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kan-haruの日記

イベント 東京藝術大学大学美術館 鶯谷から上野まで古寺・古建築を巡り夏目漱石の美術世界展を見るその1

2013年08月12日 | イベント
kan-haru blog 2013 「夏目漱石の美術世界展」看板     

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上野の山散策し「夏目漱石の美術世界展」を見る
東京藝術大学大学美術館では、「夏目漱石の美術世界展」を 5月14日~7月7日まで開催しておりました。近代日本を代表する文豪の夏目漱石(1867-1916)が、日本美術やイギリス美術に造詣が深く、作品のなかにもしばしば言及されていますが、この展示会では漱石の文学作品や美術批評に登場する画家、作品を可能なかぎり集めて、伊藤若冲、渡辺崋山、ターナー、ミレイ、青木繁、黒田清輝、横山大観といった古今東西の画家たちの作品を、漱石の眼を通して見直してみる試みの展示会であるとのこといなので、興味を持ち6月28日に見てきました。

 「夏目漱石の美術世界展」パンフレット

上野は、美術館や博物館が多くしばしば訪れますが、殆ど上野駅から目的の展示館に直行して、展示物を観賞して自宅に戻る行程でした。今回は、「夏目漱石の美術世界展」の観賞時間を多少詰めて、上野の山を若干散策して古寺・古建築を巡るコースを取り、鶯谷から出発して、上野の山を縦断してみました。

 東京藝術大学大学美術館展示観賞と上野の山巡り地図

・東叡山寛永寺と開山堂
鶯谷駅から忍岡中学校沿いに坂を昇り、突き当りを右折して直進すると上野中学校の先に東叡山寛永寺根本中堂(台東区上野桜木1-14-11)があります。現在の根本中堂は、1879年(明治12年)に川越の喜多院本地堂を山内子院の大慈院の地に移築し再建されたものが現在の寛永寺です。寛永寺根本中堂の御本尊は、伝教大師最澄上人の御自刻とされる薬師瑠璃光如来像(国指定重要文化財)を秘仏としてお祀りしてあります。
今回は、時間の関係で根本中堂には寄らずに、鶯谷駅からの道を突き当りで左折して、寛永寺子院本覚院(台東区上野公園16-22)角を右折して進むと、その先は寛永寺開山堂両大師堂(台東区上野公園14-5)で横門から入りました。開山堂の創建は、1644 年(正保元年)ですが、1868年(慶応4年)の上野戦争では焼け残ったが、1989年(平成元年)に火災に遭い、1781年(天明元年)再建の開山堂と寛政4年(1792年)再建の本堂が焼失しました。現在のお堂は平成5年に再建されたもので、東叡山の開山である慈眼大師天海大僧正をお祀りしているお堂であり、また天海僧正が尊崇していた慈恵大師良源大僧正もお祀りしているところから、通称は両大師と呼ばれていますが、宗派が天台宗で、山号が東叡山で寺院名は輪王寺と称します。
輪王寺はもと寛永寺の伽藍の一部で、開山堂または慈眼堂と称されていました。境内西側に本堂(1993年再建)、東側に輪王殿があります。

 開山堂両大師堂(:開山堂両大師堂山門、:開山堂本堂)

輪王殿の手前には西隣の東京国立博物館敷地から移築した寛永寺旧本坊表門(重要文化財)が建っています。寛永寺旧本坊表門は、切妻造り本瓦葺、潜門付きの薬医門であり、通称・黒門と称します。現在の東京国立博物館の敷地は、もと寛永寺の本坊であり、黒門はその正面にあった門です。1882年(明治15年)に、東京国立博物館の前身である帝室博物館が上野公園に移転・開館した際にその正門として使用されました。関東大震災の後博物館改築に伴い、1937(年昭和12年)に寛永寺に返還され現在地に移築されて、門扉には上野戦争の際の弾痕があります。1946年(昭和21年)11月29日に、重要文化財(国指定)指定にされました。1989年(平成元年)の火災の際には、焼失をまぬがれました。
本堂前の鐘楼に懸かる梵鐘は、1651年(慶安4年)の製作で、本堂前の参道左右の銅燈籠はもと上野の大猷院(徳川家光)霊廟に奉納されたものです。

 開山堂境内の文化遺跡(:寛永寺旧本坊表門、:銅燈籠と鐘楼)

・江戸時代の寛永寺
上野の山の徳川家建立の寛永寺の歴史を、少し辿って見ます。
徳川家の菩提寺は、家康が関東の地を治めるようになった、1590年(天正18年)に増上寺が選ばれました。増上寺は、1393年(明徳4年)に浄土宗第八祖酉誉聖聰上人によって、武蔵国豊島郷貝塚(現在の千代田区平河町から麹町にかけての土地と伝えられている)に開かれ、1598年(慶長3年)には現在の芝の地に移転しました。
徳川家建立の寛永寺は、現在の上野公園の2倍の面積の約30万5千坪の寺地を有していた云われます。寛永寺の建立は、1622年(元和8年)に江戸幕府2代将軍徳川秀忠公と、当時の天台宗の高僧・天海大僧正は一大寺院の建立を発願しました。秀忠公の隠居後の1625年(寛永2年)の3代将軍徳川家光公の時に今の東京国立博物館の敷地に本坊が建立されました。

 寛永寺古地図(Wikipediaから)

京の比叡山に対し、「東の比叡山」という意味で山号を「東叡山」とし、当時の年号をとって寺号を「寛永寺」としました。1654年(承応3年)に後水尾天皇第3皇子・守澄法親王が入寺して以後は、代々皇族が御門主を務め「輪王寺宮」と尊称され、絶大な宗教的権威をもっていました。

 寛永寺錦絵(Wikipediaから)

その後、堂塔の整備に数十年をかけ、1698年(元禄11年)の5代将軍徳川綱吉公の時、今の上野公園大噴水のあるあたりに本堂の、間口45.5メートル、奥行42メートル、高さ32メートルという規模の根本中堂が完成しました。さらに清水観音堂、不忍池辯天堂、 五重塔、開山堂、大仏殿などの伽藍が競い立ち、子院も各大名の寄進により三十六坊を数えました。やがて徳川将軍家の菩提寺も兼ねて歴代将軍の霊廟も造営されました。
上野の山は、幕末の1868年(慶応4年)に彰義隊の戦の戦場となり、根本中堂をはじめ主要な堂宇は焼失しました。寛永寺は、明治政府によって境内地が没収されましたが、1879年(明治12年)には寛永寺の復興が認められ、現在地に川越喜多院より本地堂を移築し、山内本地堂の用材も加えて、根本中堂として再建されました。また1885年(明治18年)には、輪王寺門跡の門室号が下賜され、天台宗の高僧を輪王寺門跡門主として寛永寺に迎え再出発し、伝教大師作の本尊薬師如来や東山天皇御宸筆「瑠璃殿」の勅額は、戦争の中を無事に運び出され、現在の根本中堂に安置されています。

 歌麿二代喜多川歌麿「新版浮世絵上野東叡山之図」(寛永寺HPから)

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