は必要だ、という論理もあります。

客観的に見ればどちらもそれなりに正しいと言えます。

けれど、一人の人間が相反する二つの論理を肯んじる
ことはできないのです。
ここが勘違いしやすいところですね。

あちらも分かる、こちらも分かる、と思いがちです。

原発は危険だから止めよう、も分かるけれど
現実問題としては必要なのではないか、
そう迷う人は多いと思います。

でも「両方を分かっているわけではない」のです。
キツイ言いかたですが、論理を形式的に追うことが
できているだけであって、それで「分かる」わけでは
ありません。

ルビンの壺という有名なだまし絵がありますね。
壺に見えたり、二人の横顔に見えたりします。
壺と横顔が同時に見えることはないそうです。

それとよく似ていて視点を動かせばアチラに動きます。

「理屈は分かるけれどなあ。
現実問題として東京に原発ちゅうわけにはいかんだろ」
こう思う人はごりごりの原発推進派と同じ仲間です。

言い訳をしない人のほうがマシですかね。

(苦渋の選択)(好きで選んでいるのじゃない)
などとものを考えているふりはされますが同じ穴の貉。

「論理」は視点がしっかりと定まらねばなりません。

そこにコミットする人間の生きかたと繋がるもので
なくてはなりません。

どんな小さな論理でも人間存在に結びついています。

ですから「しかし現実を考えると・・」などと口走る
ヤカラは論理を放棄し我が利に走った、と思うのです。


論理と実行は違うものです。

原理主義者のように猪突することは危険でしょう。

たとえ原発に反対でも、一気に廃棄というシナリオが
描けるかどうか、疑問です。
何十年もかけてきた現実は何十年もかけて修正する
それが普通でしょう。

要はビジョンを描き具体的に計画することです。

80年代のエネルギー状況に戻ってよいのか、などと
言われますが、そのころでも決してキツイ生活を
していたわけではありません。
十分に豊かな日本ではなかったでしょうか。

一気に戻るのはシンドイけれど時間をかければ
戻ることのできる状況だと考えます。

ただ、自然が戻るか、これは不安ですね。