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大森町界隈あれこれ 諏訪神社 東日本大震災で損傷の鳥居修復なって初午と針供養を迎えるその2

2012年02月22日 | 大森町界隈あれこれ 社寺
kan-haru blog 2012 二の午祭り    
    
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諏訪神社の初午祭り・針供養
諏訪神社では、初午祭りの日に針供養を行うのがしきたりになっています。2012年は2月4日が立春で、前日の3日が節分祭にあたり、また同日は初午の日とも合致しましたので、今年の初午祭りは二の午の日の15日に行われました。
・二の午祭り
初午は、本来は旧暦二月の最初の午の日を云うが、現在の新暦では2月の最初の午の日とされています。初午祭は、2月の最初の午の日に行う稲荷社の縁日であり、稲荷社の本社である京都の伏見稲荷大社は、711年(和銅4年・奈良時代)の初午の日に稲荷大神が鎮座されたといわれております。この日をしのび、全国の稲荷神社で盛大にお祭り(初午大祭)が行われます。稲荷は「稲生(いねなり)」が縮まったもので、「稲」の神様「御饌神(みけつがみ)」(食物の神様)を 祀ったものであることから、商売繁盛、五穀豊穣などを祈願します。
もともと初午は、その年の豊作祈願が原型で、それに稲荷信仰が結びついたものであります。その1で記述の様に創建時の諏訪神社の周囲は一面田んぼであり、当時の氏子は豊作を祈願して初午祭を行っていたのでしょう。
諏訪神社では、末社の稲荷社の初午祭を行います。しかし、2012年は前述のように節分祭と重なりましたので、丁度昨年の東日本大震災で破損を被った神社鳥居の修復を終えた後の、2月15日に二の午祭りが午後3時から執り行われました。

 二の午祭り挙行の諏訪神社(20120215)(:鳥居の修復なって二の午祭り、:二の午祭りの伏見稲荷社)

古来は、立春以降の最初の午の日に行われていたこともあり、今年の諏訪神社の初午祭りは偶然に古来の行事と合致したことになります。
二の午祭りは、午後3時に稲荷社前に神社役員と氏子信者が参列して、神官のお祓いと参拝して式典が行われます。

 伏見稲荷神社末社で初午祭(2011年2月8日挙行)

稲荷社での二の午祭りの式典後に、金山神社にて一同参列して針供養式典が行われ、稲荷社に戻り、午後3時30分から稲荷社前に参列してお祓いを受けた方にお菓子を配り、初午際の終了です。

 二の午子供に人気のお菓子配り(左・中・右写真拡大)

・針供養
針供養とは、針を使う仕事を休んで、古くなった針や折れてしまった針を、こんにゃくや豆腐などに刺したり、紙に包んで神社に奉納したり、川に流したりして供養する行事で、関東地方では2月8日、関西地方では12月8日に行われることが多いようです。
昔の女性にとっては、裁縫は重要な仕事の一つであり、大事な針に感謝し、裁縫が上手になるようにと神様にお願いしていました。そこで一生懸命、一緒に働いてきた古くなった針を、楽をして休んでもらうようにと、「事始め」の2月8日または、「事納め」の12月8日に、豆腐やこんにゃくに、古くなった針を刺して針供養をしていたのです。
針供養の式典は初午の式典の終了後に、神官と共に神社役員と氏子信者が社外末社の金山神社に参列し、針供養の豆腐を神社に捧げて、お祓いの式典をあげて参拝します。

 末社金山神社での針供養式典(2011年2月8日挙行)

針供養の式典後、稲荷社に戻り初午際のお菓子を配り、社務所でお倣いをして恒例の春の行事が終わります。

 金山神社の針供養2012年

諏訪神社の災害
明治以降の大森町諏訪神社が受けた災害は、3度あり、その一つは、1923年(大正12年)9月1日に、神奈川県相模湾北西沖80kmを震源として発生したマグニチュード7.9の大正関東地震で、2つ目は昨2011年3月11日に宮城県牡鹿半島の東南東沖130kmの海底を震源として発生したマグニチュード9.0の東北地方太平洋沖地震で、3つ目の戦災は、1939年から1945年にかけ、ドイツ、イタリア、日本の三国同盟枢軸国陣営と、イギリス、フランス、アメリカ、ソ連、中華民国などの連合国陣営との間で戦われた全世界的規模の戦争で、日本は英米との1941年12月の開戦によって、1945年4月15日の焼夷弾を用いた東京大空襲により、北方の磐井神社から南方の六郷川までと、東方の三原通り・駿河屋通りから西方のJR線までの地域は、完全に焦土化した戦災です。
このうち関東大震災で諏訪神社が被った災害は、大戦で資料が焼失のため定かではありません。
・世界大戦での神殿焼失
1945年4月15日の大空襲で大森町は焦土化(「大森町界隈あれこれ 鎮魂!大森町大空襲(第6回~第11回)」参照)となり、諏訪神社は本殿、末社、神楽殿と社務所などの建築物は全焼して、残った物は鳥居、狛犬、石灯籠、石塀などの石造物以外は跡形もなくなりました。

 高度1,524mからの大森町上空戦災の航空写真(1947年7月9日撮影)(国土地理院から)

・鳥居の東日本地災被害
昨年3月11日の東日本大震災に遭遇して、諏訪神社の1824年(文政7年)甲申歳9月吉日建立の石造り明神型の鳥居が損傷の被害を蒙りました。そこで、早速鳥居に鎖を巻いて落下防止の応急処置が行われました。その後、鳥居修復の準備が整った2月8日から、修復工事が行われ、二の午祭前には完全に修復が完了して、復元なった鳥居のもとで目出度く二の午祭が挙行されました。

 東日本大震災で損傷を受けた文政7年再建の鳥居(左上:東日本大震災で損傷した鳥居111228、中上右上左下中下右下:地震で損傷修復中の文政7年再建の鳥居120208)

御神紋
諏訪神社の本社の諏訪大社は、長野県の諏訪湖の周辺に4箇所の境内地(上社本宮、上社前宮、下社秋宮、下社春宮)をもつ神社です。
信濃國一之宮。神位は正一位。全国各地にある諏訪神社総本社であり、 国内にある最も古い神社の一つとされております。諏訪大社には本殿と呼ばれる建物が無く、下社の秋宮は一位の木を春宮は杉の木を御神木とし、上社は御山を御神体として拝しております。諏訪明神は古くは風・水の守護神で五穀豊穣を祈る神。また武勇の神として広く信迎され、現在は生命の根源・生活の源を守る神として御神徳は広大無辺で、多くの方が参拝に訪れます。
全国に分布する御分社は一万有余社を数えお諏訪さま、諏訪大明神と親しまれていて、古くからある風や水に直接関係のある農業の守護神としての信仰が厚く。また水の信仰が海の守り神となり、古くからある港の近くには必ずと言っても良い程にお諏訪さまがお祀りされております。
1871年(明治4年)に国幣中社に列格、1896年(明治29年)に官幣中社、1916年(大正5年)に官幣大社に昇格し、終戦を迎え1948年(昭和23年)に諏訪大社と改称致しました。
諏訪大社では御神紋として、梶(カジ)の木の葉をモチーフにした紋を使用していますが、上社と下社のそれぞれの梶紋には微妙な違いがあり、上社の梶紋は「諏訪梶」と呼ばれ、木の根に当たる部分が4本で、下社の梶紋は「明神梶」と呼ばれ、根に当たる部分が5本あります。

 諏訪大社の梶紋(左:諏訪梶紋、中:明神梶紋、右:梶葉紋)

地元の諏訪神社分社の左右の防火桶および神楽殿幕には、「諏訪梶」と「明神梶」が付けられております。

 諏訪梶・明神梶紋(:左防化桶の諏訪梶紋、:右防化桶の明神梶紋、:神楽殿張幕の諏訪梶・明神梶紋)

本殿の飾り幕、賽銭箱や手水舎の水盤および幟には葉の数が一枚の「梶葉紋」が付けられており、地元の諏訪神社では3種の御神紋を用いています。

 諏訪神社御神紋の梶葉紋(:本殿の幕・賽銭箱の梶葉紋、:手水舎水盤の梶葉紋、:幡の梶葉紋)

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