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大正の板東俘虜収容所を探る
板東俘虜収容所は、1917年(大正6年)徳島県板東町(現・鳴門市のドイツ村公園)に建てられ、青島(ドイツの租借地)で、日本軍隊の捕虜となったドイツ兵のうち約1000名を1917年から1920年まで収容した俘虜収容所です。収容所長の松江豊寿は捕虜の自主活動を奨励し、捕虜に対する公正で人道的、友好的な処置を行ったことで知られています。
板東俘虜収容所を探る
その1記載の昼食をとった「道の駅第九の里」の物産館の建物は、安藝家(徳島県鳴門市大麻町桧字椎尾谷37) バラッケ(旧板東俘虜収容所)を1968年に改築移築した、桁行15間梁間4間、木造平屋建、切妻造、桟瓦葺(建築面積199㎡)の建物です。1917年当初のバラッケは、桁行40間の規模を有し、内部は中央の土間通路を挟み、左右に低い板床を張って2間毎に間仕切られていたもので、軍関係営舎の一般的形態の簡素な建物です。
鳴門市ドイツ館と道の駅第九の里物産館
鳴門市ドイツ館
鳴門市ドイツ館(鳴門市大麻町桧字東山田55-2)は、道の駅第九の里物産館の北方の段を上がったところにあります。
ドイツ館(左・中・右写真拡大)
俘虜収容所の俘虜たちは、俘虜製作展覧会や各地での演劇、演奏会活動など、ドイツ文化を広く板東の町やその周辺の地元の人々に紹介し、その他、 牧畜、製パン、洋菓子、西洋野菜栽培、建築、スポーツなど様々な技術指導をもたらし、日常的に交歓する風景が当たり前でした。
ドイツ館は、1972年(昭和47年)ドイツ兵俘虜と地域の人々との交流を顕彰するため、元俘虜たちから寄贈された資料を中心に建設されました。その後、1993年(平成5年)に、施設の老朽化や収集資料の増加により手狭になってきたので、鳴門市東四国国体記念に、現在地に新ドイツ館が建設され移転しました。観覧料は、大人が400円で、小・中学生が100円で。休館日は、年末と第4月曜日です。
ドイツ館
ドイツ館には、ドイツ兵俘虜達が作成した図書や写真、日用品等を初めとした当時の貴重な資料が数多く保存されており、大正時代の俘虜収容所の概要をジオラマなどで展示してあります。収容所で俘虜が寝泊まりしていたバラッケ(兵舎)は全部で8棟であり、一棟にはおよそ130人が入っていました。
板東俘虜収容所って?(左・中・右写真拡大)
展示場には俘虜たちの活動や交流の模様を史実に忠実に、本物そっくりに模型で再現してあり、今にも動き出しそうです。
俘虜生活再現模型(左・中・右写真拡大)
俘虜収容所の模様は、写真や資料、当時の貴重な展示物が、数多く出展してあります。
ドイツ館の展示物(左・中・右写真拡大)
収容所では、1918年(大正7年)6月1日にドイツ兵捕虜によりベートーヴェンの交響曲「第九」の全曲が演奏され、これが日本での初めての「第九」の演奏です。収容所での演奏では、女性はいないので独唱と合唱は全て男声用に編曲されて、また、ファゴットとコントラファゴットが無かったので、オルガンで代用したようです。ドイツ館の第九シアターでは、当時のドイツ兵たちの音楽活動を紹介し、実物大の人形ロボットが演奏を聴かせてくれます。
この日本初演の「第九」を聞けた日本人は、収容所関係者のみでした。映画『バルトの楽園』(2006年)の物語では、近隣住民を招待してこの第九演奏会を見せたことになっています。
等身大ロボットが模擬で演奏の日本初演の「第九」(左・中・右写真拡大)
バルトの庭
ドイツ館を14時少し過ぎに出て、コース4番目のバルトの庭には県道41号を南に戻り、県道12号との交差点を渡り県道225号に入ると右手がバルトの庭です。
2006年に公開された映画「バルトの楽園」のロケで建設されたセットが、撮影終了後の2009年2月に建物の安全性の理由で閉鎖されました。鳴門市では、ロケセットをNPO法人「ドイツ村(BANDOロケ村)保存会」に移築保存を提案し、それをNPOが受けて3千平方メートルの土地を確保して、ロケセットの建物の営門・管理棟・売店(民家)・衛兵詰所・印刷所・製パン所・洗面所・酒保・兵舎(バラッケ)の8棟を移築し、さらに、保存されていた、実際の収容所で使用された兵舎(バラッケ)1棟も敷地内に移築して、2010年4月25日にオープンしたのが、バルトの庭(鳴門市大麻町桧字宇野神ノ北22-1)です。
観覧料は、大人が400円で、小・中学生が200円で、無料の案内人が付き、見学後酒舗で飲み物がサービスされます。悪天候の時は休館日となります。
バルトの庭
バルトの庭の門前に立つと、奥から軍服姿の兵隊さんが歩調をとって進んできて、皆と並んで敬礼して歓迎してくれます。
バルトの庭の正門(左・中・右写真拡大)
バルトの庭のロケセットには案内が付き、園内を一周します。バルトの庭は、バルトの楽園の旧ロケ村の広さの約1/3の規模です。
バルトの楽園のロケ村を比較して見る(左・中・右写真拡大)
管理棟には、松平健さんが演じた松江所長室や所員の事務室があり、小道具や資料が多数陳列してあります。
管理棟(左・中・右写真拡大)
管理棟内には、ロケセットの小道具や写真などの資料が沢山展示してあり、バルトの楽園のロケ記念の際に訪れたサインボードには松平健さんもサインしてあります。
管理棟内の展示物(左:展示小道具、中:資料展示品、右:バルトの楽園のロケ記念に訪れたサイン)
俘虜たちのプライベート空間の兵舎(バラッケ)は、自由な開放的な生活がかいま見られます。
兵舎第1棟(左:兵舎第1棟入口、中:兵舎第1棟ベット、右:兵舎第1棟捕虜の娯楽施設の手造りボーリング)
将校棟は個室で、窓にはカーテンが付いており、将校には給料が支払わられていたそうです。
将校棟(左:将校棟入り口、中・右:将校棟個室)
俘虜たちは、酒保で楽しくお酒も飲んでいました。
酒保(左・中・右写真拡大)
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大正の板東俘虜収容所を探る
板東俘虜収容所は、1917年(大正6年)徳島県板東町(現・鳴門市のドイツ村公園)に建てられ、青島(ドイツの租借地)で、日本軍隊の捕虜となったドイツ兵のうち約1000名を1917年から1920年まで収容した俘虜収容所です。収容所長の松江豊寿は捕虜の自主活動を奨励し、捕虜に対する公正で人道的、友好的な処置を行ったことで知られています。
板東俘虜収容所を探る
その1記載の昼食をとった「道の駅第九の里」の物産館の建物は、安藝家(徳島県鳴門市大麻町桧字椎尾谷37) バラッケ(旧板東俘虜収容所)を1968年に改築移築した、桁行15間梁間4間、木造平屋建、切妻造、桟瓦葺(建築面積199㎡)の建物です。1917年当初のバラッケは、桁行40間の規模を有し、内部は中央の土間通路を挟み、左右に低い板床を張って2間毎に間仕切られていたもので、軍関係営舎の一般的形態の簡素な建物です。
鳴門市ドイツ館と道の駅第九の里物産館
鳴門市ドイツ館
鳴門市ドイツ館(鳴門市大麻町桧字東山田55-2)は、道の駅第九の里物産館の北方の段を上がったところにあります。
ドイツ館(左・中・右写真拡大)
俘虜収容所の俘虜たちは、俘虜製作展覧会や各地での演劇、演奏会活動など、ドイツ文化を広く板東の町やその周辺の地元の人々に紹介し、その他、 牧畜、製パン、洋菓子、西洋野菜栽培、建築、スポーツなど様々な技術指導をもたらし、日常的に交歓する風景が当たり前でした。
ドイツ館は、1972年(昭和47年)ドイツ兵俘虜と地域の人々との交流を顕彰するため、元俘虜たちから寄贈された資料を中心に建設されました。その後、1993年(平成5年)に、施設の老朽化や収集資料の増加により手狭になってきたので、鳴門市東四国国体記念に、現在地に新ドイツ館が建設され移転しました。観覧料は、大人が400円で、小・中学生が100円で。休館日は、年末と第4月曜日です。
ドイツ館
ドイツ館には、ドイツ兵俘虜達が作成した図書や写真、日用品等を初めとした当時の貴重な資料が数多く保存されており、大正時代の俘虜収容所の概要をジオラマなどで展示してあります。収容所で俘虜が寝泊まりしていたバラッケ(兵舎)は全部で8棟であり、一棟にはおよそ130人が入っていました。
板東俘虜収容所って?(左・中・右写真拡大)
展示場には俘虜たちの活動や交流の模様を史実に忠実に、本物そっくりに模型で再現してあり、今にも動き出しそうです。
俘虜生活再現模型(左・中・右写真拡大)
俘虜収容所の模様は、写真や資料、当時の貴重な展示物が、数多く出展してあります。
ドイツ館の展示物(左・中・右写真拡大)
収容所では、1918年(大正7年)6月1日にドイツ兵捕虜によりベートーヴェンの交響曲「第九」の全曲が演奏され、これが日本での初めての「第九」の演奏です。収容所での演奏では、女性はいないので独唱と合唱は全て男声用に編曲されて、また、ファゴットとコントラファゴットが無かったので、オルガンで代用したようです。ドイツ館の第九シアターでは、当時のドイツ兵たちの音楽活動を紹介し、実物大の人形ロボットが演奏を聴かせてくれます。
この日本初演の「第九」を聞けた日本人は、収容所関係者のみでした。映画『バルトの楽園』(2006年)の物語では、近隣住民を招待してこの第九演奏会を見せたことになっています。
等身大ロボットが模擬で演奏の日本初演の「第九」(左・中・右写真拡大)
バルトの庭
ドイツ館を14時少し過ぎに出て、コース4番目のバルトの庭には県道41号を南に戻り、県道12号との交差点を渡り県道225号に入ると右手がバルトの庭です。
2006年に公開された映画「バルトの楽園」のロケで建設されたセットが、撮影終了後の2009年2月に建物の安全性の理由で閉鎖されました。鳴門市では、ロケセットをNPO法人「ドイツ村(BANDOロケ村)保存会」に移築保存を提案し、それをNPOが受けて3千平方メートルの土地を確保して、ロケセットの建物の営門・管理棟・売店(民家)・衛兵詰所・印刷所・製パン所・洗面所・酒保・兵舎(バラッケ)の8棟を移築し、さらに、保存されていた、実際の収容所で使用された兵舎(バラッケ)1棟も敷地内に移築して、2010年4月25日にオープンしたのが、バルトの庭(鳴門市大麻町桧字宇野神ノ北22-1)です。
観覧料は、大人が400円で、小・中学生が200円で、無料の案内人が付き、見学後酒舗で飲み物がサービスされます。悪天候の時は休館日となります。
バルトの庭
バルトの庭の門前に立つと、奥から軍服姿の兵隊さんが歩調をとって進んできて、皆と並んで敬礼して歓迎してくれます。
バルトの庭の正門(左・中・右写真拡大)
バルトの庭のロケセットには案内が付き、園内を一周します。バルトの庭は、バルトの楽園の旧ロケ村の広さの約1/3の規模です。
バルトの楽園のロケ村を比較して見る(左・中・右写真拡大)
管理棟には、松平健さんが演じた松江所長室や所員の事務室があり、小道具や資料が多数陳列してあります。
管理棟(左・中・右写真拡大)
管理棟内には、ロケセットの小道具や写真などの資料が沢山展示してあり、バルトの楽園のロケ記念の際に訪れたサインボードには松平健さんもサインしてあります。
管理棟内の展示物(左:展示小道具、中:資料展示品、右:バルトの楽園のロケ記念に訪れたサイン)
俘虜たちのプライベート空間の兵舎(バラッケ)は、自由な開放的な生活がかいま見られます。
兵舎第1棟(左:兵舎第1棟入口、中:兵舎第1棟ベット、右:兵舎第1棟捕虜の娯楽施設の手造りボーリング)
将校棟は個室で、窓にはカーテンが付いており、将校には給料が支払わられていたそうです。
将校棟(左:将校棟入り口、中・右:将校棟個室)
俘虜たちは、酒保で楽しくお酒も飲んでいました。
酒保(左・中・右写真拡大)
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